ほむらは、俺の手を離さなかった。
時間停止を解いてから、もう何秒か経っている。強く握る必要なんてないはずなのに、細い指が俺の手へ食い込んだまま動かない。
遠くではサイレンが鳴っていた。火の回った建物から煙が上がり、風に煽られた灰が壊れた道路を転がっていく。ワルプルギスの夜がいなくなっても、見滝原の街が元に戻るわけじゃない。
まどかだった魔女も、少し離れた場所にいる。そこだけ、街の形そのものが違って見えた。
「……マギカさん」
もう一度、名前を呼ばれた。
「……何?」
ほむらはすぐには続けなかった。俺の顔――正確には、仮面の奥を探るように見ている。
「どうして……どうして、すぐ分かったんですか?」
何のことかと聞き返しかけて、やめた。
分かっている。
まどかのソウルジェムが黒くなった時、形が変わるより前に俺は叫んだ。
『ほむら、離れろ!』
その直後には、グリーフシードまで探した。あの時のほむらは、まどかが戦いすぎて具合を悪くしたとしか思っていなかったはずだ。
「それは……」
言葉が続かなかった。
ほむらの指から少しだけ力が抜ける。それでも、まだ手は離れない。
「ワルプルギスの時も」
「……」
「ここは危ないって言いました。巴さんを置く場所も、逃げる方向も……私が言おうとしたことを、先に何度も言った」
ほむらは一度だけ壊れた街へ視線を向け、すぐにこちらへ戻した。
「そのたびに、勘だって言ってましたよね」
「……」
「今日もです。鹿目さんのソウルジェムを見て、すぐに離れろって言った。グリーフシードまで探した」
そこで、ようやく手が離れた。
さっきまで触れていた場所だけ、急に冷えた気がした。
「マギカさん」
ほむらの目は逸れない。
「……知ってたんですか?」
風が吹き、長い髪が頬へ張りついた。払う気にもならない。
何か言えばいい。偶然だった。濁り方を見て危ないと思っただけ。いつものように、勘だと誤魔化せばいい。
口を開いた。
でも、声は出なかった。
ほむらは黙って待っていた。一秒、二秒。それだけあれば十分だったらしい。
「……そうなんですね」
「ほむら」
「知ってたんですね」
今度は、もう聞いていなかった。
怒鳴られたわけでもない。その方が痛かった。
「全部じゃない」
ようやく出た言葉に、ほむらの眉が僅かに寄る。
「全部じゃ、ない?」
「……魔法少女が、魔女になる。それは知ってた」
口にした途端、さっき見たものが頭の中へ戻ってきた。
黒くなったソウルジェム。ほむらの手を握ったまま、怖いと言ったまどか。それがグリーフシードへ形を変え、そのあと、まどかの姿まで消えた。
「いつからですか?」
間を置かず、次の言葉が来た。
「……」
「今日、初めて気づいたんじゃないですよね。だって、あんなにすぐ……」
ほむらの視線が俺の手へ落ちる。ソウルジェムを見た瞬間、ほむらをまどかから引き離そうとした手だ。
「最初から?」
息が止まりそうになった。
「マギカさんは、ずっと前から知ってたんですか?」
知らなかったと言えば、まだ誤魔化せるかもしれない。
そう考えた自分が嫌になって、俺は目を逸らした。
ほむらが小さく息を吸う音がした。
「だったら……だったら、どうして教えてくれなかったんですか?」
いつか聞かれるかもしれないとは思っていた。答えだって、何度か考えたことはある。
でも実際にほむらを前にすると、用意していた言葉はどれも遠くへ行ってしまった。
「証拠がなかった」
最初に出たのは、それだった。
「何?」
「俺がそんなことを言っても、信じてもらえるものが何もなかった。ソウルジェムが濁り切ったら魔女になるなんて、キュゥべえだって自分から話さないし……いきなり聞かされても、普通は信じられないだろ」
ほむらは何も言わずに聞いていた。
止められないから、言葉が続く。
「それに……俺も、どうすればいいか分からなかった」
「どうすれば?」
「知ってたのは、そうなるってことだけだ。だったら、その前に止めればいいと思ってた。ソウルジェムを濁らせなきゃいい。グリーフシードで浄化すればいい。そうなる前に気づけば……」
ほむらの眉が僅かに動く。
「気づけば?」
「俺が先に何とかすれば済むって」
そこまで言って、口が止まった。
まただ。
危なくなる前に俺が気づく。起こる前に俺が止める。誰にも知られないまま助かれば、それでいい。
ずっと、そんな考え方をしていた。
「俺が知ってるなら、俺が見てればいいと思ったんだよ。ソウルジェムの濁りだって、危なくなる前に俺が――」
「それを」
ほむらの声に遮られた。
本人も次の言葉を探しているようで、一度口を閉じる。それからゆっくり顔を上げた。
「……それを決めるのは、マギカさんなんですか?」
「……え?」
「私たちに話すかどうかを」
ほむらの手が制服の裾を掴む。
「巴さんが知るかどうかを。鹿目さんが、自分のソウルジェムに何が起きるのか知るかどうかを」
一つずつ、確かめるように言葉を置いていく。
「全部、マギカさんが決めるんですか?」
「違う」
反射的に返した。
「……何が違うんですか?」
そこで、何も言えなくなった。
違う。そんなつもりじゃなかった。誰かから何かを奪いたかったわけじゃない。ただ助けたかったし、知って苦しむくらいなら、知らない間に問題そのものを消してしまえばいいと思っていた。
でも、だから何だ。
話さないと決めたのは俺だ。本人たちがどうしたいのか、一度も聞いていない。
「……」
言い返せなかった。
ほむらが俯く。
「私……何も知らなかった」
眼鏡の奥から一滴落ちた。
「魔法少女になって、時間を戻せるようになって……今度こそ鹿目さんを助けられるって、そればっかりで。今日だって、鹿目さんにたくさん戦ってもらった」
「それはお前のせいじゃ――」
「だって知らなかった!」
初めて声が跳ねた。
ほむら自身も驚いたように息を止める。それでも、もう言葉を引っ込めなかった。
「知らなかったんです。戦ったらソウルジェムが濁ることは知ってました。でも、その先にあんなことがあるなんて……鹿目さんが、鹿目さんじゃなくなるなんて」
肩が震える。
「知ってたら……」
そこで途切れた。
知っていたら何ができたのか。それは俺にも分からない。戦わせなかったかもしれない。もっとグリーフシードを残していたかもしれないし、何か別の方法を探したかもしれない。結局、結果は変わらなかった可能性だってある。
でも少なくとも、何も知らないままではなかった。
「俺だって……」
声が漏れた。
「俺だって、ああなるのを見たかったわけじゃない」
「分かってます」
すぐに返ってきた。
顔を上げると、ほむらは泣いていた。それでも、こちらから目を逸らさない。
「マギカさんが鹿目さんを大事にしてたことくらい、分かってます。何度も助けてくれたし。巴さんのことだって、私のことだって」
一度だけ言葉が止まる。
「だから……分からないんです」
視線が、まどかだった魔女のいる方向へ向いた。
「あんなに鹿目さんを大事にしてたのに。知ってたのに……」
俺もそちらを見る。
黒く歪んだ向こう側には、もう桃色の髪は見えない。
「なんで、こんな……」
その先は出なかった。
俺にも分からなかった。
◇
しばらく、どちらも喋らなかった。
サイレンと、遠くで何かが崩れる音だけが続いている。
ほむらは眼鏡を外し、袖で目元を拭った。そのままレンズまで擦ってしまい、慌てて指を止める。
「ほむら」
名前を呼んで、一歩近づこうとした。靴底が瓦礫を踏んだ音に反応するように、ほむらが半歩だけ下がる。
俺も止まった。
拒絶されたのは、それだけだった。
もう信用しないとも、近寄るなとも言われていない。それでも少し前まで、止まった世界を歩く時も、まどかから逃げる時も、向こうから手を差し出してくれていた。
「……今は」
ほむらが眼鏡をかけ直す。
「少し、一人にしてください」
「……分かった」
追わなかった。
ほむらは数メートル先まで歩き、崩れたガードレールの横へ腰を下ろす。遠くへ行ったわけではなく、俺からも見える場所にいる。
それでも、さっきまでよりずっと遠かった。
◇
足元にガラス片が落ちていた。
何となく拾い上げる。薄くて、たぶん少し前までどこかの窓だったものだ。親指と人差し指の間で一度だけ転がし、また地面へ置いた。
『それを決めるのは、マギカさんなんですか?』
ほむらの言葉が頭から離れない。
危ないことを知っているなら、その前に防げばいい。それで助かるなら問題ない。本人が何も知らなくても、最後に生きていればそれでいい。
ずっと、そう考えていた。
でも、助けることと、その人に選ばせることは同じじゃない。
そんな当たり前のことを、今さら考えている。
「……最悪だな」
声は風に消えた。
まどかだった魔女のいる方へ視線を向ける。
なんで、こんな。
ほむらが言った。
こっちが聞きたい。
マミさんを一度は助けた。ワルプルギスとも前より戦えた。最後には、あいつを街から遠ざけるところまでいった。
そこまで出来たのに、マミさんはいない。まどかもいない。ほむらは数メートル先で、俺から離れて一人で座っている。
◇
少し経つと、考えたくもないのに、さっきの戦いが頭の中で何度も繰り返された。
まどかのソウルジェムを最後にちゃんと確認したのはいつだったか。思い出せない。ワルプルギスばかり見ていた。
最後の一撃の前、まどかは「まだ撃てる」と言った。俺は止めかけて、それでも結局撃たせた。グリーフシードがほとんど残っていないことも知っていたはずなのに、使った数も、残りがどれだけあるのかも、途中からまともに数えていなかった。
戦いが終わるまで持てばいい。
どこかで、そう考えていた。
でも最後まで持たなかった。
それだけで、まどかはいなくなった。
地面へ手をつくと、指先に細かい砂が付いた。
ワルプルギスをどう倒すか。そこばかり見ていた。でも、その前から俺たちは戦い続けていた。まどかは矢を撃ち、ほむらは時間を止め、俺は成り代わりを使い、マミさんだって何度も大技を撃った。
ソウルジェムが濁ることは知っていた。グリーフシードで浄化することも知っていた。
なのに、その「知っている」をちゃんと使えていなかった。
次があるなら――。
そこまで考えて、喉が詰まった。
また、次か。
でも、止まるわけにはいかない。
次に同じ戦いが来るなら、誰にどこまで戦わせるのか。グリーフシードをどれだけ残しておくのか。戦う回数そのものを減らせないか。どこまで濁ったら前線から下げるのか。
分からないことだらけだった。
そもそも今まで、ちゃんと知ろうともしていなかった。
そして、それだけじゃない。
今回、俺が前のことを知っていたから助かった場面は確かにある。でも、知っているつもりで外したこともある。前と同じ場所で、前とは違うことが起きた。
だったら、原作の知識や前の時間軸をどこまで信用していい。何を黙っていい。何を話さなきゃいけない。
そこにも答えはない。
ただ一つだけ。
全部俺が決めればいい。
それだけは、もう使えなかった。
◇
空が暗くなり始めていた。
ワルプルギスの夜はいない。マミさんもいない。まどかもいない。それなのに、何一つ終わった感じがしなかった。
少し離れたところで、ほむらはまだ座っている。俺も追わない。
少し前、止まった世界では同じ道を歩いた。手を繋いで、同じ場所で足を止めた。その時、ほむらが何を考えていたのか俺は聞かなかったし、自分が何を知っているのかも話さなかった。
今も同じ場所にいる。
たった数メートルしか離れていない。
なのに、もう手を伸ばせる距離には感じなかった。
壊れた街へ目を戻す。
次はもっと上手くやる。
いつもの言葉が頭へ浮かんで、そのまま飲み込んだ。
それだけじゃ足りない。
何を知らなきゃいけないのか。何を伝えなきゃいけないのか。俺が一人で決めるんじゃなくて、誰に何を選んでもらうのか。
まだ、何も分からなかった。