俺は?
答えは返ってこなかった。
暁美ほむらの姿が、遠ざかっていく。いや、違う。ほむらが離れているんじゃない。世界の方が、俺から剥がれていく。
「……待て」
喉から掠れた声が出た。
右腕は瓦礫に挟まれたまま。脚も動かない。追いかけるどころか、指一本まともに持ち上げられない。
「待っ……」
呼び止めてどうする。
ほむらには時間を遡る魔法がある。俺にはない。成り代わり。認識をずらす。身体能力を上げる。マミさんの力を借りる。今まで使えたものを頭の中でいくら並べても、時間を巻き戻す方法なんて一つも出てこなかった。
当たり前だ。
俺は時間遡行なんて願っていない。そもそも、自分が何を願ったのかすら分かっていない。
「……嘘だろ」
そこでようやく、恐怖が追いついた。
ほむらは次へ行く。なら、この時間軸はどうなる?
マミさんは死んだ。まどかも死んだ。街は壊れた。そして俺は、ここにいる。
ほむらが過去へ戻れば、ここは終わるのか。それとも、このまま残るのか。
残ったとして、誰がいる?
マミさんはいない。まどかもいない。田中として戻る場所が残っていたとしても、街そのものがこの有様だ。
それより、そもそも俺自身が、この時間に残れるのかすら分からない。
戻れなかったら。
このまま、この世界と一緒に――
「俺、消えるのか……?」
口にした途端、急に現実味を持った。
死ぬ、とは違う。
消える。
何も残らないかもしれない。
俺がここにいたことも。マミさんに刀を教わったことも。まどかと笑ったことも。ほむらと話したことも。
全部。
最初からなかったみたいに。
それだけは、嫌だった。
◇
炎が揺れた。
風に煽られたんじゃない。燃え上がっていた火が一瞬だけ大きく歪み、そのまま何かに吸い込まれるように縮んだ。崩れかけていた鉄骨が止まり、地面に落ちていた瓦礫が一つ、二つと浮き上がる。
「……?」
細かな破片まで震えながら持ち上がり、さっきまで崩れていた建物へ向かって飛んでいく。
割れた窓ガラスが道路から離れ、無数の破片が空中を逆向きに走って窓枠へ吸い込まれる。ひしゃげた車体は転がりながら元の位置へ戻り、地面の亀裂が閉じ、空へ昇っていた煙まで細くなりながら火元へ吸い込まれていった。
「……巻き戻ってる」
ほむらの魔法が時間を遡ることは知っていた。でも、見るのは初めてだった。
知識として知っているのと、目の前で起きるのは全然違う。
時計の針が逆に回る。折れた街灯が浮き上がり、断面同士が重なる。砕けたコンクリートが壁へ戻り、剥がれた外壁が建物を覆っていく。道路へ散らばった紙や木片まで、強い風に飛ばされるのとは逆の軌道で元の場所へ吸い寄せられていた。
ワルプルギスに破壊された街が、信じられない速さで元の形を取り戻していく。
壊れたものが、壊れる前へ。
燃えたものが、燃える前へ。
失われた形だけが、時間に押し戻されていく。
全部が戻っていく。
でも。
俺だけは動かなかった。
「…………」
瓦礫に挟まれた身体は、そのまま。傷も消えない。口の中の血の味も残っている。胸を動かすたび痛むし、左脚の感覚も戻らない。
俺の周りだけが、巻き戻る世界から切り離されている。
「なんでだよ」
声が震えた。
時間は戻っている。俺は戻っていない。
遠くにいたほむらの姿は、もうほとんど見えない。
「待ってくれ」
届かない。
いや、届いたとしてもどうしろっていうんだ。ほむら本人にだって、今起きていることを制御できているようには見えなかった。
音までおかしくなり始めた。崩壊音が逆向きに繋がり、人の声も、風も、炎も、意味の分からない低い響きへ変わっていく。
やがて、それすら遠ざかった。
街が戻っていく。
俺を置いて。
「……マジかよ」
笑えるわけがなかった。
魔女に殺されるなら、まだ分かる。身体が壊れて、ソウルジェムが砕けて、そこで終わる。怖くないわけじゃない。でも、終わり方として理解はできる。
これは違う。
自分だけが、時間から置いていかれる。
次に何が起こるのか分からない。死ぬのか。消えるのか。それとも、この壊れた時間の中へ一人だけ残されるのか。
誰にも見つけられず。誰にも声が届かず。この世界の最後まで。
どれも嫌だった。
「……まだ、終わりたくない」
ほとんど声にならなかった。
マミさんを助けられなかった。まどかも。ワルプルギスにも勝てなかった。さやかだって、この先どうなるか分からない。ほむらは、たった今ようやく自分の願いを選んだばかりだ。
何一つ、ちゃんとできていない。
ここまでなのか。
最初の一回で。
そう思った時だった。
胸元が熱くなった。
「……?」
二つ連なったソウルジェム。
銀色。そして、何も入っていないように見えていた透明な方。
銀色の宝石が震えていた。脈を打つように、一度、二度。そのたびに身体の奥まで何かに引かれる。
「なんだ……?」
痛みとは違う。胸の内側に糸を通されて、その糸ごと遠くへ引かれているような感覚だった。
時間の流れに引っ張られている。
そう思った。
銀色の方は、この世界へ繋がっている。街も、建物も、ほむらも、全部が過去へ引き戻されているのと同じように、この宝石も向こうへ行こうとしている。
でも。
透明な方だけが違った。
「……え」
何もなかったはずの内部に、小さな光があった。
透明な宝石の中心。針の先ほどの金色。光の粒が一つ。
それがゆっくり伸びた。細い糸のように。
亀裂じゃない。割れてもいない。濁りとも違う。透明な水へ金色の絵の具を一滴落としたみたいに、淡い光が内部へ残っている。
綺麗だった。
こんな状況じゃなければ、しばらく眺めていたかもしれない。
「……なんだ、これ」
触れようとしても腕は動かない。ただ見ているしかなかった。
銀色の宝石が、また強く脈打った。今度は胸の奥まで響く。
同時に。
『――』
「……?」
聞こえた気がした。
声。
いや、声と呼べるほどはっきりしたものじゃない。音ですらなかったかもしれない。誰かが名前を呼んだわけでも、言葉になっていたわけでもない。
ただ、胸の奥を何かが掠めた。
一瞬だけ。
寂しいような。
引き止めるような。
それが何だったのか確かめるより早く、銀色の光が消えた。
「今の……」
次の瞬間、身体が落ちた。
「っ!?」
地面じゃない。
瓦礫も消えた。
誰かに腕を掴まれたわけでもない。それなのに、身体の内側だけを強く引かれる。
胃が浮き、頭の奥がひっくり返る。どこへ落ちるのかは分からない。上下すらない。目を開けているのか閉じているのかも曖昧になってくる。
それでも。
どこかに、俺が落ちる場所だけは決まっている。
そんな感覚がした。
行き先を知っているわけじゃない。でも、何もない場所へ消えるわけでもない。
向こう側に、俺が入る場所だけがある。
「待っ――」
視界が白くなる。
戻り続けていた街が消えた。ほむらも、ワルプルギスも、砕けた街も、全部。
最後に見えたのは、胸元の二つの光だった。
銀。
透明。
その奥に残った、小さな金色。
感覚が消える。痛みも、音も、自分の身体がどこにあるのかすら分からなくなった。
意識だけが、暗いところへ沈んでいく。
――死んだ?
◇
目を開けた。
「…………」
天井。
見覚えがあった。
白い天井。照明。カーテン。窓から差し込む朝の光。
何度も見てきた自分の部屋だった。
「…………は?」
声が出た。
普通に。
しばらく天井を見たまま固まった。夢から覚めた直後みたいに、頭だけが状況についてこない。
身体を起こす。
痛くない。
右腕も動く。左脚もある。胸も痛くない。
反射的に身体へ触れた。腹。腕。脚。全部ある。血もついていない。指を握って、開いて、もう一度握る。
動く。
「え、何」
布団を捲る。
パジャマ。
いつもの身体。
銀色の髪が肩から落ちる。その感触まで、妙に現実的だった。
「……俺、生きてる?」
返事はない。
当たり前だけど。
ベッドから降りようとして、一度止まった。
待て。
これは、いつだ。
机を見る。教科書。制服。置いてある小物。
見覚えがある。
ありすぎる。
机の端へ置いたままにしていたものまで、記憶の中と同じ位置にある。
スマートフォンを掴み、画面をつける。
「…………」
日付を見た。
もう一度見た。
画面を消して、もう一度つける。
「戻ってる」
喉が乾いた。
同じだ。
ほむらが転校してくる前。
あの頃の日付。
数週間が、ごっそりなくなっている。
「いやいやいや……」
ベッドへ座り直した。
スマートフォンを握ったまま、頭の中を探る。
覚えている。
マミさん。まどか。ほむら。キュゥべえ。魔女。訓練。マミさんに刀を教えてもらったこと。まどかと話したこと。ほむらと学校で過ごしたこと。
ワルプルギスの夜。
砕けたマミさんのソウルジェム。倒れたまどか。泣いていたほむら。
『鹿目さんとの出会いをやり直したい』
全部。
残っている。
どこか曖昧な夢の記憶じゃない。誰がどこに立っていたか。何を言ったか。どんな顔をしていたか。
嫌になるくらい覚えている。
「夢……じゃない」
あんなものを夢で済ませられるほど、都合よくはできていなかった。
それに、最後に見たものがある。
慌てて机へ行く。
二つ連なったソウルジェムは、そこにあった。
「……あった」
手に取る。
一つは銀色。もう一つは透明。
形も同じ。繋がり方も同じ。傷もない。砕けてもいない。
見た目だけなら、最初の日と何も変わっていなかった。
でも。
窓から入る光へ透かした瞬間、息が止まった。
「……これ」
透明な宝石の中心に、金色がある。
ほんの少し。
埃と見間違えるくらい小さな光。
角度を変えても消えない。指で表面を擦っても取れない。宝石を裏返しても、中心から動かない。
「なかったよな……これ」
覚えている。
この宝石はずっと透明だった。何も入っていない。キュゥべえにもそう言われた。
なのに今は、中心にだけ小さな金が残っている。
あの時間軸の最後に見たものと同じだった。
「…………」
ベッドへ戻り、二つの宝石を掌に載せた。
頭が追いつかない。
何が起きた?
ほむらの魔法に巻き込まれた?
可能性はある。でも、時間を戻したのはほむらだ。俺まで連れてくる理由がない。
ほむらが俺を連れてきたとも思えない。あの時のほむらは、俺がマギカだということすら知らない。
「俺の魔法……?」
成り代わり。
それが時間軸にまで作用した?
俺自身が、次の何かへ成り代わった?
「……いや、なんだそれ」
自分で言っていて意味が分からない。そんなことをした覚えも、発動した感覚もなかった。
「それとも……田中の?」
口にしてから、銀色の宝石を見る。
こっちが何なのかすら、まだちゃんと分かっていない。俺が知らないだけで、田中側に何か別の魔法があるのか。それとも、二つ連なっていること自体に意味があるのか。
透明な方も同じだ。何も入っていなかったはずなのに、今は金色が一つ増えている。
あの最後に聞こえたものもある。
『――』
思い出そうとしても、やっぱり言葉にはならない。
「キュゥべえに聞く……いや、あいつも分かるのか?」
分からない。
考えれば考えるほど、分からないことばかり増えていく。
でも。
一つだけ。
確実に分かったことがある。
俺も戻ってきた。
「……俺も」
掌の中のソウルジェムを握る。
「戻ってきたんだ」
声にした途端、胸の奥が急に熱くなった。
怖くないわけじゃない。
あの最後を覚えている。ワルプルギスの強さも。マミさんが死んだことも。まどかを助けられなかったことも。自分が瓦礫の下で動けなくなったことも。
もう一度同じところまで行けば、また同じ目に遭うかもしれない。
次はもっと早く死ぬかもしれない。
でも。
全部覚えている。
なら。
今度は知っている。
何が足りなかったのか。どこまで準備しても届かなかったのか。どんな場面でマミさんが無理をしていたのか。まどかがどこで消耗したのか。俺の魔法がどこまで通じて、どこから通じなくなったのか。
全部、一度経験した。
それなら。
前よりは、やれる。
マミさんはもっと強くなれるかもしれない。俺も、もっと戦えるようになれる。グリーフシードも集められる。ワルプルギスへの準備だって、もっと早く始められる。
マミさんに、あんなに全部背負わせなくてもいいかもしれない。
まどかも。
今度は。
「……もう一回、か」
怖い。
それでも、少しだけ笑った。
まだ終わっていない。
一度失敗したなら、次はもう少し上手くやれる。
マミさんも。
まどかも。
今度こそ。
掌の上には、二つのソウルジェム。
一つは銀色。
もう一つは、ほとんど透明。
ただ、その中心にだけ。
前にはなかった小さな金色が浮かんでいた。
まだ、それが何なのかは分からない。どうして俺まで戻れたのかも、これが何を意味するのかも。
何一つ。
それでも。
この時の俺は、本気でそう思っていた。
次は、もっと上手くやれる。
次の世界にも。
また俺がいた。