ワルプルギスの夜が来る。
それ自体は、もう分かっている。問題は、今度こそどうやって生き残るかだった。
放課後、マミさんの部屋へ集まった俺たちは、いつものお茶会とは少し違う使い方でテーブルを囲んでいた。中央には見滝原の地図。端にはノートと筆記用具、それからマミさんが用意してくれた紅茶まで置かれている。
雰囲気だけ見れば勉強会だ。話している内容は、街へ来る超弩級の魔女への対処法だけど。
「まず、前提を整理しましょう」
マミさんが地図の上へ指を置く。
「相手は普通の魔女とは比べものにならない規模。私たち四人で正面から戦うとしても、長期戦になる可能性が高いわ」
まどかもほむらも真剣な顔で聞いている。
俺も地図へ目を落とした。
前の世界では、ここまで準備できなかった。今はマミさんがいて、まどかがいて、ほむらがいて、俺もいる。
しかも今回は、前の世界にはなかった手札がある。ほむらはもう魔法少女で、時間停止も訓練を重ねながら実戦で使えるところまで来ていた。
条件だけを見れば、ずっといい。
「鹿目さんは遠距離から援護。マギカさんは前衛寄りだけれど、無理に相手へ張り付かないこと。暁美さんは時間停止を使って位置の調整と、必要なら爆発物で攻撃する」
「はい」
「分かりました」
「了解」
マミさんが俺を見る。
「それから、スペッキオ・ファントム。あれは相手の認識を少しずらせるのよね?」
「今のところは、そんな感じ」
「だったら、ワルプルギスの夜そのものを完全に誤認させるのは難しくても、一瞬だけ攻撃の向きを逸らせるかもしれないわ」
俺も頷く。
問題は、相手があまりにも大きいことだ。使い魔相手と同じように効く保証なんてない。
「あと、魔力の使い切りだけは避けましょう」
マミさんはそこで全員を見る。
「倒せるかどうかだけを考えないで。撤退する余力も残すの」
その言葉に、ほむらが少しだけ目を伏せた。
前回は、逃げるかどうかを考える頃には全員が追い詰められていた。
「ワルプルギスの夜が、こっちの想定通りに動いてくれるとも限らないわ」
マミさんが続ける。
「作戦を立てるのは大事。でも、作戦通りにいかなくなった時にどうするかまで考えておきましょう」
さすがだ。
前回のことを何も知らないのに、俺が一番忘れちゃいけないことを普通に言ってくる。
原作知識も前周回の経験も攻略本じゃない。俺たちが変われば、相手の動きまで同じとは限らない。
「退路は二つくらい用意した方がいいと思います」
ほむらが地図の一点を指した。
「一つ塞がれても、別方向へ逃げられるように」
「そうね」
マミさんが鉛筆を走らせる。
俺も地図を追った。避難経路に高台、まどかの射線、マミさんが前へ出る場所、ほむらが動きやすい範囲。
線を追っているうちに、前の世界の光景が頭の中へ重なっていく。
あそこは駄目だった。
こっちへ追い込まれた。
マミさんが――。
「マギカちゃん?」
まどかに呼ばれた。
「ん?」
「大丈夫?」
「……大丈夫」
考え込みすぎた。
マミさんが少しだけこちらを見る。
「何か気になることがある?」
言えることだけ選ぶ。
「地図だけだと、実際の距離が分かりにくいなって」
「それは私も思っていたわ」
マミさんが頷く。
「一度、現地を見た方がいいかもしれないわね」
ほむらがわずかに顔を上げた。
俺も同じことを考えた。
そしてマミさんの視線が、ほむらの盾へ向く。
「暁美さん」
「はい」
「前に試した方法、覚えてる?」
ほむらもすぐ意味を理解したらしい。
「……マギカさんと一緒に、止まった時間へ入る方法ですか?」
「ええ」
マミさんが地図へ視線を戻す。
「時間停止中なら、人目や交通を気にせず戦場予定地を歩いて確認できるでしょう?」
合理的だった。
しかも俺は近接担当だ。実際にどこまで移動できるか、どこに遮蔽物があるか、どの方向から敵へ近づけるかを見ておく価値はある。
「二人で見てきてもらえる?」
ほむらが俺を見る。
俺も頷いた。
「分かった」
◇
場所は、ワルプルギスの夜との戦闘候補にしていた河川敷の近く。前に時間停止の実験をした場所からも、それほど遠くない。
違うのは、今回は能力確認ではないことだった。
少し離れた場所ではマミさんとまどかが待っている。
「それじゃあ、前と同じで」
ほむらが右手を差し出した。
「接触していれば、私の時間停止の中でも動けます」
「分かってる」
俺もその手を取る。
前世で生きていた頃、中学生女子と手を繋いで戦場の偵察へ行く未来があるなんて想像もしなかった。まあ、人生なんてそんなものか。
「いきます」
ほむらの左手が盾へ触れた。
◇
何度経験しても、不思議な感覚だった。
さっきまで聞こえていた車の走行音も、遠くの話し声も、風の音もない。道路を走っていた車はその場で止まり、歩道を歩いていた人も片足を浮かせたまま動かない。風に飛ばされていた小さな紙切れまで、空中へ貼り付いたみたいに静止していた。
その中で、俺とほむらだけが歩いている。
「……やっぱり変な感じだな」
「はい」
返事がある。
前に一緒に動いた時は、動けるか、手を離したらどうなるか、何分くらい維持できるかを確かめるだけの実験だった。
今は違う。
これからどこで戦うか。誰をどこへ置くか。どうすれば全員生きて帰れるか。そのために、二人で止まった街を歩いている。
「まず、川沿いから見ましょう」
「了解」
手を繋いだまま歩き出す。
最初の頃ほど意識はしなくなった。不便ではあるけど、今はもう戦術の一つとして割り切っている。ほむらも同じらしく、時々こちらとの距離を気にして歩幅を合わせているのが分かった。
◇
「ここなら鹿目さんの射線は通りそうです」
ほむらが堤防の上から街を見る。
「遮る建物も少ないしな」
俺も周囲を確認する。
止まった世界では、普段なら車を避けながら歩かなければならない道路まで好きに使える。そのまま少し移動し、戦場予定地の端まで来た。
「マミさんをここに置けば、まどかの前も見られる」
「巴さんなら、ここからでも前へ出られると思います」
「問題は、敵がこっちへ回った時か」
二人で地形を確認する。
普通の作戦確認だった。少なくとも、最初は。
次の場所へ向かったところで、俺の足が止まった。
「……ここは使わない方がいい」
ほとんど考えずに口から出た。
ほむらも同時に止まっていた。
「……私も、そう思います」
少し遅れて気づく。
前の世界で戦線が大きく崩れた場所だった。巨大な瓦礫が落ち、逃げ道を塞がれ、そこから俺たちは別方向へ追い込まれた。
「どうしてですか?」
ほむらがこちらを見る。
一瞬だけ迷う。
「……地形的に危なそうだから。左右を塞がれたら、抜けにくいだろ」
完全な嘘ではない。実際、逃げ道は狭い。
「……そうですね」
ほむらは納得したように見えた。
ただ、すぐには歩き出さなかった。
それでもまだ、偶然で説明できる。
俺たちはその場所を外し、次へ進んだ。
◇
「マミさんは、こっちじゃない方がいい。もう少し後ろ」
次の地点でも、また自然に言葉が出た。
ほむらが俺を見る。
「どうしてですか?」
「前に出すぎる」
「巴さんは前衛もできます」
「できるけど……」
言葉が止まる。
前の世界で、マミさんはここから前へ出た。
そこへ攻撃が重なった。
助けられなかった。
思い出したくもない。
「援護へ戻るのに時間がかかるだろ」
何とか理由を作る。
ほむらは少し黙り、それから地面の一点を見たまま小さく言った。
「……私も、巴さんをそこには置きたくありません」
「じゃあ決まりだな」
軽く流そうとする。
「マギカさん」
「何?」
「どうして、巴さんをそこへ置きたくないんですか?」
さっきと似ている。
でも今度は、俺の答えを確認するみたいな聞き方だった。
「……勘」
ほむらの眉がほんの少し動く。
「……また勘ですか?」
責めているわけではない。それでも、もうその言葉をそのまま信じてはいないことだけは分かった。
「結構当たるんだよ、俺の勘」
軽く言ってみたが、ほむらは笑わなかった。
「そうですね」
それだけだった。
◇
さらに進む。
停止した街は、どこまで行っても静かだった。信号も変わらず、木の葉も落ちてこない。俺たち二人の足音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……変ですね」
突然、ほむらが言った。
「何が?」
「誰かとここを歩くのは」
少し意外だった。
ほむらは前を見たまま続ける。
「前は、止めた時間の中にいるのは私だけでした」
そうだ。
この子にとっては、時間停止は最初から一人になる能力だった。まどかが目の前にいても動かず、マミさんへ話しかけても返事はない。どれだけ長く止めても、その間だけは一人だ。
「前にも一緒に入っただろ」
「はい。でも、あの時は……実験だったので」
俺も同じことを考えていた。
「今日は違うって?」
「……少し」
ほむらの手が僅かに握り直される。
「相談できますから」
それだけ言った。
「便利だな」
「はい」
たぶん、それだけじゃない。
でも今は、それでいい。
◇
次の地点へ近づいた時だった。
俺とほむらの足が、ほとんど同時に止まった。
目の前にあるのは、ごく普通の道路だった。脇に低い壁があり、少し離れたところに街路樹が並んでいる。
何もない。
今の世界では。
でも、俺には別のものが見えていた。
瓦礫。
壊れた道路。
炎。
その先にいたマミさん。
前回、戦線が崩れた直前に見た光景だった。
喉の奥が少し詰まる。
隣を見ると、ほむらも同じ方向を見たまま動いていなかった。顔色がわずかに変わっている。
こいつも覚えている。
当然だ。
同じものを見たんだから。
数秒、どちらも喋らなかった。
先に視線を逸らしたのは俺だった。
「……ここも避けよう」
「どうしてですか?」
今度ばかりは、地形では説明しづらい。
道路は広く、逃げ道もある。見晴らしだって悪くない。今の状態だけを見れば、ここを外す理由なんてほとんどなかった。
「……勘」
ほむらはすぐには返事をせず、静かにこちらを見る。
「また、ですか」
「まただよ」
自分でも苦しいと思う。
ほむらは何も言わなかった。
ただ、その視線だけがしばらく俺から離れなかった。
◇
「戻します」
確認を終え、最初の場所まで戻ってきた。
ほむらが盾へ手を掛け、俺も頷く。
「頼む」
時間が動いた。
止まっていた車が走り出し、風に浮いていた紙切れが地面へ落ちる。遠くの話し声やエンジン音まで、一斉に耳へ押し寄せてきた。
「どうだった?」
まどかがすぐに聞いてくる。
向こうからすれば、俺たちが手を繋いだと思った次の瞬間には戻ってきたようにしか見えていないのかもしれない。
「使える」
「……大丈夫です」
俺とほむらが答えると、まどかが二人を見比べた。
「何か、二人とも疲れてない?」
「歩いたからな」
「結構見て回りました」
「時間止まってたのに?」
「止まってるのは外だけだから」
「そっか」
まどかは納得すると、鞄から飲み物を二本取り出した。
「はい」
「俺にも?」
「二人ともでしょ」
ほむらも少し驚いた顔で受け取る。
「ありがとうございます」
俺も一本もらった。
お前が一番無茶するんだけどな。
そう思ったけど、今は言わない。
◇
もう一度マミさんの部屋へ戻り、現地で見たものを地図へ落とし込む。
「ここは使わない方がいいと思う」
俺が印をつけると、ほむらも同じ場所へ頷いた。
「こっちもです。巴さんは、少し後ろへ」
「なるほどね」
マミさんは俺たちの話を全部聞いた。でも、そのまま採用はしなかった。
「二人の意見は分かったわ。ただ、この配置だと鹿目さんの射線が切れるの」
鉛筆を持ったまま、地図の別の位置を指す。見ると、確かに射線が一部建物へ重なる。
「それに暁美さんが時間を止めて移動している間、私たちには何が起きているか分からない。前へ出すぎると、戻ってきた時に連携が切れるわ」
ほむらも地図へ身を乗り出す。
「では、この辺りなら?」
「そこならいいと思う」
まどかも自分から別の地点を指した。
「私、少し高いところから撃った方がいい?」
マミさんが少し考える。
「そうね。でも固定しすぎない方がいいわ。相手がどこへ動くか分からないから」
四人で一枚の地図を覗き込む。
俺とほむらが持ち帰った情報をマミさんが戦術へ組み直し、まどかも自分で射線や移動先を考えている。
前回にはなかった準備が、少しずつ形になっていく。
これなら――。
そう思いかけて、最初にマミさんが言ったことを思い出した。
相手が、こちらの想定通りに動くとは限らない。
浮かれすぎるな。
それでも、少しくらい期待してもいいだろう。
◇
作戦が決まった後は、不思議なくらい普通の時間へ戻った。
地図を畳み、ノートを閉じる。さっきまで戦場の配置を書き込んでいたテーブルの上へ、紅茶と残っていたクッキーが戻ってきた。
「今日はこれで終わりにしましょう」
マミさんが言った。
「これ以上考えても、今できることは増えないわ。ちゃんと休むのも準備のうちよ」
「はい」
ほむらは真面目に頷いた。
その横で俺もカップを取る。確かに、これ以上作戦を増やしても頭が混乱するだけだ。
「ほむらちゃん、今日はちゃんと寝るんだよ」
まどかがすぐ念を押した。
「……寝ます」
「本当に?」
「寝ます」
二回言った。
信用されてない。
「爆弾作らない?」
俺も混ざる。
「作りません」
今度は少し強かった。
マミさんが笑う。
「暁美さん、前科があるものね」
「巴さんまで……」
ほむらが少しだけ肩を落とした。
こうして話していると、明日大きな戦いがあることまで一瞬忘れそうになる。それくらい、いつも通りだった。
◇
翌日の学校でも、日常は何事もなく続いていた。
教師がホワイトボードへ文字を書き、窓の外では運動部の声が聞こえる。さやかは授業中から眠そうな顔をしていて、その横では仁美が真面目にノートを取っている。
ほむらも教科書を開き、まどかも少し離れた席にいる。
俺も田中として、その中にいた。
ワルプルギスの夜が近づいていることなんて、教室にいるほとんどの人間は知らない。
昼休みになると、いつものように机が寄せられた。
「今日のおかず何?」
さやかが俺の弁当を覗き込む。
「普通」
「普通って何?」
「普通は普通」
「説明する気ないでしょ」
その横でまどかが笑う。
ほむらも弁当を開きながら、一度だけこちらを見た。昨日の作戦会議を思い出しているのかもしれない。
でも何も言わない。
俺も言わなかった。
「明日も一緒に食べようね」
まどかが何気なく言った。
「うん」
さやかが先に答える。
仁美も微笑んだ。
「もちろんですわ」
ほむらも小さく頷く。
「……はい」
俺も少し遅れて頷いた。
「そうだな」
その一言だけが、少し重かった。
◇
放課後、校門を出る頃には空が少し曇り始めていた。
昨日より風が強い。それでも、まだ普通の帰り道だ。
さやかと仁美が途中で別れ、残ったのは俺とまどかとほむら。
「今日は寄り道しないで帰ろうか」
まどかが言う。
「マミさんも、ちゃんと休もうって言ってたし」
「そうですね」
ほむらが素直に頷く。
「俺も今日は帰るよ」
田中としては。
その後の予定は、また別だけど。
三人で歩く。
特に話題はなかったけれど、気まずくもない。それが最近では普通になっていた。
少し前を歩いていたまどかが、ふと思い出したように振り返る。
「明日も一緒に帰ろうね」
一瞬だけ、足が止まりそうになった。
ほむらも同じだったらしい。
でもまどかは気づかず、いつもの顔で笑っている。
「……はい」
ほむらが答えた。
俺も少し遅れて頷く。
「うん」
明日も学校へ来て、明日も一緒に帰る。
本当なら、それだけの約束だ。
なのに今は、妙に遠く感じた。
俺はその考えを振り払い、前を向く。
準備ならした。
前回と同じじゃない。
◇
## ――暁美ほむら視点
その日の夜、机へ向かっていても、昨日のことが何度も頭に浮かんだ。
止まった世界を、マギカさんと一緒に歩いた時のこと。
『ここは使わない方がいい』
『マミさんは、こっちじゃない方がいい』
『ここも避けよう』
どれも、私も同じ場所を見て考えたことだった。
最初の二つなら説明できる。
地形を見れば危険だと分かる場所だったし、巴さんの位置についても、戦い方を考えた結果だと言われればそれで済む。
でも、最後の場所だけは違った。
あの道路は広く、逃げ道もある。今の景色だけを見れば、戦場として悪い場所ではない。
それでも私は、あそこでは戦いたくなかった。
前の時間軸で、あそこで失敗したから。
戦線が崩れ、最後にはみんないなくなった。
そしてマギカさんも、あの場所を見た瞬間に足を止めた。
私とほとんど同時に。
「……勘」
机の上で、眼鏡の縁へ指を触れる。
マギカさんはそう言った。
けれど、何もない道路を見た時のあの止まり方まで、本当に勘だけで説明できるのだろうか。
今日は聞かなかった。
聞いても、きっと同じ答えが返ってくる気がしたから。
でも、もし次も同じことがあったら。
眼鏡を掛け直し、机の上の教科書へ視線を戻す。
明日は来る。
もう一度、ワルプルギスの夜が。