ワルプルギスの夜の笑い声は、もう聞こえなかった。
代わりに残っているのは、遠くのサイレンと、どこかでまだ燃えている建物の音だった。崩れた道路には瓦礫が散らばり、風が吹くたび細かな灰が転がっていく。勝ったのかどうかは最後まで分からなかったけれど、少なくとも、あいつは見滝原からいなくなった。
少し離れた場所では、ほむらが壊れたガードレールの横へ座っていた。俺も別の瓦礫へ腰を下ろしている。声をかけようと思えば普通に届く距離なのに、さっきから一言も話していない。
街の向こうには、まどかだった魔女の気配が残っている。そこだけ景色の輪郭が歪み、少し前までマミさんもまどかもいて、四人でワルプルギスを見上げていたことの方が嘘みたいだった。今ここに残っているのは俺とほむらだけで、その二人の間にすら数メートルでは測れない距離ができている。
足元の小石を蹴ると、乾いた音を立てて道路の割れ目へ落ちた。
考えないようにしても、浮かんでくるものは同じだった。倒れたマミさん。黒く染まったまどかのソウルジェム。そして何より、ほむらに言われた言葉。
『どうして教えてくれなかったんですか』
あれだけは、しばらく頭から消えそうになかった。
◇
どれくらい経ったのか分からない。
先に動いたのは、ほむらだった。俯いていた顔を上げ、左腕の盾へ視線を落とす。その仕草を見た瞬間、胸の奥が冷えた。
――来る。
前にも見た。このあと、ほむらが何をするのかも知っている。
俺は反射的に視線を逸らした。
また、知らないふりをする。
ほんの少し前、隠していたことで責められたばかりなのに、それでも自分も前の時間軸を覚えているとは言えなかった。どうして覚えているのか。前の世界で何を知っていたのか。そこから話し始めたら、どこまで隠し続けられるのかも分からない。
怖かった。
「……マギカさん」
「ん?」
できるだけ普通に返した。
ほむらは立ち上がった。まだ少しふらついている。それでも左腕を持ち上げ、盾へ手を添える。
「私……もう一度、やり直します」
すぐ返したら不自然な気がして、ほんの少しだけ間を置いた。
「……やり直す?」
ほむらが頷く。
「鹿目さんとの出会いを」
言葉だけなら、それ以上でもそれ以下でもない。でも俺には分かっていた。ほむらは時間を止めるんじゃない。最初まで戻るつもりだ。
そして、たぶん俺も巻き込まれる。
前回はそうだった。今回も同じ保証なんてないけれど、胸の奥ではもう答えが出ていた。
「そんなこと、できるのか?」
知らない顔で聞く。
「……できます」
「時間停止じゃなくて?」
「はい」
ほむらの表情が僅かに変わった。
「……驚かないんですね」
一瞬、心臓が跳ねる。
「何に?」
間を置かず返した。
ほむらはしばらく俺を見ていた。仮面の向こうまで覗こうとしているような目だったが、やがて小さく首を振る。
「……いえ」
それ以上は聞かず、また盾へ視線を戻した。
助かった。
真っ先にそう思ってしまった自分が、また嫌になった。
◇
「次は」
ほむらが小さく言った。
顔を上げると、彼女はまどかだった魔女のいる方を見ている。
「次は、話します」
「……何を?」
「知っていることを。巴さんに」
今度こそ本当に驚いた。
「マミさんに?」
「はい」
ほむらの指が盾の縁を強く掴む。
「魔法少女が、最後には魔女になること」
少し前までの俺なら、やめた方がいいと言っていたかもしれない。証拠もなく、信じてもらえる保証もない。マミさんを混乱させるだけだと、もっともらしい理由を並べて止めようとしただろう。
でも、その判断を勝手にするなと、ついさっき言われたばかりだった。
「信じてもらえないかもしれません。キュゥべえが何を言うかも分からないし、巴さんがどう受け取るかも……怖いです」
ほむらはそこで一度言葉を切った。
「それでも、何も知らないままにしておくよりはいいと思うから」
俺は何も言えなかった。
『それを決めるのは、マギカさんなんですか?』
ほんの少し前に俺へ向けた言葉を、今度は自分自身にも当てはめている。知っているなら伝え、その上でどうするのかは本人に任せる。
俺より先に、ほむらの方が一歩進んでいた。
「……そうだな」
それしか出なかった。
ほむらがこちらを見る。何かを待っているようにも見えた。
今度は、お前も話すのか。
そんなことを聞かれている気がして、自分も前の時間軸を覚えていることや、もっと前からこの世界について知っていたこと、田中とマギカが同じ人間だということまで次々浮かんだ。
言わなきゃいけない。
頭では分かっている。
それでも、まだ口は動かなかった。
◇
「もう、ここには長くいられません」
遠くには、まどかだった魔女がいる。ワルプルギスは去り、マミさんもいない。このまま壊れた街へ留まっていても、何かが元に戻るわけじゃない。
「鹿目さんを……今度こそ、助けます」
その言葉自体は前にも聞いた。でも今は、少し違って聞こえた。前のほむらはまどかを死なせないために戻った。今は、その先でまどかが何になるのかまで知っている。
背負うものが、一つ増えてしまった。
俺も次のことを考える。マミさんをあそこまで消耗させない。まどかへ最後まで撃たせない。グリーフシードを余裕を持って残し、戦闘中もソウルジェムを見る。ワルプルギスさえ倒せば終わりだと思わない。
そして、俺が知っていることをどうするのか。
そこだけは、まだ答えが出なかった。
◇
ほむらが盾へ手を掛けた。
「何するんだ?」
「戻ります」
「戻る?」
「最初から」
盾が回り始めると、街の輪郭が揺らぎ、煙も瓦礫も逆向きへ引かれ始めた。身体から重さと感覚が少しずつ抜けていく。
前にも経験した。
時間が戻っている。
「……なんだ、これ」
声だけは驚いたふりをする。
光の向こうでほむらの姿と壊れた街が薄れていき、意識だけが別の場所へ引っ張られていく。またこの場所から落ちるのだと分かっていても、前回ほど怖くはなかった。
◇
その途中で、胸元が熱を持った。
二つ並んだソウルジェムへ意識を向ける。一つはいつもの銀色。これまで透明だったもう一つの奥には、前より大きくなった金色の光が浮かんでいた。
最初は点にしか見えなかったものが細い筋になり、その周囲には小さな粒までいくつか重なっている。
濁りでも、ひびでもない。むしろ妙なくらい澄んだ光で、その綺麗さが余計に気味悪かった。指を伸ばそうとしても、薄れていく身体の感覚では届かない。
これが何なのか、俺は何も知らない。
考える間もなく、視界が白く染まった。
◇
記憶が、順番もなく流れ込んできた。
最初に浮かんだのは紅茶だった。湯気の立つカップ、マミさんの部屋、四人で囲んだテーブル。
『こうしてみんなが一緒なら……もう何も怖くないわね』
あの時の俺は、そんなこと言うな、死亡フラグだなんて、くだらないことを考えていた。
今なら、もう一度聞きたい。
次に浮かんだのは河川敷。白いハンカチを持ったほむらが、まどかから水を渡されて少しだけ顔を赤くしている。そこから景色は止まった街へ移り、誰も動かない中で繋いだほむらの手と、最後には離れてしまったその手が重なった。
そして、まどか。
俺の袖を掴んだ指と、帰り道で聞いた声。
『マギカちゃん、こっち』
『明日も一緒に帰ろうね』
明日は来なかった。
でも、次なら。
◇
光がさらに強くなり、身体ごとどこかへ引っ張られる。意識まで沈み始めていたけれど、今回は何が起きているのか分かっていた。
戻れる。
しかも、失ったものは消えていない。マミさんが笑った顔も、ほむらと繋いだ手も、まどかと交わした約束も、その最後まで覚えている。
一度目は駄目だった。二度目は、前より上手くやれた。それなら三度目はもっと上手くできるはずだ。
まだ、やり直せる。
◇
目を開けた。
最初に見えたのは、見慣れた天井だった。
白い天井と、少し視線をずらせばいつもの照明。何度も寝起きに眺めたはずなのに、しばらくそれが何なのか分からなかった。
さっきまで見ていたのは煙で暗くなった空だった。耳にはサイレンがこびりつき、瓦礫へ叩きつけられた痛みまで残っている気がする。それなのに今は背中へ柔らかな布団の感触があり、部屋の中には何の音もない。
身体を起こすと、そこは間違いなく自分の部屋だった。カーテンの隙間から光が差し込み、家具も床へ置いたものも記憶通りの場所にある。窓の外では、建物も道路も電柱も何事もなかったみたいに立っていた。
見滝原。
戻った。
身体のどこにも痛みはない。ワルプルギスとの戦いで負った傷も消えているのに、頭の中にはマミさんが倒れた瞬間も、まどかのソウルジェムが黒く染まり、グリーフシードへ変わったことも残っていた。
ほむらに言われた言葉まで。
『どうして教えてくれなかったんですか』
「……覚えてる」
今回も、持ってきた。
胸元の透明なソウルジェムへ目を落とすと、その奥では前より少し増えた金色が静かに光っていた。濁りはなく、見た目だけならまだ綺麗なままだ。
マミさんは、まだ生きている。
まどかも、ほむらも。
また会える。
だったら、今度こそ。
◇
## ――暁美ほむら視点
目を開けると、病室の白い天井があった。
隅の小さな染みも、横へ視線をずらした先にあるカーテンレールも覚えている。前にもここで目を覚ました。そう認識した途端、ついさっきまで握っていたはずのマギカさんの手と、その前に握っていた鹿目さんの手の感触まで蘇った。
「……っ」
息を吸うだけで胸が痛んだ。
黒く濁ったソウルジェム。私の手を握ったまま「怖い」と言った鹿目さん。指から力が抜け、そのあとに現れた、鹿目さんではないもの。
夢ではない。全部、覚えている。
布団の上にあった片手を開くと、掌の中に紫色のソウルジェムがあった。見慣れた輝きを確かめるように指で包み込み、その感触が消えないことを何度も確かめる。
契約も残っている。
記憶も残っている。
「……戻れた」
小さく口にして、ようやく息を吐いた。
また、戻ってこられた。
身体を起こすと、戦いで限界まで酷使した身体ではなく、入院していた頃の弱い身体へ戻っているのが分かった。ベッド脇の眼鏡を掛ければ、ぼやけていた白い壁や棚、窓の向こうの壊れていない街まで一気に輪郭を取り戻す。
最後に目を向けたのは、壁のカレンダーだった。
日付は戻っている。少し先には退院予定の日へ前と同じ印があり、そこから学校へ戻れば鹿目さんと再会する。巴さんにも、マギカさんにも、もう一度会える。
全部、これからだった。
さっきまで死んでいた巴さんが、今はまだ生きている。鹿目さんも魔女にはなっていない。
間に合う。
でも、前と同じことをしてはいけない。
私は手の中のソウルジェムを握り直した。
ソウルジェムが濁り切った先に何があるのか、今度は知っている。だから巴さんにも話す。信じてもらえないかもしれないし、キュゥべえが何を言うかも分からない。それでも、何も知らないまま戦わせるよりいい。
そこまで考えた時、銀色の仮面が浮かんだ。
マギカさん。
私より先に危険な場所を知り、鹿目さんのソウルジェムが変わる前から何が起きるのか分かっていた人。ワルプルギスの夜でも、何度も私と同じ場所を見て、同じ瞬間に動いた。
前の時間では、結局聞けなかった。
どうして知っていたのか。どこまで知っているのか。
何度も「勘」だと言っていたけれど、もうその一言だけで納得することはできなかった。
カレンダーを見る。
退院まではまだ時間がある。鹿目さんと再会するまでにも、少しだけ。
今度は急がない。
知っていることを整理して、巴さんへ何を話すのか考える。
それから、マギカさんにも聞く。
私は掌のソウルジェムへ一度だけ視線を落とし、もう一度、退院予定の日を見た。
前より知っていることは増えた。
これにて2章終了です、次回からは3章…2回目のループ世界線を引き続き書いていきます。