翌朝、目を覚ました瞬間だけは、昨日の出来事が全部夢だった可能性を期待した。
けれど視界へ落ちてきた長い銀髪と、枕元へ置いた二つ繋がりの宝石を見たところで諦めた。身体は相変わらず中学生くらいの少女のまま。窓の外には見滝原らしい街並みが広がり、棚の上には昨日、理由も分からないまま涙を流した家族写真まで残っている。
「……現実か」
昨日一日で分かったことは、それほど多くない。この家が今の身体の持ち主の自宅らしいこと。壁に掛けられた制服や教科書から、少なくとも学生だったこと。そして俺自身には、この少女として生きてきた記憶が一切ないこと。
枕元の宝石を掌へ載せる。
サクランボのように二つが繋がった形。そのうち片方だけが淡い銀色に光り、もう片方には相変わらず色も光もない。本当にソウルジェムなのだとすれば、明らかに普通ではない。
「おい。誰かいるのか」
「……お前、この身体の持ち主だろ。聞こえてるなら返事してくれ」
昨日から何度か試していた。頭の中へ呼びかけても、直接声を出しても反応はない。もし銀色の方が本当にソウルジェムなら、この身体の持ち主の魂が収められている可能性はある。少なくとも原作では、魔法少女の魂は肉体ではなくソウルジェム側へ移される仕組みだった。
ただ、銀色の宝石は何も答えない。隣にある空っぽの方も同じだった。
「駄目か」
机へ戻し、今度は壁に掛けられた制服を見る。
見滝原中学校の女子制服。
当然のようにスカートだった。
「…………」
昨日まで男だった人間に、二日目から要求するイベントではないと思う。
とはいえ、ここで引きこもっていても何も分からない。制服があるなら学校へ行けば、この身体の名前や人間関係くらいは判明するはずだ。問題は、その学校が本当に俺の考えている見滝原中学校だった場合である。
「……着るか」
覚悟を決めて制服を手に取った。
寝間着を脱ぐところから、すでに落ち着かなかった。昨日は混乱が勝っていて深く考えなかったが、鏡の前で改めて見ると、身体の輪郭は男だった頃とは何もかも違う。肩幅も細く、腕も脚も華奢で、胸元にはどう考えても昨日まで存在しなかったものがある。
見ない。
考えない。
今は着替えるだけ。
そう決めたのに、今度は別の意味で手が止まった。
ブラウスへ腕を通し、スカートを合わせ、リボンを整える。その一連の動作を、自分はほとんど考えずに済ませていた。女子制服なんて着た経験はないはずなのに、どこから腕を入れれば布地が引っかからないのか、リボンをどの位置まで締めるのかまで身体が知っている。
「……またか」
髪も同じだった。机に置かれたブラシへ自然に手が伸び、長い銀髪の絡まりやすい場所を避けながら毛先を整えていく。昨日まで短い男の髪しか扱ったことがない俺には到底できそうにない手つきなのに、鏡を細かく確認する必要すらなかった。
スマホのパスコード。家の鍵。帰り道。そして今度は制服と髪。
俺には記憶がない。
身体には生活が残っている。
「……便利なのが余計に気持ち悪いな」
鏡を見ると、そこには見滝原中学校の制服を着た銀髪の少女が立っていた。昨日までの自分なら、これを見て自分だと認識する理由なんて一つもない。それでも制服は妙に馴染んでいて、違和感を覚えているのは意識だけだった。
「しかも普通に似合ってるし……」
複雑だ。
鞄の中身を確認していると、教科書や筆箱に混じって透明なカードケースが見つかった。中には顔写真付きの学生証が入っている。
「見滝原中学校……二年」
写真は今の俺と同じ銀髪の少女だった。
そして名字。
「田中」
もう一度見る。
田中。
「……普通だな」
別に田中が悪いわけじゃない。
銀髪の少女になって、まどマギ世界らしき場所で目覚めて、手元には二つ繋がったソウルジェムらしき宝石まである。そこまで盛っておいて田中。
「いや、何を期待してたんだ俺は」
下の名前も記載されているが、今はそこまで頭へ入ってこなかった。
田中。見滝原中学校二年生。
少なくとも、この身体の少女はそういう人間だったらしい。
「田中……」
自分へ言い聞かせるように口にしてみる。
まったく馴染まない。
当然だ。
これは俺の名前ではなく、この身体を使っていた少女の名前なのだから。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな違和感が走った。痛みというほどでもなく、何かを思い出した感覚もない。ただ一瞬だけ、そこを否定されたくないような妙な感覚が残った。
「…………?」
机の上へ置いた宝石を見る。
銀色の方が、ほんの少しだけ明るく見えた。
「……何なんだよ、お前」
当然、答えは返ってこない。
二つ繋がった宝石を制服のポケットへ入れ、鞄を持って玄関へ向かった。
◇
学校まで地図を開く必要はなかった。
玄関を出た瞬間から、足は昨日と同じように迷いなく進んでいく。住宅街を抜ける角も、大通りを渡る交差点も、どこで道を一本外れるのかも知っている。俺自身は一度も通学したことがないのに、身体に任せて歩いているだけで、同じ制服を着た生徒の数が少しずつ増えていった。
やがて建物の間から、見覚えのある校舎が見えてくる。
「……本当にここか」
見滝原中学校。
昨日は遠くから確認しただけだった場所が、今日は目の前にある。アニメで見た時には背景でしかなかった校門を制服姿の生徒が次々に通り、教師が挨拶を交わし、自転車のブレーキ音や友人同士の話し声が朝の空気へ混ざっていた。
画面の中とはまるで違う。ここでは背景だったものまで全部が動いていて、その中へ自分が混ざっている。
校門へ足を踏み入れた瞬間、不意に胸が締め付けられた。
「……っ」
呼吸が浅くなる。
俺自身は学校へ行くことに特別な苦手意識なんてない。前世でも普通に通っていたし、まして見滝原中学校で嫌な経験をしたことなど一度もない。それなのに身体は校門の先へ進むことを拒むように緊張し、制服の胸元を掴んだ左手に力が入っていた。
「なんだ、これ……」
しばらく立っていると、少しずつ呼吸が戻る。
怖い。
その感情だけが身体のどこかに残っていた。
そして制服のポケットへ入れた宝石のうち、銀色の方がほんの少しだけ温かくなった気がした。
「…………」
確認しようか迷ったが、周囲には生徒がいる。今ここで謎の宝石を取り出すのも妙なので、そのまま校舎へ向かった。
昇降口へ入ってまず思ったのは、やっぱりこの学校は妙だということだった。
外から見ても十分に未来的だったが、中はさらに現実の中学校らしくない。廊下は明るく、壁や教室の仕切りにはガラスが多用されている。少し歩けば隣の教室の中まで見え、廊下側の壁がほとんど全面ガラス張りになっている場所まであった。
「……落ち着かないな」
アニメで見ていた時には背景の一部としか思っていなかったが、実際に通う側になると印象が違う。普通の生徒や机、掲示物が並んでいるのに、建物だけが妙に先の時代へ行っていて、学校というより近未来の研究施設に近い。
それでも身体は校内の構造を知っていた。
下駄箱の場所も迷わず、考えるより先に自分の番号らしい扉へ手が伸びる。昨日から何度も経験している感覚だが、学校まで来ると気味の悪さが一段増した。通学路だけではなく、校内での生活そのものまでこの身体には残っているらしい。
「――田中さん?」
背後から呼ばれ、肩が跳ねた。
振り返ると、茶髪の女性教師がこちらを見ていた。驚いたように目を見開いたあと、すぐに表情を緩めて近づいてくる。
「やっぱり田中さんね。今日から来られるようになったの?」
「あ……はい」
「本当に大丈夫? 無理をしているんじゃないでしょうね。ずいぶん長くお休みしていたんだから、少しでも具合が悪くなったらすぐ保健室へ行くのよ」
長く休んでいた。
それは初めて知る情報だった。少なくとも教師から見れば、俺は昨日突然現れた怪しい銀髪少女ではなく、以前からこの学校へ在籍していて、何らかの事情で長期間欠席していた生徒らしい。
「ありがとうございます。たぶん、大丈夫です」
「たぶんじゃ困るわよ」
即座に返される。
女性教師はそこで少し表情を曇らせ、周囲の生徒へ聞こえないくらいまで声を落とした。
「田中さん、今まで色々大変だったでしょう。だから、今日来られたからって無理に前と同じようにしなくてもいいのよ」
「…………」
「一日全部授業を受けなくてもいいし、途中で辛くなったら保健室へ行っても、早退しても大丈夫。何か困ったことがあったら、先生でも保健室の先生でもいいから、ちゃんと頼ってね」
思っていた以上に、本気で心配されている。
何が「色々」なのか、俺には分からない。でも、この人は知っている。今の俺が知らない、この身体の持ち主に何があったのかを。
「……ありがとうございます」
「うん。それと、本当に無理はしないこと。約束ね」
「はい」
その言い方に、妙な既視感があった。
……いや、この先生も知っている気がする。
名前はすぐ出てこない。けれど確か朝っぱらから、目玉焼きは半熟がどうとか、男と価値観がどうとか、そんな話を教室でしていたような。
そこまで思い出して、ようやく繋がった。
早乙女和子。
まどかたちの担任だ。
昨日までならアニメの登場人物だった人が、今は目の前で俺の体調を心配している。
「田中さん?」
「あ、いえ。何でもないです」
「そう? 顔色は悪くなさそうだけど……今日は教室に来られただけでも十分なんだからね」
「はい」
早乙女先生はまだ少し心配そうだったが、登校してきた別の生徒に呼ばれてそちらへ向かった。
その背中を見送りながら、靴を履き替える。
先生まで俺を知っている。
これでほぼ確定した。田中という少女は確かにこの学校で生活していて、長期間学校を休んだ末に、今日戻ってきたことになっている。それだけではなく、教師があそこまで気にかける程度には、何か事情も抱えていたらしい。
ただし、その記憶を俺だけが持っていない。
「……転校生の方が楽だったな」
初対面なら、初めましてと言えば済む。
今回は違う。
向こうは俺を知っている。
俺は誰も知らない。
他人の人生へ途中から放り込まれたみたいだった。
教室へ向かう廊下でも、その感覚は続いた。すれ違った生徒の何人かはこちらを一度見てから振り返り、小声で「田中さんじゃない?」と話している。
それにしても、改めて見ると本当に妙な校舎だ。
教室の廊下側はほとんど全面ガラス張りで、中にいる生徒の姿が外から普通に見える。前方には黒板ではなく、大きな白いホワイトボードが設置され、机や椅子も含めて全体的に無駄なく整っていた。
「……これ、集中できるのか?」
ガラス越しに隣の教室まで見えるせいで、どこにいても少し視線を感じる気がする。
未来的で綺麗ではある。
通う側の気持ちは別として。
自分の教室の前まで来ると、身体が自然に足を止めた。
今度は場所を知っているだけではない。
扉へ手を伸ばしたところで、校門ほどではないものの、胸の奥にまた同じ圧迫感が生まれた。ここへ入りたくない。理由も記憶もないのに、その感情だけが妙に鮮明だった。
「……大丈夫」
誰に向けて言ったのか、自分でも分からない。
扉を開ける。
全面ガラス越しにも見えていた教室の話し声が、今度は少しだけ弱まった。
「あれ、田中さん?」
「ほんとだ」
「久しぶり」
いくつかの声が飛んでくる。
知らない顔ばかりだった。
「……おはよう」
とりあえずそう返すと、一人の女子生徒がこちらへ近づいてきた。
「田中さん、本当に戻ってきたんだ。もう大丈夫?」
「うん。たぶん」
「そっか。よかった」
心底安心したように笑われ、返事に困った。この子にとっては久しぶりの再会なのだろうが、俺には名前すら分からない。
その瞬間、ポケットの中で銀色の方だけが微かに熱を持った。
「…………」
「田中さん?」
「あ、いや。何でもない」
女子生徒が友人のところへ戻っていくのを見送る。
偶然かもしれない。
でも校門でも同じことがあった。それに反応しているのは二つのうち銀色の方だけで、空っぽの方には何の変化もない。
気になる。
ただ、それ以上に今は自分の席が分からなかった。
教室を見回そうとした瞬間、身体が先に動く。窓側の列へ向かい、少し後ろの机まで迷わず歩くと、その横へ自然に鞄を掛けた。
「……ここなんだな」
誰にも訂正されない。
椅子を引いて座ると、机へ腕を置く姿勢まで妙に馴染んだ。前方には大型のホワイトボード。横を見れば全面ガラス越しに廊下を歩く生徒の姿が見える。俺には何の思い出もない場所なのに、この身体だけはここで何度も授業を受けてきたらしい。
前の田中は、ここで何をしていたんだろう。
授業を受けて、誰かと話して、それから少しずつ来なくなった。
そこへ今、何も知らない俺が座っている。
「田中さん?」
近くから柔らかい声が聞こえた。
顔を上げる。
桃色の髪に、赤いリボン。
見間違えるはずがない。
「…………」
鹿目まどか。
知っている。
アニメで何度も見た。物語の最後にどんな願いをして、何になるのかまで知っている。
けれど、目の前にいるこの少女とは初対面だった。
「大丈夫?」
「あ……うん」
「よかった。ずっとお休みしてたから、ちょっと心配してたんだ」
「……ありがとう」
普通に喋っている。
鹿目まどかが。
俺と。
生まどかだ。
ちょっと感動する。
……いや待て。落ち着け。
「おー、ほんとに田中じゃん」
横から別の少女が顔を出した。
短い青髪。
美樹さやか。
「さやかちゃん、そんな言い方」
「だってずっと休んでたじゃん。あたしだって普通に心配してたんだからね?」
「そうですわね。お久しぶりです、田中さん」
少し遅れて、長い緑髪の少女がこちらへ微笑む。
志筑仁美。
まどか。さやか。仁美。
三人揃った。
これで間違いない。
「……久しぶり」
こちらとしては初めましてだけど。
「なんか田中、ちょっと雰囲気変わった?」
さやかが遠慮なく顔を覗き込んでくる。
「そう?」
「うん。前より喋るっていうか」
「さやかちゃん」
「いや、悪い意味じゃないって」
前の田中。
その言葉に意識が引っかかった。
「私、前はそんなに喋らなかった?」
「え?」
三人の表情が揃って止まった。
まずい。
「いや、長く休んでたから、自分でもちょっと変わったかなって」
「ああ、そういうこと」
さやかはすぐに納得したらしい。
「別に無口ってほどじゃなかったけどさ。最近は一人でいること多かったよね」
「お休みも少しずつ増えていましたし……」
仁美が言葉を選ぶように続ける。
「そうだったんだ」
「田中さん、本当に大丈夫?」
まどかが少し心配そうにこちらを見る。
その目を見ていると、妙な感じがした。
この子たちは前の田中を知っている。
俺の知らない田中を。
聞けば少しずつ情報を集められるのかもしれない。しかし、いきなり自分自身について根掘り葉掘り尋ねれば不自然だし、何より「全部覚えていません」なんて説明できる状況でもない。
「大丈夫。ちょっと久しぶりだから緊張してるだけ」
「そっか」
まどかが安心したように笑う。
「無理しないでね」
「うん」
その瞬間、胸の奥が少し温かくなった気がした。
今度はポケットの宝石ではない。
自分の感情だと思う。
……たぶん。
「まあ、分かんないことあったら聞けばいいって」
さやかが笑いながら言う。
「学校来るの久しぶりなんでしょ?」
「そうする」
実際、助かる。
全部分からないから。
しばらく雑談を続けているうちに、教室へ入ってくる生徒の数が増えていった。俺は会話をしながら、それとなく周囲の顔を確認していく。
探しているのは一人。
黒髪。
眼鏡。
三つ編み。
あるいは、すでに時間を繰り返した後の長い黒髪。
けれど、どちらもいない。
暁美ほむらがいない。
となれば、少なくともアニメ本編の第1話より前だ。
胸の鼓動が少し速くなる。
もしかすると。
かなり最初だ。
「田中さん?」
「ん?」
「どうかした?」
まどかに聞かれて、首を振る。
「いや。ちょっと人を探してただけ」
「誰?」
「……知らない人」
「え?」
「ごめん、今の忘れて」
言ってから自分でも意味が分からない。
さやかが吹き出した。
「田中、やっぱ休んでる間になんかキャラ変わったでしょ」
「かもしれない」
これは本当に否定できない。
予鈴が鳴った。
「あ、そろそろ戻らないと」
「また後でね、田中さん」
まどかたちがそれぞれの席へ戻っていく。
教室のざわめきが少しずつ小さくなり、俺も机の上へ必要なものを出した。教科書を開く手つきまで身体が覚えているのが、今となっては驚くより不気味だった。
前方には白い大型ホワイトボード。
横には全面ガラス張りの教室。
鹿目まどか、美樹さやか、志筑仁美、早乙女和子。
ここまで揃えば、もう世界について疑う必要はない。
残る問題は時間軸だった。
そして、その答えになる少女はまだこの教室にはいない。
始業を告げるチャイムが鳴った。