――暁美ほむら視点
昨日のことが、朝から何度も頭に浮かんでいた。
巴さんの部屋で、キュゥべえが田中さんにも素質があるかもしれないと言った時のことだ。
考えてから口にしたわけではなかった。
「契約しない方がいいと思います」
気づいた時には、もうそう言っていた。
少し強く言いすぎたかもしれない。理由もほとんど説明できないまま、危ないからやめた方がいいとだけ告げたのだから、田中さんからすれば不自然だったはずだ。
それでも彼女は何度か瞬きをしただけで、問い詰めてはこなかった。
『そっか。じゃあ、覚えておくよ』
困ったような、それでも少し柔らかい顔でそう言った。
その表情まで思い出してしまい、私はノートの上で止まっていた鉛筆を動かす。
どうして、あんなに焦ったのか。
答えは分かっている。
◇
前の世界の田中さんと、特別に仲が良かったわけではない。少なくとも、鹿目さんほどではなかった。
私が転校してきたばかりで、教室の空気にも上手く馴染めず、何をしても周りより遅れていた頃。田中さんは時々、何でもないような顔で声を掛けてきた。
教科書を開くページを間違えていれば小声で教えてくれたし、体育の後に一人で遅れていれば、先へ行かず少しだけ歩調を緩めてくれた。
でも、必要以上には踏み込んでこなかった。何かあったのかと聞かれることも、大丈夫かと何度も確かめられることもない。それでも完全に放っておかれるわけではない。
当時の私には、その距離がありがたかった。
鹿目さんは、もっと大きく私の世界を変えた人だった。田中さんはそこまでではない。それでも確かに、前の世界で私のそばにいてくれた人の一人だった。
今の田中さんは、それを知らない。
一緒に帰った日のことも、私が上手く話せずに困っていた時のことも。
覚えているのは私だけだ。
そう考えると、胸の奥が少しだけ狭くなった。
◇
「暁美さん?」
昼休み、声を掛けられて顔を上げると、田中さんが机の横に立っていた。
「大丈夫?」
「え?」
「さっきから同じところ見てるけど」
言われてノートを見る。確かに、さっきから同じ一行の上で鉛筆が止まっていた。
「……少し考え事をしていました」
「そっか」
それ以上は聞かない。
やっぱり同じだ。
前の世界でも、こうだった。
「昨日は、ありがとう」
突然そう言われて、今度は私の方が相手を見ることになった。
「何がですか?」
「契約のこと。止めてくれたでしょ」
「あ……」
田中さんは少しだけ笑う。
「理由まではよく分からなかったけど、暁美さんがあそこまで言うなら、何かあるんだろうなって」
「……すみません。ちゃんと説明できなくて」
「別にいいよ。言えないことくらいあるだろうし」
さらっと言われて、返事に詰まった。
その通りだった。
時間を戻ってきたことも、前の世界を覚えていることも、魔法少女の最後がどうなるのかも、今ここで話せることではない。
「それより」
田中さんが椅子を少し引き、私の前の席へ座った。
「一つ聞いてもいい?」
「はい」
「昨日、まどかから聞いたんだけど。マギカっていう子も一緒に戦ってるんでしょ?」
思っていなかった名前が出てきて、少しだけ背筋が伸びた。
「マギカさん、ですか?」
「うん。魔法少女の話を聞いたあとに、まどかが名前を出してたからさ。暁美さんも一緒に戦ってるんだよね?」
「はい」
どう答えるべきか少し考える。
マギカさんは、何を考えているのか分からない時がある。突然妙なことを言うし、知っているはずのないことを知っているような反応をすることもある。戦い方だって、まだ危なっかしい。
それでも最初に浮かんだのは、別のことだった。
「……無茶をする人だと思います」
「無茶?」
「はい。自分のことより、他の人を先に考えていることが多いです。戦っている時も、自分が危ないのに前へ出ようとしたり」
「へえ」
田中さんは面白そうに聞いている。
「もう少し、自分のことも考えた方がいいと思います」
「結構厳しい評価だね」
「そうでしょうか」
厳しいつもりはなかった。
「でも……困っている人を放っておかない人です。私が上手くできなかった時も、責めませんでした」
前の世界で、私は何度も失敗した。今の世界でも、最初の訓練では思うように動けなかった。
それでもマギカさんは、できなかったことより、次にどうするかを考えてくれた。
「一緒にいると、少し安心します」
そこまで言ってから、何となく言い過ぎた気がした。
田中さんは少しだけ目を丸くしている。
「……そんなふうに思ってたんだ」
「え?」
「あ、いや。そういう人なんだなって」
なぜか田中さんの方が少し照れたように目を逸らした。
マギカさんの話をしているのに。
変なの。
「ただ、本当に無茶はやめてほしいです」
「そこに戻るんだ」
「はい」
自分でも少しおかしくなって、口元が緩んだ。田中さんも笑う。
その顔を見ていると、前の世界の教室が一瞬だけ重なった。
「……前にも」
気づけば口にしていた。
田中さんの笑顔が止まる。
「前にも?」
「……いえ」
言葉を飲み込む。
「前にも、こうやって話したことがあるような気がして」
少しだけ形を変えた。
嘘ではない。
でも、本当の意味も伝わらない。
田中さんは一瞬だけ黙った。
「……そうなんだ」
いつもより返事が遅かった。
「変ですよね。そんなはずないのに」
「……まあ、不思議なことは色々あるし」
少し曖昧な返事だった。
何か気になったけれど、ちょうど教室の外から鹿目さんの声が聞こえて、会話はそこで終わった。
田中さんはいつもの顔に戻り、私も席を立つ。
結局、言えなかった。
前にも会ったことがあると。
◇
放課後、魔女の気配を探して見滝原を回ったが、その日は結界を見つけられなかった。
巴さんと鹿目さんは少し先に帰り、私はマギカさんと二人で駅へ向かっていた。
しばらく並んで歩いてから、昨日のことを思い出す。
「マギカさん」
「ん?」
「昨日、田中さんにも魔法少女のことを話したんです」
マギカさんが、ほんの少しだけこちらを見る。
「田中って?」
「鹿目さんと同じクラスの人です。キュゥべえが見えて、声も聞こえるみたいで」
「へえ……」
それだけだった。
少なくとも、名前を聞いてすぐ知っているような反応ではない。
「キュゥべえには、魔法少女の素質があるかもしれないと言われていました」
「契約候補ってことか」
「はい」
口にすると、昨日より少しだけ不安が戻ってきた。
「だから、少し心配なんです」
「本人は契約したがってるのか?」
「いえ。今はいいって、すぐ断っていました」
「なら大丈夫なんじゃないか?」
マギカさんはそう言ったけれど、その返事までにほんの僅かな間があった。
何となく気になって、私は続ける。
「田中さん、少し変わった人なんです」
「そうなのか?」
「はい。キュゥべえを見るのは初めてのはずなのに、あまり驚いていませんでした。それに、ずっとキュゥべえから距離を取っていて」
「動物が苦手なんじゃないか?」
「本人は違うと言っていました」
「……じゃあ、たまたまだろ」
今度も、ほんの少しだけ間があった。
どうしてだろう。
「でも、優しい人です」
何気なく言うと、マギカさんがこちらを見た。
「私が困っている時、何も聞かずに手伝ってくれることがあります。必要以上に踏み込んでこないのに、完全に放っておくわけでもなくて……距離の取り方が、ちょうどいいんです」
「……へえ」
さっきより、少しだけ声が柔らかく聞こえた。
「マギカさん?」
「いや。何でもない」
すぐに前を向いてしまう。
やっぱり少し変だ。
「ただ、嘘はあまり上手じゃないと思います」
「……そうなのか?」
「はい。何か誤魔化す時、少し分かりやすいです」
マギカさんは、今度こそはっきり黙った。
「どうしました?」
「いや……本人には、あんまり言わないでやった方がいいんじゃないか?」
「どうしてですか?」
「傷つくだろ。たぶん」
「そういうものでしょうか」
「そういうもんだよ」
少し困ったような声だった。
田中さんのことを知らないはずなのに、妙に庇う。
でも、それを口にするほどのことでもない気がして、私はそのまま歩いた。
しばらくして、ふと別のことに気づく。
人を放っておけないところ。
自分のことをあまり話さないところ。
何かを誤魔化そうとすると、ほんの少しだけ間ができるところ。
田中さんと、少し似ている。
顔も違う。
声も違う。
話し方だって同じではない。
それなのに、ごくたまに同じものを見ているような気がする。
変な考えだと思って、私は小さく首を振った。
二人は別人だ。
田中さんは学校の同級生で、マギカさんは仮面をつけた魔法少女。
それだけのことだ。
「……だから」
気づけば、さっきの話へ戻っていた。
「田中さんには、契約してほしくありません」
「そんなに心配なのか?」
「はい」
すぐに答えた。
昨日も同じだった。
田中さんが契約するかもしれないと思った瞬間、理由を考えるより先に止めていた。
「前に何かあったのか?」
その問いに、胸が僅かに詰まる。
「……いえ」
今は、それ以上言えない。
マギカさんも追及してこなかった。
その横顔を見ているうちに、別の不安が浮かんだ。
「それと……」
「ん?」
「マギカさんも、あまり無茶をしないでください」
今度はマギカさんが黙った。
「急にどうした?」
「急じゃありません。前から思っていました」
「そんな無茶してるか、俺」
「しています」
即答すると、マギカさんが僅かにのけぞった。
「自分が危ない時でも前に出ますし、誰かが危ないとすぐ自分で何とかしようとします」
「……結構見られてるな」
「一緒に戦っていますから」
当たり前だ。
でも、本当に言いたかったのはそこではなかった。
田中さんも。
マギカさんも。
前の世界で、私を助けてくれた。
そして最後には、二人ともいなくなった。
歩いていた足が少しだけ遅くなる。
「どうした?」
マギカさんが振り返った。
何と言えばいいのか分からない。全部話してしまえば簡単なのかもしれない。でも、それを口にするのはまだ怖かった。
だから、言えるところだけを言う。
「二人?」
「田中さんと、マギカさんです」
マギカさんの動きが止まった。
ほんの一瞬だった。
でも、確かに止まった。
「……何で俺まで?」
「無茶をするからです」
「田中は?」
「契約するかもしれないからです」
「なるほど」
少しだけ苦笑したような声。
でも、そのあとに続いた言葉は軽くなかった。
「……そう簡単にいなくならねえよ」
「本当ですか?」
「ああ」
それだけだった。
私は小さく頷く。
「……なら、いいです」
また歩き始める。
マギカさんも隣へ戻ってきた。
それからしばらく、会話はなかった。
ただ、その沈黙の中でさっきの違和感だけが、ほんの少し残っていた。
田中さんの話をすると、マギカさんは時々妙な間を作る。
そして二人は、少しだけ似ている。
でも――それだけだ。
少なくとも今の私は、そう思っていた。
◇
本当は、言えるはずだった。
私には前の世界の記憶があります、と。
前にもあなたたちを知っていました、と。
でも言えなかった。
信じてもらえないからではない。
ただ、口にしてしまうのが怖かった。
鹿目さんも、巴さんも、田中さんも、マギカさんも、前の世界のことは覚えていない。そこで一緒に笑ったことも、戦ったことも、助けてもらったことも、今は私の中にしか残っていない。
時々、それが夢だったんじゃないかと思う。
でも、鹿目さんの声も、巴さんの笑顔も、田中さんの何気ない言葉も、マギカさんの背中も、全部確かにあった。
だから忘れたくない。
◇
それから何日か経った。
授業中、前の席にいる田中さんの背中をぼんやり見ながら、ふと二つの会話を思い出した。
昼休みに田中さんと話した時のこと。
そして、放課後にマギカさんと話した時のこと。
田中さんは、マギカさんの話を聞いた時に少し妙な反応をした。
マギカさんも、田中さんの話をすると時々返事が遅れた。
それだけなら、偶然なのかもしれない。
でも、二人とも何かを誤魔化す時にほんの少しだけ間ができる。
人を放っておけないところも。
自分のことをあまり話さないところも。
少しだけ、似ている。
どうしてだろう。
二人は別人なのに。
田中さんがふと振り返った。
「暁美さん?」
「え?」
「何か用?」
どうやら見すぎていたらしい。
「い、いえ。何でもありません」
「そう?」
田中さんは少し不思議そうにしたあと、また前へ向き直る。
その背中を見ながら、小さく息を吐いた。
別人だ。
そう思う。
それなのに、どうして時々、同じものを見ているような気がするのだろう。
答えは出ない。
それでも一つだけ、はっきりしていることがあった。
田中さんも、マギカさんも、前の世界では私を助けてくれた。