俺は?
答えは返ってこなかった。
暁美ほむらの姿が、少しずつ遠ざかっていく。いや、距離が離れているわけじゃない。目の前にいるはずなのに、その輪郭だけが薄い膜の向こうへ移っていくように見えた。
「……待て」
喉から掠れた声が出る。右腕は瓦礫に挟まれたまま、脚も動かない。追いかけるどころか、指一本まともに持ち上げられなかった。
「待っ……」
呼び止めてどうする。
ほむらには時間を越える魔法がある。俺にはない。
成り代わり。認識をずらすこと。身体能力の強化。マミさんの力を借りること。今まで使えたものを頭の中でいくら並べても、別の時間軸へ移る方法なんて一つも出てこなかった。
当たり前だ。
俺はそんな願いをしていない。そもそも、自分が何を願ったのかすら分かっていない。
「……嘘だろ」
そこでようやく、恐怖が追いついた。
ほむらは次へ行く。鹿目まどかと出会う前へ。
なら、この時間軸はどうなる?
視線を動かす。燃えている建物は燃えたまま。道路を埋める瓦礫も、砕けた窓も、折れた街灯も、何一つ元には戻っていない。少し離れた場所にはマミさんが倒れ、その先にはまどかもいる。ワルプルギスに壊された街も、全部そのまま残っている。
この世界は消えていない。
ほむらだけが、ここから出ていく。
「……じゃあ」
口の中が乾いた。
田中として帰る家が残っているのかも分からない。避難所がどうなったのかも、さやかや仁美が無事なのかも分からない。それ以前に、時間軸を越えていくほむらの近くにいた俺自身が、この場所へそのまま残れるのかさえ分からなかった。
「俺……ここに置いていかれるのか?」
死ぬ、とは少し違う。
ほむらだけがやり直せる。俺は失敗した世界の続きに残される。マミさんに刀を教わったことも、まどかと笑ったことも、ほむらと学校で話したことも、全部ここには残っているのに、その本人たちはもういない。
喉の奥が詰まった。
それなら。
◇
ほむらの輪郭がさらに薄くなる。
周囲の空気が揺れ、景色まで僅かに歪んで見える。それでも街そのものには何も起こらない。炎は燃え、煙は昇り、瓦礫も崩れたまま。変わっているのは、ほむらだけだった。
「……こうなるのか」
ほむらが過去へ戻ることは知っていた。でも、実際に目の前で見るまで考えたことがなかった。
世界そのものが元へ戻るわけじゃない。
この世界で起きたことは、このまま残る。マミさんが死んだことも、まどかが死んだことも、俺たちがワルプルギスに負けたことも、なかったことにはならない。
ほむらだけが、別の時間軸へ移っていく。
頭ではそこまで分かった。それでも今は、理屈より先に一つのことしか浮かばない。
「待ってくれ」
届かない。
ほむらはこちらを見ない。当然だ。俺が瓦礫の下でまだ意識を保っているなんて知らないし、学校で話した田中と、ここで倒れているマギカが同じだとも知らない。
それでも、ほむらは行く。
まどかを救うために。
「……マジかよ」
魔女に殺されるなら、まだ理解はできる。身体が壊れて、ソウルジェムが砕けて、そこで終わる。
これは違う。
俺だけが、失敗した世界の後ろに取り残される。
この街でそのまま死ぬのか、生き残るのか。それとも、時間軸を越えていくほむらの影響で、もっと別の何かが起きるのか。何も分からなかった。
「……まだ、終わりたくない」
ほとんど声にならない。
マミさんを助けられなかった。まどかも。ワルプルギスにも勝てなかった。さやかだって、この先どうなるか分からない。ほむらは、たった今ようやく自分の願いを選んだばかりだ。
何一つ、ちゃんとできていない。
最初の一回で、ここまでなのか。
そう思った時だった。
胸元が熱くなった。
「……?」
二つ連なったソウルジェムを見る。
一つは銀色。もう一つは、何も入っていないように見えていた透明な方。
銀色の宝石が、脈を打つように震えていた。一度、二度。そのたびに胸の内側まで何かが響き、細い糸ごと遠くへ引かれているような感覚が走る。
「なんだ……?」
ほむらの輪郭が遠ざかるたび、銀色のソウルジェムも僅かに強く脈打つ。
あっちへ行こうとしている。
そんな気がした。
でも、もう一つだけ違った。
透明な方。
「……え」
何もなかったはずの内部に、小さな光がある。
透明な宝石の中心。針の先ほどの金色。それがゆっくりと細い糸のように伸びていく。
亀裂じゃない。割れてもいない。濁りとも違う。透明な水へ金色の絵の具を一滴落としたみたいに、淡い光だけが内部へ残っていた。
こんな状況じゃなければ、しばらく眺めていたかもしれない。それくらい綺麗だった。
「……なんだ、これ」
触れようとしても腕は動かない。ただ見ているしかなかった。
銀色の宝石が、また強く脈打つ。今度は胸の奥まで響いた。
同時に。
『――』
「……?」
聞こえた気がした。
声と呼べるほどはっきりしたものじゃない。音ですらなかったかもしれない。誰かが名前を呼んだわけでも、意味のある言葉になっていたわけでもなかった。
ただ、胸の奥を何かが掠めた。
寂しいような、引き止めるような感覚。
それが何だったのか確かめるより早く、銀色の光が強く瞬いた。
「今の……」
その瞬間、身体が落ちた。
「っ!?」
地面じゃない。
瓦礫はまだ周囲にある。炎も、崩れた街も、その場に残っている。
なのに、自分だけがそこから外れた。
誰かに腕を掴まれたわけでもない。それでも身体の内側だけを強く引かれ、胃が浮き、頭の奥がひっくり返る。
視界の中で、壊れた街が遠ざかっていった。
巻き戻ってはいない。
「待っ――」
どこへ行くのかは分からない。上下すらなく、目を開けているのか閉じているのかも曖昧になる。
それでも、どこかに俺が落ちる場所だけは決まっている気がした。誰かが待っているわけでもない。何かに呼ばれたわけでもない。それなのに、向こう側には俺が入る場所だけがあって、そこへ引かれていく。
壊れた街が見えなくなる。
ワルプルギスも、炎も、瓦礫も、全部そのまま残して。
最後に見えたのは、胸元の二つの光だった。
銀色。
透明。
その奥に残った、小さな金色。
やがて痛みも音も、自分の身体がどこにあるのかという感覚まで消えていった。
意識だけが、暗いところへ沈んでいく。
◇
目を開けた。
「…………」
白い天井。照明。カーテン。窓から差し込む朝の光。
何度も見てきた、自分の部屋だった。
「…………は?」
しばらく天井を見たまま固まる。夢から覚めた直後みたいに、頭だけが状況についてこない。
身体を起こしてみる。
痛くない。
右腕も動く。左脚もある。胸も痛くない。反射的に腹、腕、脚へ触れ、指を握って開いて、もう一度握る。
全部動く。
「え、何」
布団を捲る。
パジャマ。いつもの身体。銀色の髪が肩から落ち、その感触まで妙に現実的だった。
「……俺、生きてる?」
返事はない。
当たり前だけど。
ベッドから降りようとして、一度止まった。
これは、いつだ。
机を見る。
教科書。制服。置いてある小物。机の端へ置いたままにしていたものまで、記憶の中と同じ位置にある。
スマートフォンを掴み、画面をつけた。
「…………」
日付を見る。
もう一度見る。
一度画面を消してから、またつけ直した。
喉が乾いた。
正確には、俺が戻ってきている。
ほむらが転校してくる前。
あの頃へ。
数週間前の時間軸が、また目の前にある。
「いやいやいや……」
ベッドへ座り直し、スマートフォンを握ったまま頭の中を探る。
覚えている。
マミさん。まどか。ほむら。キュゥべえ。魔女。訓練。
マミさんに刀を教えてもらったこと。まどかと話したこと。ほむらと学校で過ごしたこと。ワルプルギスの夜。
砕けたマミさんのソウルジェム。倒れたまどか。泣いていたほむら。
そして。
『鹿目さんとの出会いをやり直したい』
全部残っている。
どこか曖昧な夢の記憶じゃない。誰がどこに立っていたか、何を言ったか、どんな顔をしていたか。
嫌になるくらい覚えている。
「夢……じゃない」
それに、最後に見たものがある。
慌てて机へ向かう。
二つ連なったソウルジェムは、そこにあった。
「……あった」
手に取る。
一つは銀色。もう一つは透明。
形も、繋がり方も同じ。傷もない。砕けてもいない。
見た目だけなら、最初の日と何も変わっていなかった。
でも、窓から入る光へ透かした瞬間、息が止まった。
「……これ」
透明な宝石の中心に、金色がある。
ほんの少し。埃と見間違えるくらい小さな光。
角度を変えても消えない。指で表面を擦っても取れず、宝石を裏返しても中心から動かない。
「なかったよな……これ」
この宝石はずっと透明だった。何も入っていない。キュゥべえにもそう言われた。
なのに今は、中心にだけ小さな金色が残っている。
あの時間軸の最後に見たものと同じだった。
ベッドへ戻り、二つの宝石を掌に載せる。
何が起きた?
ほむらの魔法に引っ張られた可能性はある。でも、ほむらが移動したのは本人の願いと魔法によるものだ。俺まで一緒に連れてくる理由はないし、あの時のほむらは俺がマギカだということすら知らない。
「俺の魔法……?」
成り代わり。
それが時間軸にまで作用した?
俺自身が、次の何かへ成り代わった?
「……いや、なんだそれ」
自分で言っていて意味が分からない。そんなことをした覚えも、発動した感覚もなかった。
「それとも……田中の?」
口にしてから、銀色の宝石を見る。
こっちが何なのかすら、まだちゃんと分かっていない。俺が知らないだけで田中側に何か別の魔法があるのか、それとも二つ連なっていること自体に意味があるのか。
透明な方も同じだ。何も入っていなかったはずなのに、今は金色が一つ増えている。
あの最後に聞こえたものもある。
『――』
思い出そうとしても、やっぱり言葉にはならない。
「キュゥべえに聞く……いや、あいつも分かるのか?」
考えれば考えるほど、分からないことばかり増えていく。
でも、一つだけ確実に分かったことがある。
ほむらとは別の何かに引かれて、この時間軸へ。
「……俺も戻ってきたんだ」
掌の中のソウルジェムを握る。
声にした途端、胸の奥が急に熱くなった。
怖くないわけじゃない。あの最後を覚えている。ワルプルギスの強さも、マミさんが死んだことも、まどかを助けられなかったことも、自分が瓦礫の下で動けなくなったことも。
もう一度同じところまで行けば、また同じ目に遭うかもしれない。次はもっと早く死ぬかもしれない。
でも、全部覚えている。
なら、今度は知っている。
何が足りなかったのか。どこまで準備しても届かなかったのか。どんな場面でマミさんが無理をしていたのか。まどかがどこで消耗したのか。俺の魔法がどこまで通じて、どこから通じなくなったのか。
一度経験したなら、前よりはやれる。
マミさんはもっと強くなれるかもしれない。俺ももっと戦えるようになれる。グリーフシードも集められるし、ワルプルギスへの準備だってもっと早く始められる。
マミさんに、あんなに全部背負わせなくてもいいかもしれない。
まどかも。
今度は。
「……もう一回、か」
怖い。
それでも、少しだけ笑った。
一度失敗したなら、次はもう少し上手くやれる。
掌の上には、二つのソウルジェム。
一つは銀色。
もう一つは、ほとんど透明。
ただ、その中心にだけ、前にはなかった小さな金色が浮かんでいる。
まだ、それが何なのかは分からない。どうして俺までここへ来たのかも、これが何を意味するのかも。
何一つ。
それでも、この時の俺は本気でそう思っていた。
次の世界にも。