第16話 それでも届かない
それまでとは比べものにならない魔力が、頭上で弾けた。
「――っ!」
最初に消えたのは音だった。いや、違う。大きすぎる音に、耳が追いつかなかった。
視界いっぱいに白い光が広がり、その直後、身体を横から殴られたような衝撃が来る。
「マギカさん! 鹿目さん!」
マミさんの声だけが、妙にはっきり聞こえた。
黄色いリボンが何重にも広がり、俺とまどかの前へ壁を作る。その向こうへマスケットが次々と並び、迫っていた瓦礫を連続した砲撃で片っ端から砕いていく。
一つ。二つ。
数える意味がない。
砕けた破片の向こうから、また別の破片が飛んでくる。
さっきまでの戦いとは違う。足場を選ぶ余裕も、敵を見てから避ける時間もない。
街そのものが、まとめて投げつけられてくる。
「右!」
マミさんに言われるより早く、まどかが身体を捻った。その脇を鉄骨が唸りながら抜けていく。
俺も反射的にスペッキオ・ファントムを使う。
駄目だ。
位置をずらした先ごと、広範囲の風圧が薙ぎ払ってくる。
「ぐっ……!」
踏ん張っていた足場が砕けた。
落ちる。
その身体を、またマミさんのリボンが拾った。
「マギカさん、無理に前へ出ない!」
「でも本体が――」
「今は耐える!」
強い声だった。
それでも、その直後にマミさん自身の身体が大きく揺れた。
さっきまでなら一歩で立て直していた。
今は二歩かかる。
その間にも、ワルプルギスは笑っている。こちらが必死に耐えていることなんて、知らないみたいに。
マミさんがリボンを張る。
まどかが瓦礫を射抜く。
俺が使い魔を斬る。
まだ形にはなっている。
でも、さっきとは違う。
同じ三人で戦っているのに、余裕だけが一瞬で消えた。
「鹿目さん、下!」
「え――」
地面近くを走ってきた巨大な破片へ、マミさんがマスケットを向ける。
撃つ。
砕ける。
その直後、今度は上から使い魔。
リボン。拘束。銃撃。
俺の横を抜けようとした一体まで落とし、まどかへ向かっていた瓦礫の軌道も変える。それでも、本体への攻撃は止めない。
やっぱり、この人が一番強い。
こんな状況でもまだ戦場を回している。俺とまどかが戦えているのは、マミさんが全部の穴を埋めているからだ。
「マミさん! 左!」
「分かってる!」
黄色いリボンが広がる。
その向こうで、巨大な影が回った。
次の瞬間。
何かが来た。
瓦礫だったのか、使い魔だったのか、それとも衝撃波だったのか。後から思い返しても分からなかった。
ただ。
マミさんがこちらへ振り向いたことだけは覚えている。
「二人とも、伏せて!」
リボンが俺とまどかを、地面へ叩きつけるように引いた。
同時に、黄色い光が弾けた。
高い音。
ガラスが割れるより、ずっと小さな音だった。
「……え?」
胸の奥が冷えた。
マミさんの頭部。
髪飾りのように輝いていたソウルジェムが、砕けていた。
黄色い破片が、光を失いながら散っていく。
それだけだった。
血も出ない。
悲鳴もない。
マミさんの目から、ただ力が消えた。
「マミさん?」
返事はなかった。
衣装がほどける。
黄色い魔法少女の姿が消え、制服姿へ戻った身体が、そのまま空中から落ちた。
「マミさん!」
考えるより先に走った。
足場を蹴り、落ちてくる身体へ腕を伸ばす。
重い。
抱き止めた瞬間、その当たり前の重さに息が詰まった。
「っ……」
リボンはもう出てこない。
俺はそのまま瓦礫の影へ飛び込み、マミさんを抱えたまま地面を転がった。頭の上を何かが通り過ぎる。
でも、もう見ていなかった。
「マミさん」
返事がない。
顔はいつものままだった。目を閉じているだけ。肩もある。腕もある。
身体も、まだ温かい。
さっきまで俺へ指示を飛ばしていた人が、そのまま腕の中にいる。
「……マミさん」
もう一度呼ぶ。
何もない。
知っていた。
ソウルジェムが魂そのものだって。
魔法少女の身体は、魂から切り離された器だって。
原作を見ていたから、知識としては最初から知っていた。
でも、これは違う。
さっきまで一緒に戦っていた身体なのに、もうここにマミさんはいない。
温かいはずの身体が、ひどく冷たく感じた。
知ってた。
巴マミが死ぬことも。
原作で見ていた。
でも、画面の中にいた巴マミと、腕の中にいる巴マミは別物だった。
お茶を淹れてくれた。
刀の握り方を教えてくれた。
勝手に無茶をすると怒られた。
師匠って呼んだら、少し嬉しそうにしていた。
まだ中学生だった。
「…………」
喉が動かない。
泣いている暇なんてない。
分かってる。
遠くではまだ、まどかの矢が飛んでいる。ワルプルギスも止まっていない。
分かってるのに、腕が離れなかった。
「……少し待ってて」
何を言ってるんだ。
死んでる。
待てるわけがない。
それでも、そう言うしかなかった。
崩れた壁の陰へマミさんをそっと寝かせる。髪が顔にかかっていた。
指で避ける。
それだけして、立った。
膝が少し震えていた。
俺は何者なんだろう。
契約した記憶もない。
身体は田中のもの。
魔法少女の力だって、本当に俺のものなのか分からない。
何もかも借り物みたいだ。
それでも、マミさんから教わったことだけは、確かに俺の中にある。
まどかがまだ戦っている。
なら、今だけは魔法少女としてやるしかない。
奇跡も魔法もある。
実際に、この世界にはある。
だったら、まだ何か。
何か一つくらい。
そう思ってしまう自分がいた。
「マミさん……?」
後ろから声がした。
振り返る。
眼鏡。三つ編み。
ほむらだった。
「なんで……」
来た。
田中として止めた。
マギカとしても止めた。
それでも来た。
ほむらは俺を見て、その横へ寝かされたマミさんを見る。
足が止まった。
「マミさん……死んじゃったの……?」
答えられなかった。
それで十分だったらしい。
ほむらの顔から血の気が引く。
「そんな……」
何もできない。
それが、見ているだけで分かった。
触れても戻せない。
魔法も使えない。
戦うこともできない。
少し前まで「私にも何かできませんか」と言っていた少女が、今は本当に何もできずに立っている。
ほむらはマミさんから目を離せないまま、震える指で胸元を握った。
「巴さん……あんなに強かったのに」
「…………」
「私たちを何度も助けてくれて、あんなにたくさん魔女と戦ってきた人なのに……」
そこで声が止まった。
ほむらの視線が、ゆっくり戦場へ向く。
崩れた街の向こうで、桃色の光が一度だけ空を走った。
「じゃあ……鹿目さんも……?」
最後までは言えなかった。
言葉にしてしまえば、本当にそうなってしまうとでも思ったみたいに。
「ほむら」
思わず名前を呼ぶ。
マギカとして呼んだのに、田中の時と同じ呼び方だった。
「まだ決まってない」
自分でも、ずるい言い方だと思った。
大丈夫だとは言えない。
俺は、この先に何が起こるのか知っている。
それでも今のほむらに、それを認めることだけはできなかった。
「まどかは、まだ戦ってる」
ほむらも遠くの桃色の光を見る。
「だから今は、ここから動くな」
「でも……鹿目さんは一人で……」
「分かってる」
マミさんが死んだ。
俺もここにいる。
原作とは違う。
それでも、あそこにいるまどかが安全だなんて保証はどこにもない。
その時、桃色の光がこちらへ近づいてきた。
「マミさん!」
まどかだった。
着地するより早く走り出し、俺の横を抜けて、寝かされた身体の前で膝をつく。
「マミさん……?」
返事はない。
まどかの手が、マミさんの肩へ触れる。
何度か揺らす。
動かない。
「……そんな」
声が震えた。
泣きそうな顔だった。
でも遠くで、また笑い声が響く。
街が揺れる。
まどかは顔を上げた。
その目に、もう答えが出ていた。
「鹿目さん……!」
ほむらが呼ぶ。
まどかはゆっくり振り返った。
その瞬間、俺は黙った。
ここは俺が入るところじゃない。
原作を知っているからじゃない。
目の前の二人を見れば分かる。
ほむらは何もできない自分を責めている。
まどかは、それでもそんなほむらへ笑おうとしている。
二人の間に、俺が挟まる理由がない。
「ほむらちゃん」
まどかの声は震えていた。
それでも、ちゃんとほむらを見ていた。
「会えてよかった」
「鹿目さん……」
「友達になれて、私、嬉しかったよ」
ほむらの目から涙が落ちる。
「私、何も……何もできなくて……」
「そんなことないよ」
まどかは首を振った。
黒猫一匹を助けたくて、魔法少女になった少女。
そんな小さくて優しい願いから始まった子が、今は街一つを背負っている。
原作では知っていた。
でも、目の前で見ると重さが違う。
俺は仮面へ指を掛け、少しずれていた位置を直した。
鏡面刀を握る。
「……先に行ってる」
まどかが俺を見る。
ほんの一瞬だけ、悲しそうな顔をした。
「うん」
それだけだった。
俺は走った。
「マギカさん……!」
後ろから、ほむらの声が聞こえた気がした。
振り返らなかった。
◇
マミさんはいない。
それだけで、戦場は別物だった。
足場がない。
リボンがない。
瓦礫を止めてくれる人がいない。
使い魔をまとめて処理してくれる人もいない。
俺は地面を蹴り、崩れた建物の壁を足場にして前へ出る。
使い魔が来る。
スペッキオ・ファントム。
位置を一度だけずらす。
外れた。
斬る。
次。
また斬る。
前へ。
それでも本体は遠い。
鏡面刀では届かない。
足場もない。
「…………」
方法はある。
分かっている。
でも、一瞬だけ躊躇した。
さっき腕の中で死んだ人。
その姿へ。
その力へ。
その戦い方へ。
今から俺が成り代わる。
気持ち悪い。
それでも、使わなければ届かない。
鏡面刀を握る。
「俺は――」
喉が詰まる。
それでも言った。
「巴マミだ」
魔力が跳ねた。
銀白の衣装へ黄色が走り、肩からリボンが伸びる。刀の輪郭が崩れ、一本、二本、三本とマスケットへ形を変えていく。
前より多い。
それでも、本物より遅い。
輪郭も甘い。
撃つ。
反動が腕へ残る。
もう一発。
使い魔が落ちる。
「もっと……」
足りない。
通常のマスケットじゃ届かない。
頭の中へ、マミさんの動きが浮かぶ。
見ていた。
教わった。
何度も。
身体が勝手に次を選ぶ。
リボンが広がる。
マスケットではない。
もっと大きな輪郭。
「っ……」
魔力が一気に持っていかれる。
銃身が伸び、黄色い光が集まる。
構え方なんて教わっていない。
なのに腕が動く。
腰を落とす。
肩を固定する。
狙いをつける。
そして、俺が考えるより先に言葉が出た。
「ティロ――」
胸の奥が痛んだ。
「フィナーレ!」
黄色い閃光が走った。
視界が一瞬だけ白く染まり、巨大な砲撃がワルプルギスへ直撃する。
空そのものが揺れた。
爆煙。
衝撃。
足元の瓦礫まで吹き飛ぶ。
「はっ……」
一発。
たった一発で、息が上がった。
指先が震える。
膝が落ちそうになる。
分かる。
……違う。
マミさんなら、もっと強かった。
もっと速く作れた。
もっと安定していた。
こんな一発で、ここまで魔力を持っていかれたりしなかった。
形だけ真似ても届かない。
俺のこれは、ティロ・フィナーレの形を借りただけだ。
それでも。
撃った。
マミさんから教わったものを、全部使って。
「…………」
その瞬間、胸の奥へ別の感情が混ざった。
焦らないで。
周りを見て。
鹿目さんを守らないと。
まだ私が――
「……マミさん」
違う。
俺だ。
これは俺じゃない。
残っている。
成り代わった相手の何かが。
その事実が、今だけはひどく苦しかった。
桃色の矢が頭上を抜け、爆煙の向こうへ飛び込んで使い魔をまとめて貫く。
「……来たのか」
まどかが俺の隣へ降りた。
目は赤い。
でも、弓は握っている。
「うん」
止めなかった。
もう止めても来る。
それに、俺一人では無理だった。
「行ける?」
まどかに聞かれて、少し笑いそうになった。
俺が聞く側じゃないのか。
「……まだ」
「私も」
二人で前を向く。
ワルプルギスは、まだ笑っていた。
◇
二人になると、マミさんがどれだけのことをしていたのか嫌でも分かった。
使い魔を撃てば、本体への攻撃が止まる。本体へ撃てば、瓦礫が抜ける。瓦礫を防げば、次の足場がない。
まどかが飛ぶ場所を作るだけでも時間がかかる。
「右!」
「うん!」
まどかの矢が使い魔を落とす。
その隙に俺が銃撃。
ワルプルギスへ直撃。
止まらない。
刀へ戻し、近づいて斬る。
意味があるのか分からない。
また離れる。
マスケット。
撃つ。
まどかの矢。
当たる。
全部当たっている。
でも、向こうだけが何も変わらない。
「はっ……はっ……」
まどかの呼吸が荒くなっている。
弓を引く速度も遅い。
ソウルジェムにも濁りが見えた。
「まどか、少し下がれ!」
「でも――」
「いいから!」
言った直後、自分の足もふらついた。
人の心配をしてる場合か。
マミさんへの成り代わり。
ティロ・フィナーレ。
スペッキオ・ファントム。
刀。
全部使った。
胸元のソウルジェムは、さっきより明らかに濁っている。
でも、まだ動く。
なら。
もう一度。
前へ出る。
使い魔が三体。
一体目を斬る。
二体目の位置をずらす。
三体目――
「マギカちゃん!」
まどかの声。
振り返った。
遅かった。
視界いっぱいに瓦礫があった。
避ける場所がない。
後ろには、まどか。
反射で身体をずらす。
まどかの前へ。
「っ――」
衝撃。
何かが身体の横へ食い込んだ。
次の瞬間、景色が全部回った。
空。
地面。
壊れたビル。
また空。
背中から建物へ叩きつけられる。
息が消えた。
「――っ、ぁ……」
声にならない。
そのまま瓦礫の上へ落ちた。
何秒か、何も見えなかった。
白い。
耳鳴りだけがする。
「……」
息を吸う。
痛い。
もう一度。
もっと痛い。
右腕を動かす。
上がらない。
脚。
力が入らない。
「……まど、か」
声だけは出た。
遠くで桃色の光が見える。
まだ戦ってる。
俺は。
動けない。
「何やってんだ、俺……」
原作を知ってた。
準備した。
訓練もした。
マミさんもいた。
三人で戦った。
原作より条件はよかった。
それなのに。
マミさんは死んだ。
まどかは一人で戦ってる。
俺は瓦礫の中。
何も変えられてない。
「…………」
身体を起こそうとする。
腕が震えるだけだった。
もう一度。
無理。
ここで無理に立って、また一発もらえば。
死ぬ。
その考えが、妙に冷静に頭へ浮かんだ。
死ぬまで戦う。
それなら、格好はつくのかもしれない。
でも、もう戦えない。
なら。
生き残る。
胸元を庇うように身体を丸める。
ソウルジェム。
これだけは割らせない。
呼吸を整える。
魔力を止める。
変身を維持する最低限だけ残す。
戦うためじゃない。
生きるために。
その時、思い出した。
「……ほむら」
この後だ。
原作なら、まどかが倒れる。
ほむらが絶望する。
そしてキュゥべえと契約する。
鹿目まどかとの出会いをやり直したい。
彼女を守れる自分になりたい。
そこから、全部が始まる。
でも、今の世界はもう原作と違う。
さやかは契約していない。
マミさんはここまで生きた。
俺までいる。
ほむらだって、原作より前からまどかを守りたいと思っていた。
本当に同じ願いをするのか。
本当に、同じ時間遡行の力を得るのか。
分からない。
だから。
ここだけは。
見届けなきゃいけない。
◇
視界の先に、まどかがいた。
巨大なワルプルギスの前。
一人で。
小さな身体で弓を引いている。
矢が飛ぶ。
当たる。
もう一発。
当たる。
「……まどか」
行けない。
指一本まともに動かせない。
見ていることしかできない。
やがて、まどかの膝が落ちた。
それでも立つ。
弓を構える。
もう一度。
次の攻撃。
桃色の光が途切れた。
「…………」
まどかの身体が倒れる。
知っていた。
この場面も原作で見た。
でも、見たくなかった。
遠くから誰かが走ってくる。
眼鏡。
三つ編み。
ほむら。
「鹿目さん!」
声がここまで聞こえた。
ほむらがまどかのそばへ膝をつく。
肩を抱く。
泣いている。
何度も名前を呼んでいる。
俺は遠くから見るしかない。
助けられない。
動けない。
その時。
白いものが見えた。
「…………」
来た。
キュゥべえ。
瓦礫の向こうから、ほむらの前へ歩いていく。
身体の痛みが一瞬だけ遠のいた。
意識だけが妙に冴える。
ほむらが顔を上げる。
キュゥべえが、その前に立つ。
何かを話している。
風の音が邪魔をして、まだ聞こえない。
「……まだ」
喉が痛い。
それでも、目を閉じなかった。
まだだ。
まだ、死ねない。
ここだけは。
この願いだけは、聞かなきゃいけない。