朝のホームルームが始まる少し前から、暁美ほむらの様子がおかしかった。
具合が悪そうというわけではない。ただ、露骨に眠そうだった。普段から少し伏し目がちな目はいつも以上に細く、机の上へ教科書を広げたまま何度も瞬きを繰り返している。先生が来るまでの短い時間にも、一度だけ完全に動きが止まり、数秒後にはっとしたように顔を上げた。
寝たな。
何事もなかったふうに教科書へ視線を戻しているけど、隣から見ていれば普通に分かる。
「暁美さん」
「……はい」
「昨日、ちゃんと寝た?」
「寝ました」
返事が一拍遅い。
寝てないやつの返事だ。
とはいえ、今の俺は田中だった。学校ではただのクラスメイトで、昨日の放課後にマミさんたちと一緒に時間停止の訓練をしていた仮面の魔法少女とは別人、ということになっている。
ここで「昨日の訓練のあと何してたんだ」と聞くわけにもいかない。二重生活って、こういうところが面倒だ。
先生が入ってきたところで会話は切れたが、その後もほむらの眠気は消えなかった。ホワイトボードを見て、ノートへ書き、途中で手が止まり、少し遅れてまた続きを書く。頑張っているのは分かるけど、明らかにいつもより反応が鈍い。
二時間目が終わる頃には、さすがにまどかも気づいた。
「ほむらちゃん、眠そうだね」
「そ、そうでしょうか」
「うん。さっきちょっと寝そうになってたよ」
「……すみません」
何で謝るんだ。
完全に怒られた子供みたいになってるぞ。
「昨日、何してたの?」
俺が横から聞くと、ほむらの肩がほんの少し揺れた。
「ちょっと……調べ物を」
目が泳いだ。
なるほど。
爆弾だな。
原作知識なんて大層なものじゃない。ほむらは契約したばかりで、時間停止はできるのに火力が足りない。昨日はマミさんから、能力そのものが強力でも、止めた後の攻撃手段は自分で考える必要があると教わったばかりだ。
そこまで揃えば、次に何へ手を出すかは大体想像できる。ゴルフクラブの次は爆弾。
知ってる。
でも田中は知らない。だから当然、何も言えない。
「調べ物って、そんな遅くまで?」
まどかが心配そうにほむらの顔を覗き込む。
「少し夢中になってしまって……」
「ちゃんと寝ないと駄目だよ?」
ほむらは一瞬だけ黙り、それから視線を下げた。
「……はい」
素直すぎる。
俺が同じことを言っても、たぶん「大丈夫です」で押し切るだろうに。まどかの一言は妙に効く。
その後の休み時間、ほむらは本当に机へ伏せた。まどかに「少し寝た方がいいよ」と言われたからだ。
しばらくすると呼吸もゆっくりになり、本気で寝たらしい。俺が教科書を閉じると、横から小声で名前を呼ばれた。
「田中さん」
まどかが唇へ指を当てている。
「ほむらちゃん寝たから、少し静かにしよ」
「あ、うん」
声を落とすと、まどかは安心したように笑った。
こういう時間があるのは、たぶん悪くない。
魔法少女になったからといって、全部一人でどうにかしなくていい。眠ければ寝ればいいし、心配してくれる相手がいるなら少しくらい甘えてもいい。
前の世界では、ほむらが契約した時にはもうマミさんはいなかった。まどかを守りたいという気持ちだけを抱えて、自分の戦い方をほとんど一人で作っていった。
今は違う。マミさんがいて、まどかがいて、俺もいる。
だからといって、ほむら自身が考えることまでなくなるわけじゃない。むしろ昨日の訓練で、自分に足りないものがはっきりしたからこそ、次に何をすればいいのか探し始めたんだと思う。
時間を止められる。でも、止めたあとに魔女を倒せなければ意味がない。身体そのものが急に強くなるわけでもないなら、足りない攻撃力を外から持ってくればいい。
発想としては合理的だ。
中学生がそこから一晩で爆弾へ行くことを除けば。
◇
昼休みには、少し寝たおかげか朝より顔色が戻っていた。それでもまどかはまだ気になるらしい。
「今日の放課後は、あんまり無理しない方がいいよ」
「でも、昨日の続きが……」
「駄目」
即答だった。
ほむらは口を閉じる。
「今日は少し休んで、早く寝る。ね?」
「……はい」
また従った。
マミさんに同じことを言われたら、たぶん「もう少しだけ」と粘る。それがまどか相手だとこれだ。
俺はパンを齧りながら、その様子を眺めていた。
「田中さん?」
「ん?」
「今、笑ってなかった?」
「気のせいじゃない?」
「そうかなぁ」
危ない。
最近、まどかにも少しずつ観察されている気がする。
今の俺は田中だ。魔法少女の訓練へ参加していたマギカじゃない。ほむらの時間停止も知らないし、昨日の訓練内容も知らない。当然、夜中に何を調べていたのかも知らない。
「それで、調べ物って何だったの?」
まどかが何気なく聞いた。
ほむらが固まり、俺もパンを噛む速度を少し落とす。
「えっと……」
「学校の勉強?」
「……それに近いものです」
近くないだろ。
何の教科だ。技術か。
いや、技術でも中学生に爆発物は教えない。
「難しいやつ?」
「少し」
「分からないところがあったら、一緒に考えるよ」
「だ、大丈夫です」
それは駄目だ。
まどかを爆弾制作へ巻き込むな。
もちろん、ほむらもそんなつもりはないんだろうけど。
危うく口を挟みそうになり、俺は黙って牛乳を飲んだ。魔女を倒す方法を考える時より、こういう場面で正体を隠す方がよほど神経を使う。
◇
放課後。
まどかに念を押されたほむらは、珍しく素直に帰ることになった。
「今日は本当に休んでね?」
「はい」
「夜更かしもしないこと」
「……はい」
返事が少し弱い。
怪しい。
絶対まだ何かやる気だ。
それでも、まどかはそれ以上追及せず、「また明日ね」と笑って手を振った。ほむらも少し遅れて、小さく手を振り返す。
校門を出ていく背中を見送りながら、追うべきか少しだけ迷った。
でも、やめた。
田中として様子を見に行く理由はないし、マギカとして追うのも違う。ほむらが自分で考えて、自分で試そうとしているなら、原作知識があるからといって何でも先回りして止めるべきじゃない。
危険なことをし始めれば、その時は止める。少なくとも今は、本人に任せてもいい。
◇
翌朝。
ほむらは昨日より眠そうだった。
駄目じゃん。
まどかとの約束、守ってないじゃん。
「暁美さん」
「……はい」
「昨日、早く寝た?」
ほむらは黙った。
疲れているし、眠そうでもある。でも、どこか満足そうだった。何かをやり遂げた人の顔だ。
「……少しだけ」
「何時?」
「…………」
答えない。
なるほど。
何か完成したな。
たぶん。
◇
その日の放課後。
人目のない場所でマミさんたちと合流すると、ほむらは朝からの眠気が嘘みたいに、少しだけ誇らしそうな顔をしていた。
「昨日、考えてみたんです」
そう言って盾へ手を入れ、取り出したのは手のひらに収まるくらいの小さな物体だった。
俺は見た瞬間に分かった。
爆弾だな。
「……それ、何?」
まどかが首を傾げる。
ほむらは少し緊張した様子で、それを両手へ載せたまま答えた。
「…………」
言った。
「ば、爆発物!?」
まどかが一歩下がり、マミさんもほんの一瞬だけ表情を止めた。
「暁美さん」
「はい」
「念のため確認するけれど……それ、自分で用意したの?」
「はい」
「昨日?」
「はい」
さらに一拍置いて、マミさんの視線がほむらの顔へ戻る。
「だから寝不足だったのね」
「……はい」
そこなんだ。
いや、そこも大事だけど。
「ほむらちゃん!」
今度はまどかだった。
「昨日、早く寝てって言ったよね?」
「……すみません」
「ずっとこれやってたの?」
「はい……」
爆発物そのものより、まどかとの約束を破ったことを怒られている。
しかもほむらは完全に反省していた。たぶん危ない物を用意したことより、まどかの言うことを聞かなかった方を。
「でも……昨日、巴さんが言っていたので。私自身の力だけで倒せないなら、別の方法で補えばいいって」
ほむらは少しだけ顔を上げ、手の中へ視線を落とす。
「時間を止めている間なら、相手の近くまで運べます。十分に離れてから時間を動かせば……私が直接殴るより、ずっと強い攻撃になると思って」
筋は通っている。
ものすごく通っているから、余計に困る。
マミさんも似たような気分なのか、眉間へ軽く指を当てた。
「……私、昨日そんなつもりで言ったわけじゃないのだけれど」
「違いましたか?」
「間違ってはいないわ」
否定できないんだ。
ただ、ほむらの考え方そのものは確かに昨日より一歩進んでいる。自分自身を無理に強くしようとするのではなく、時間停止という長所を軸にして、足りない部分だけ外から補う。
その最初の答えが爆発物だった。
……それを「だけ」で済ませていいのかは分からないけど。
「でも……ほむらちゃん、そんなもの、どうしたの?」
まどかが少し距離を取りながら聞いた。
俺もそこは気になっていた。原作ではいつの間にか使い始めていた記憶があるけど、細かい過程までは覚えていない。
ほむらは特に隠す様子もなく答える。
「いろいろ調べました」
「調べた?」
「はい。ネットで」
嫌な予感がする。
「……何て調べたの?」
まどかに聞かれ、ほむらは少し考えたあと、本当に何でもないことみたいに答えた。
「…………」
いや、ぼかして言っても十分おかしい。
俺の知っているインターネットも大概だった気はするけど、中学生が一晩調べて翌日に実物を持ってくる世界はさすがにどうなんだ。
「それで……分かったの?」
まどかの声が若干引きつっている。
「はい。いくつか調べて、自分でも扱えそうなものを」
扱えそうなものを、じゃない。
原作知識どうこうより先に、この世界の情報環境を心配した方がいい気がしてきた。
「暁美さん」
マミさんの声が少し低くなった。
「今後、そういう危険なものを用意する前に、一度相談してもらえる?」
「……はい」
ほむらは素直に頷く。
マミさんは爆発物そのものを頭ごなしには否定しなかった。手元の物をしばらく見たあと、今度は周囲の広さまで確かめるように視線を動かす。
「方法として考えた理由は分かったわ。時間を止めている間に安全な位置へ動けるなら、暁美さん自身の腕力が弱くても攻撃手段にはできる。でも、こういうものは扱いを間違えれば、自分だけじゃなく仲間や周囲まで巻き込む」
声が少しだけ真面目になる。
「使えるかどうかより先に、安全に扱えるのかを考えましょう。実戦で使うなら、そこまで含めて初めて武器になるわ」
「はい」
ほむらは真剣に頷いた。その横で、まどかも少し安心したように息を吐く。
「あと今日はちゃんと寝ること」
「……はい」
即答だった。
マミさんの話より効いてる気がする。
俺はそのやり取りを眺めながら、もう一度ほむらの手元を見る。
時間停止。ゴルフクラブ。そして爆弾。
まだ戦い方としては粗いし、危なっかしい。マミさんが見ていなければ何をやらかすか分からない。
それでも、これはもう「時間を止められる」だけじゃない。止めた時間をどう使うのか。自分に足りない攻撃力を、何で補うのか。
昨日マミさんから渡された考え方を、ほむらは自分なりに噛み砕いて、もう形にし始めている。
原作で見たものと同じ爆弾でも、そこへ辿り着く過程は少し違う。
今のほむらには、教えてくれる先輩がいる。心配してくれるまどかもいる。危ないことをすれば、その場で止めてくれる人もいる。
それでも最後に「これを使う」と決めたのは、ほむら自身だった。
「マギカさん」
マミさんに呼ばれて顔を上げる。
「さっきから、また嬉しそうね」
「……そんなに顔に出てる?」
「少しだけ」
まどかまで頷いている。
そんなにか。
「いや。いいんじゃないかなって思って」
それ以上は言わなかった。
前の世界では、一人で試行錯誤して作った戦い方。今度は一人じゃない。
それでも、ほむらは誰かに戦い方を与えられるだけじゃなく、自分で考えて前へ進んでいる。
暁美ほむらが、自分の戦い方を作り始める。
……一晩で爆弾まで行くのは、やっぱりちょっとどうかと思うけど。