あれから、どれくらい経ったのか分からなかった。十秒かもしれないし、一分も経っていないのかもしれない。時間を確かめる余裕なんてなかった。
さっきまで四人で見上げていた空には、まだワルプルギスの夜がいる。耳障りな笑い声も、街を叩き続ける風も、倒れたマミさんのために止まってはくれない。当然だ。あれは魔女だ。こっちが一人死んだからといって、待ってくれる理由なんてない。
「――っ!」
頭上から落ちてきた瓦礫を刀で受け流す。いつもなら弾ける程度の破片なのに腕が押し負け、刃を斜めに滑らせてどうにか軌道を変えただけで、足が半歩後ろへ下がった。
ティロ・フィナーレの連射に、成り代わり、時間停止への長時間同行。その後も戦い続けたせいで、魔力も体力も前回以上に削られている。身体は重い。それでもまだ動くなら、止まっているわけにはいかなかった。
「ほむら!」
少し離れた場所で、ほむらがマミさんを見ていた。盾へ手を添えたまま動かず、視線だけが倒れた身体へ縫いつけられている。
「私が……私を助けたから、巴さんが……」
小さな声だった。
また瓦礫が飛んでくる。今度はまどかの矢が途中で砕いた。
「ほむら!」
俺はもう一度名前を呼ぶ。ほむらがようやくこちらを見る。
「今は前見ろ!」
出てきたのは、それだけだった。慰める言葉なんて今は思いつかないし、マミさんの死を誰のせいにもしたくない。それを説明している時間もなかった。
ほむらは唇を噛み、一度だけマミさんへ視線を戻した。それから自分で前を向き、震える手で盾を構える。
「……はい」
声はまだ揺れていた。それでも立った。
その横では、まどかが泣いている。頬には涙が残り、弓を握る指まで震えていたが、手放してはいなかった。
「……まだ、終わってない。マミさんが、ここまで作ってくれたんだもん」
自分へ言い聞かせるように呟いてワルプルギスを見上げ、弓を持ち直す。
「終わらせないと」
「……ああ」
俺も刀を握り直した。
◇
最初の数分で、マミさんがいなくなった意味を嫌というほど思い知らされた。
「まどか、右!」
「うん!」
まどかが飛び退いた直後、別方向から瓦礫が落ちる。
「ほむら!」
「っ……!」
ほむらが時間を止め、数メートルだけ位置を変えた。解除と同時に俺が前へ出る。
「スペッキオ・ファントム!」
攻撃方向を逸らす。そこまでは間に合ったが、その分だけ次への対応が遅れた。
マミさんがいた時は違った。誰かが一つの攻撃へ対応している間に、次の危険を見ていた。まどかの位置も、ほむらの残り魔力も、俺が前へ出すぎていることも、一人でまとめて把握していた。
今は三人とも、自分と目の前の敵を見るだけで精一杯だった。
「マギカちゃん!」
まどかの声に振り返る。
大きな瓦礫がこっちへ来ていた。
「ぐっ……!」
刀で受けると腕が痺れるほど重い。横へ流して何とか避けたが、その間にほむらが別の攻撃を受けそうになる。俺が声を出すより先にまどかの矢が飛び、ぎりぎりのところで軌道を逸らした。
全部、ぎりぎりで繋いでいる。
「……違う」
息を吐く。
こんな動きじゃない。マミさんなら、誰かが危険になってから助けるんじゃなく、その前に位置を変えて危険そのものを潰す。もっと早く次を見る。
俺は、それを知っている。
なら、使える。
胸元へ手を当てた。
魔力が一気に抜ける。銀白の衣装へ再び黄色が混ざり、刀の輪郭が崩れてマスケットへ変わった。足の置き方が変わり、視線の運び方まで少しだけ別人のものへ寄っていく。
目の前の敵だけじゃない。まどかとほむらの位置、ワルプルギスの向き、飛んでくる瓦礫、退路。その全部が一度に視界へ入ってきた。
一瞬だけ、いけると思った。
マスケットを三本展開する。
「まどか、左へ! ほむらは一度後ろに――」
言いかけたところで判断が遅れた。
「っ!」
まどかが自分で飛び退き、その直後に地面が抉れる。
見えてはいる。でも、その全部から一番いい答えを選ぶまでに一拍かかる。マミさんなら、その一拍すらほとんど作らなかった。
「……違う」
また声が漏れる。
マスケットは出せる。リボンも使える。立ち方も構え方も、身体のどこへ力を入れるかさえある程度分かる。でも、巴マミが何度も一人で魔女と戦いながら積み上げてきた判断まで、俺の中へ全部入っているわけじゃない。
「マギカちゃん!」
「分かってる!」
まどかの前へリボンを伸ばし、飛来物へ巻きつけて軌道を逸らす。
その瞬間、胸の奥から妙に強い感情が湧いた。
鹿目さんを守らないと。暁美さんにも無茶をさせちゃいけない。私が二人を――。
「……っ」
思考の途中で、自分のものじゃないと気づく。
俺自身だって二人を守りたい。でも今のこれは、それだけじゃない。誰かを守る時の焦り。後輩を見る時の距離。自分が前へ立つことを当然だと思う感覚まで、マミさんのものが混ざっている。
「……今それどころじゃねえだろ」
自分へ言い聞かせる。口調まで一瞬揺れた。
長く使うな。この状態は便利すぎる。だからこそ、危ない。
◇
戦いは少しずつ、街の中心から河川敷側へずれていた。
俺たちが押したのか、ワルプルギス自身が移動したのかはもう分からない。ただ、街は明らかに壊れていた。遠くで建物の一部が崩れ、道路には倒れた電柱と飛ばされた車が転がっている。火の手が上がっている場所もあり、強風に混じってサイレンが途切れ途切れに聞こえた。
避難は前回より早く進めていた。それでも無傷では済まない。ワルプルギスの夜は、戦う相手である前に災害だった。
「……倒せる?」
まどかが息を切らしながら聞いた。
すぐには答えられなかった。さっきまでより高度は落ちているし、集中攻撃も効いた。それでも、まだ動いている。まだ笑っている。
「分からない。でも、このまま街へ進ませるのは駄目だ」
ほむらも息を整えながら頷く。
「……押し返す」
「うん」
まどかがワルプルギスを見上げる。
「倒せなくても、これ以上来させない」
いつの間にか目標は変わっていた。ワルプルギスを倒すことから、見滝原から遠ざけて生き残ることへ。今できる最善を取る。
マミさんなら、そう判断したかもしれない。
そう考えてから、すぐに打ち消した。
◇
「……もう一度だけ、止めます」
ほむらが言った。
俺はすぐに顔を見る。
「無理だろ」
顔色が悪い。時間停止を何度も使い、さっきは俺とマミさんまで長時間巻き込んだ。
「できます」
「できるかじゃなくて――」
「やります」
今度は、ほむらが俺を見る。
眼鏡の奥の目は疲れていた。でも、逃げてはいない。
「これ以上は使いません。最後です」
盾へ手を添えるほむらを見て、少し黙った。止めたい気持ちはある。それでも本人が自分で決めたことまで、俺が勝手に奪うわけにはいかない。
「……分かった」
それなら、こっちも最後だ。
「まどか」
「うん」
まどかも分かっていた。弓を握り直す。
「最後に一回、大きいの撃てる?」
まどかは自分のソウルジェムへ一瞬だけ視線を落とした。かなり濁っている。戦っている最中は、まともに確認できなかった。
「まどか、それ以上は――」
「でも」
まどかが俺を見る。
「ここで止めないと、また街に行っちゃう。私、まだ撃てるよ」
声は震えていなかった。
たぶん、俺が止めても撃つ。
「……一発だけ」
「うん」
「それで終わり」
「分かった」
ほむらが俺へ手を伸ばす。俺は成り代わりを維持したまま、その手を取った。
「いきます」
◇
さっきより静かに感じた。いや、俺たちが疲れすぎているだけかもしれない。
「長くは無理です」
「位置だけ変える」
俺はワルプルギスを見る。完全に動かない巨大な姿を前にしても、もう驚く余裕はなかった。
「正面は避ける。右へ」
「はい」
二人で移動する。
足が重い。マミさんの感覚が残っているせいで、身体だけはもっと綺麗に動こうとする。でも実際の俺はついてこない。それでも、まどかからの射線が通る位置まで進んだ。
「ここ」
ほむらが盾から残っていた爆発物を取り出す。数はもう多くない。
俺もマスケットを展開した。一本、二本、三本。それ以上は輪郭を保てずに崩れる。
さらにリボンを張る。直接ワルプルギスを縛れるほど強くはないから、狙うのは飛来物と周囲の瓦礫だ。解除直後、まどかの射線へ入りそうなものを先にずらしておく。
その上へ残った魔力を重ねた。
「スペッキオ・ファントム」
視界が一瞬霞む。
ワルプルギスの認識へ触れた瞬間、広すぎる感覚に頭が押し返されそうになった。人間相手みたいにはいかないし、全部を誤魔化すなんて無理だ。
それでも一瞬だけなら、どこから攻撃が来るのか、どこへ反撃するのか、その向きだけならずらせる。
「……これで」
胸が痛い。ソウルジェムが熱い。明らかに魔力が足りていない。
それでも、最後まで繋ぐ。
「ほむら」
「はい」
「戻した瞬間、全部撃て」
「分かりました」
俺も構える。止まった向こう側で、まどかが弓を引いている。
時間が動けば、全部重なる。
「戻します」
「頼む」
◇
世界が動いた。
ほむらの爆発が弾け、俺のマスケットが火を噴く。先にずらしておいた瓦礫がまどかの射線から外れ、スペッキオ・ファントムでワルプルギスの反応がほんの僅かに遅れる。
「――お願い!」
まどかの声と同時に、桃色の光が空を裂いた。
今までで一番大きい。矢というより、巨大な光の塊だった。俺たちが作った僅かな道を真っ直ぐ通り、ワルプルギスへ突き刺さる。
遅れて衝撃が来た。
「――っ!」
身体が浮いた。地面がどこにあるのか分からなくなり、何かへ背中から叩きつけられた瞬間、肺の中の空気が全部押し出される。
耳鳴りで音が消えたように感じたが、実際には聞こえていないだけだ。口の中には鉄の味が広がっている。
動こうとする。右腕は動く。左も動いた。片方の足が痛いが、たぶん折れてはいない。
視界の端で、衣装に混じっていた黄色が消えていく。
成り代わりが解けた。
マスケットもリボンも、衣装へ混ざっていた色も消える。それと同時に、頭の中へ残っていたものまで少しずつ遠ざかっていった。
銃の握り方。リボンを操る感覚。鹿目さん。暁美さん。二人を守らなきゃという、あの強すぎる感情。
「……マミさん」
何で今、と思う。
それでも、薄れていく感覚を追いかけるように、少しだけ寂しいと思った。
すぐに頭を振る。
今はそれどころじゃない。
「まどか……ほむら……」
身体を起こす。全身が痛むが、まだ動ける。
少し先に、ほむらが倒れていた。
「ほむら!」
「……大丈夫、です」
大丈夫そうには見えない。呼吸は荒く、盾へ添えていた手も震えていた。もう時間停止を使える状態じゃない。
その向こうでは、まどかだけが立っていた。弓を下ろし、肩で大きく息をしている。
「まどか!」
呼ぶと、こちらを見る。
「大丈夫……」
声は弱い。それでも立っている。
そこでようやく、誰も次の攻撃を避けていないことに気づいた。
来なかったからだ。
「……?」
俺は空を見る。
煙と埃で何も見えない。それでも、ワルプルギスの笑い声が聞こえなかった。最初は耳鳴りのせいかと思ったが、それだけじゃない。
風も弱くなっている。さっきまで身体ごと持っていかれそうだった暴風が、普通の嵐と呼べる程度まで落ちていた。
「……いない?」
まどかが呟く。
煙が少しずつ流れていく。
その向こう、空のかなり遠い位置に黒い影があった。
さっきまで街の上を覆っていた巨大な姿が、今は小さく見えるほど遠ざかっている。
「ワルプルギス……?」
ほむらも何とか身体を起こして見る。
影はさらに遠ざかっていった。
追える状態じゃない。それ以前に、本当に逃げているのかさえ分からなかった。最後の攻撃が効いたのか、一定時間が経っただけなのか、もともと別の方向へ移動するつもりだったのか。目的を終えたのか、それともただ一時的にここから離れているだけなのか。
「……終わった、んですか?」
ほむらが聞いた。
俺は答えられなかった。
グリーフシードはない。核を砕いた感覚もない。普通の魔女を倒した時みたいに、結界が崩れたわけでもない。
ただ、あいつはいなくなった。
「……分からない」
それしか言えなかった。
◇
数分待っても、何も来なかった。
ワルプルギスの笑い声は戻らず、強風はさらに弱まり、空を飛んでいた瓦礫も落ち着いていった。
遠くではまだサイレンが続いている。火事もあるし、建物も壊れている。街は酷い状態だった。それでも新しく何かが壊される音はなく、避難している人たちの方へ攻撃が飛ぶこともなかった。
結果だけを見れば、押し返した。撃退した。そう言ってもいいのかもしれない。
「……やった?」
まどかが、疲れきった顔でほんの少しだけ笑った。
ほむらも、信じられないものを見るように空を見ている。
「前は……」
言いかけて、止まる。
俺には意味が分かった。
前は、ここまで行けなかった。ワルプルギスを遠ざけるところまで辿り着けなかった。
今回は違う。ちゃんと進んだ。やり直した意味はあった。
◇
「マミさん……」
三人で戻った。
正確には、俺とほむらはまともに歩けず、まどかに何度も支えられながらだった。
安全な場所へ移したマミさんは、そのままだった。金色の髪も、閉じた目も、何も変わっていない。
起きるはずがないことくらい分かっている。戦っている間は考える暇がなかったから動けていただけで、今はその余裕ができてしまった。それが一番きつかった。
まどかがマミさんの横へしゃがむ。
「……マミさん」
一度呼んだ。
返事はない。
まどかの肩が小さく震え、ほむらも少し離れた場所で立ち尽くしている。俺も何を言えばいいのか分からなかった。
不意に、マミさんの部屋で過ごした夜の光景が頭に浮かぶ。
テーブルに並んだお菓子。紅茶。そこで笑っていたマミさん。
『こうしてみんなが一緒なら……もう何も怖くないわね』
あの時は、やめてくれと思った。フラグだって。
今思えば、そんなことはどうでもよかった。ただ嬉しかったんだ。一人じゃなくなったことが。
「二人とも……大丈夫?」
まどかの声で顔を上げる。
何でお前がこっちを心配してるんだ。さっき一番大きな魔法を撃ったのは、お前だろ。
「俺より……」
言いかけて、気づいた。
まどかの胸元にあるソウルジェム。その色がおかしい。
桃色だったはずの輝きはほとんど見えず、端に僅かに残った色以外は、ほぼ全部が黒く濁っていた。
「……まどか」
声が出た。
「え?」
まどかがこちらを見る。
ほむらも俺の視線を追い、同じものを見た瞬間に固まった。
まどか自身は、まだ分かっていない。
「どうしたの、マギカちゃん?」
少し疲れた顔で、それでもいつものように聞いてくる。
俺は答えられなかった。
ワルプルギスはいない。風も弱くなった。街への攻撃も止まった。俺たち三人は生きていて、前回より先へ進んだ。
それでも、俺は知っている。
ついさっきまで胸の中にあった「勝ったのかもしれない」という感覚が、一瞬で消えた。
もう一度、名前を呼んだ。