第34話 三度目の登校
また同じ朝だった。目を覚ませば同じ部屋で、同じ天井があり、椅子には同じ制服が掛かっている。目覚ましを止めて身体を起こし、鏡の前へ立てば、銀色の髪も、すっかり見慣れてしまった女子中学生の顔も前と変わらなかった。
制服へ着替える前に胸元へ手を当てる。二つ並んだソウルジェムの片方はいつもの銀色で、元は透明だったもう一つには、時間を遡る途中で見た金色が今も残っていた。最初は点にしか見えなかったものが細い筋になり、宝石の奥へ沈むように淡く光っている。
指先で触れてみても、痛みも熱もない。濁りでもひびでもなく、見た目だけなら妙なくらい綺麗だったから、かえって正体が分からない。しばらく眺めてみたものの、今ここで考え続けても答えが出るはずもなく、俺は制服の襟を直して鞄を持った。
三度目になる。少なくとも今日は、学校で余計な反応だけはしないようにしたい。
「頼むぞ、俺」
鏡の中の自分へ小さく言って、部屋を出た。
◇
通学路も変わっていなかった。いつもの曲がり角を曲がり、同じ信号を渡って、途中のコンビニの前を通る。こうして見慣れた景色を歩いていると、時間そのものが戻ったというより、以前の日々をもう一度なぞっているような気分になる。
学校へ着けば、教室の顔ぶれも同じだった。さやかと仁美が何かを話し、その近くでまどかが笑っている。その何も知らない顔を見た途端、前の時間で聞いた声が頭の奥から戻ってきた。
『明日も一緒に帰ろうね』
結局来なかった明日の約束を思い出しながら、俺は一度だけ息を吐いて教科書を机へ置く。
今日は、ほむらが転校してくる。それも分かっているけれど、この教室にいる田中は暁美ほむらなんて知らない。少なくとも、周囲にはそう見せなきゃいけない。
「それでですね」
担任の声が聞こえ、前にも聞いたような調子で雑談が始まった。何の話をしていたかまではもう覚えていない。何周もしたところで、細かい出来事まで一字一句保存されているわけじゃないらしい。
「ところで皆さん、きのこの山派ですか? たけのこの里派ですか?」
教室が少しざわつき、俺も思わず顔を上げた。
「先生はですね、どちらも美味しいとは思うんですけど、あえて選ぶなら――中沢くん!」
「え、俺ですか?」
「きのこの山とたけのこの里、どちらが好きですか?」
周囲から笑いが起こり、中沢は困った顔で少し考えてから「たけのこですかね」と答えた。すると担任は「そうですか……」と妙に残念そうな顔をする。どっちなんだと思いながら眺めていると、前と話題が違っていても、中沢だけは変わらず巻き込まれるらしいことがおかしくて、少しだけ笑いそうになった。
大筋は同じだ。こちらから何かを変えなければ、多くのことは前と同じように流れていく。今のところは、それでいい。
◇
「今日は皆さんに、転校生を紹介します」
教室の空気が少し変わり、扉が開いた。黒い髪に眼鏡、細い身体。三度目になる暁美ほむらの転校を、俺はなるべく普通の顔で見守った。
ほむらは教師の隣へ立ち、少し硬い声で自己紹介をする。最初の頃よりは落ち着いているけれど、今朝まで病室にいた人間らしいぎこちなさはまだ残っている。教室を見渡していた視線はまどかのところでほんの少し長く止まり、まどかはそれに気づいて不思議そうに首を傾げた。
「……?」
ほむらは何も言わず、そこにいることを確かめるようにまどかを見つめてから、ゆっくり視線を外した。その意味は分かる。俺も前の時間を覚えているからこそ分かるのだが、もちろん今は知らない顔をするしかない。
次に動いた視線がこちらで止まったので、俺は初対面らしく小さく会釈した。ほむらの動きが一瞬だけ止まったあと、向こうも僅かに頭を下げる。ただ、その視線は前より少しだけ長かった。
当然といえば当然だ。前の時間で、俺は怪しいことをやりすぎた。
◇
休み時間になると、まどかは当然のようにほむらの席へ向かい、さやかと仁美も一緒についていった。
「暁美さん、だよね?」
「はい」
「いやー、転校初日って緊張するよね。困ったことあったら何でも言ってよ」
「ありがとうございます」
返事は短いものの、まどかを見る時だけほむらの表情が少し柔らかくなる。さやかへも普通に返していて、少なくとも以前のように、会ったばかりのまどかへいきなり意味深なことを言って空気を凍らせるような感じではなかった。ほむらなりに前の時間から学んでいるらしい。
「田中さんも来る?」
まどかに呼ばれ、ここで断る方が不自然だと思った俺は席を立ってその輪へ加わった。
「田中です。よろしく」
「暁美ほむらです。よろしくお願いします」
今度こそ自然だったと思った瞬間、まどかが俺たちを見比べた。
「……あれ? 田中さんとほむらちゃんって、知り合い?」
「違うよ」
「違います」
一瞬だけ妙な間が落ちる。
「そ、そうなんだ」
まどかが目をぱちぱちさせ、横でさやかが吹き出す。
「何そのシンクロ」
「たまたまだよ」
「偶然です」
さっきより悪化している。反射的にほむらを見ると、向こうも同時にこちらを見ていて、どちらからともなく視線を逸らした。
「まあ、初対面でも被る時は被るでしょ」
さやかが笑いながら流してくれたので、俺は内心でかなり感謝した。ただ、ほむらがこのやり取りを忘れるとは思えない。俺だったら絶対に覚えている。
◇
その後の授業は、驚くほど普通に終わった。教師が話し、生徒がノートを取り、さやかが一度だけ眠りかけて仁美に肘で起こされる。まどかはいつも通りで、ほむらも静かに授業を受けていた。
三周目ともなると、全部を真面目に追い続ける方が疲れる。必要なところだけ聞きながら、俺は放課後を待った。
◇
人目のないところまで来て胸元へ手を当て、魔力を流す。制服の感触が消れると、代わりに銀白の衣装が身体を包み、仮面が顔へ収まり、手の中には鏡面の刀が現れた。前なら一つずつ確かめていた変身も、もう身体が覚えている。
「……行くか」
声に出した時には、一人称も自然に戻っていた。田中ではなくマギカとして動くことにも、かなり馴染んできたらしい。
前の時間で戦った魔女の位置は大体覚えている。今日は前より少し早めに来たので、向こうが前と同じように動いているなら、まだ結界が広がり切る前のはずだった。
記憶にある路地まで来ると、ほぼ同じ場所から微かな魔力反応を感じた。ただし前より結界の気配は薄く、景色の歪みもまだ小さい。俺が早く来た分だけ、向こうも前の時間より少し前の段階にいるらしい。
「……いた。今のうちにやるか」
魔女の行動が理由もなく変わったわけじゃない。俺が以前より早く来ただけだ。それなら話は単純なので、そのまままだ広がり切っていない結界へ足を踏み入れた。
◇
最初の使い魔が跳んできた。
以前なら一度距離を取っていたところで、今は身体が自然に前へ出る。刀を抜いて一体目を横へ流し、そのまま踏み込んで二体目へ刃を滑らせると、鏡面の刀が一度光り、使い魔が崩れた。
この周回では初めての戦闘なのに、俺自身にとっては初めてじゃない。距離の取り方も、重心の置き方も、相手が跳ぶ直前の動きも前よりよく見えていた。スペッキオ・ファントムを薄く広げて進行方向を僅かにずらし、その隙間へ刀を差し込む動きも、以前のように一つずつ頭で確認しなくても身体が勝手に選んでくれる。
経験が残っていることだけは、もう疑いようがなかった。
ただ、魔女本体が出てくると、さすがに使い魔ほど簡単にはいかない。
「っ……!」
重い一撃を刀で受けると、衝撃が手首から肩まで抜けて腕全体が痺れた。強くなったといっても、急に何でもできるようになったわけじゃない。このまま一人でも押し切れそうではあるけれど、正面から削ればそれなりに時間がかかる。
なら、使えるものを使えばいい。
胸の奥へ意識を向けると、銃の重さやリボンを伸ばす感触、後輩を守る時に自然と取っていた立ち位置まで、まだ身体のどこかへ残っているのが分かった。
魔力が走り、銀白の衣装へ黄色が混ざる。刀の輪郭が崩れて一本のマスケットへ変わり、足元から伸びたリボンも以前よりずっと素直に動いた。一本、二本と形にしてみても、マミさん本人のように何本も同時に操れるわけではないし、滑らかになったのは構えや魔力操作であって、判断そのものまで巴マミになったわけじゃない。
「まだまだだな」
それでも十分使える。マスケットを撃ち、怯んだ魔女へリボンを絡ませ、そのまま次の一発を作ろうとしたところで、急に手が止まった。
会ったこともない巴マミの魔法を知っていて、その上それなりに使いこなせる。もし今これをほむらに見られたら、さすがに「勘」で押し切れる範囲を超えている。
「やめやめ」
すぐに成り代わりを解除すると、衣装から黄色が消え、マスケットもリボンもほどけていった。手の中へ刀が戻るのと同時に、拘束を失った魔女が再び動き始める。
「ちょっと早かったか。残りは自分でやる」
スペッキオ・ファントムで狙いをずらし、その横をすり抜けるように懐へ入り込む。振り向かれるより先に刀を振り抜いた。
◇
結界が崩れ、現実の景色が戻った。
俺はその場へ膝をついて何度か大きく息を吸った。一人で倒せたし、前より強くなっているのも確かだ。ただ、胸元のソウルジェムには僅かに濁りが増えていて、とくにマミさんの魔法を使った時の消耗が重く残っている。
「やっぱマミさんの魔法、燃費悪いな……」
強い代わりに重い。調子に乗って連発すれば、相手より先にこっちが潰れる可能性も十分ある。
地面へ落ちたグリーフシードを拾い上げる。前の時間では、最後にこれが足りなくなった。だから今回は一本目から数えるし、誰がどれだけ使ったのかもできるだけ把握しておくつもりだった。
そう呟いた時、背後から足音がした。
顔を上げれば、黒い髪と眼鏡が見える。
ほむらだった。
危うく「来た」と口にしかけたものの、その一言を飲み込んでから少し遅れて声を作る。
「……誰だ?」
ほむらは数歩先で足を止め、俺の仮面、刀、銀白の衣装を順番に見た。
「暁美ほむらです」
「魔法少女か?」
「はい」
短く答えたあと、ほむらの視線は俺から周囲へ移る。崩れかけた結界の残滓、戦闘跡、手にあるグリーフシードまで一通り確認してから、再び俺へ戻ってきた。
「……もう倒したんですか?」
「まあな」
その返事に、ほむらの目がほんの少しだけ細くなる。
前より早い。たぶん、そう思っている。
ここで変なことを言うな。今は初対面で、俺は何も知らない。そのつもりで平然と見返していたのだが、ほむらの視線がふと地面へ落ちた。
そこには、薄い黄色の光が残っていた。成り代わりを解除した時に消し切れなかった、リボンの形をした魔力の残滓だ。
まずいと思った時には、もうほむらも見ていた。
一度だけ目が合う。
黄色い残滓はその間にもゆっくり薄れていき、やがて完全に消えた。ほむらは何も聞かなかったが、見なかったことにしたわけじゃないだろう。
◇
少しして、別の魔力反応が近づいてきた。
「……誰か来る」
口にした直後、危うく「来た」と言いそうになっていたことに気づいた。ほむらがちらりとこちらを見たが、今回は魔力反応を感じただけで通せる。そういうことにしておく。
最初に姿を現したのは、見慣れた金色だった。
マミさん。
その後ろから二人の人影が続いてくる。
俺が何か言うより先に、マミさんの足が止まった。
「……あなたたち」
声から柔らかさが消え、俺とほむらを交互に見る。魔女の反応を追ってきた先に、見たこともない魔法少女が二人立っていて、片方はグリーフシードまで持っている。警戒されない方がおかしい。
「二人とも、魔法少女なの?」
銃こそ出していないものの、マミさんの指先には黄色い魔力が僅かに集まっていた。すぐにリボンかマスケットを出せるようにしているのだろう。
「まあ、そうなるな」
俺が答える横で、ほむらも小さく頷いた。
その時、マミさんの後ろから顔を出したまどかが、ほむらを見たまま動きを止めた。
「……え? ほむらちゃん?」
ほむらの肩が僅かに動き、続いてその横からさやかまで顔を出す。
「って、転校生!? なんであんたがこんなとこに……っていうか、その格好!」
さやかは目を丸くしながら、ほむらの魔法少女姿を上から下まで見ていた。まどかも同じで、今朝まで普通の転校生だと思っていた相手が、放課後には魔法少女の姿で立っていることに頭が追いついていないらしい。
「二人は知り合いなの?」
マミさんが振り返る。
「知り合いっていうか……今日、同じクラスに転校してきた子なんです」
「今朝来たばっかですよ。暁美ほむらって」
「……そうなの」
マミさんは改めてほむらへ視線を戻した。
「あなたも魔法少女だったのね」
「……はい」
ほむらはどうにか平静を保っていたが、まどかとこんな形で再会することまでは想定していなかったらしい。
俺はその様子を横目で見ながら、これなら今のところ自分へ注目は集まらないだろうと思った。
その考えはすぐ外れた。
「それで……こっちの人は?」
まどかの目がこちらへ向く。
さっきほむらへ向けた驚きとは少し違う、完全に知らない魔法少女を見る目だった。怖がっているわけではないが、どう接すればいいのか分からないらしく、仮面と刀を何度か見比べている。
「私も初めて見るわ」
マミさんもまだ完全には警戒を解いていない。
当たり前だ。この時間では、本当に初対面なんだから。
「……マギカだ」
「マギカ……?」
まどかが小さく名前を繰り返した。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ詰まる。前の時間ではあれだけ一緒にいたのに、今のまどかにとって俺は、名前すら初めて聞く知らない魔法少女だった。
それでも、まどかの視線はすぐに俺の肩や腕へ移った。
「怪我とか、大丈夫?」
「……ああ。平気」
返事が僅かに遅れた。
知らない相手なのに、最初に出てくるのがそれなのか。やっぱり、まどかはまどかだった。
マミさんは俺より先に周囲を確認していた。戦闘跡、俺の手にあるグリーフシード、呼吸の乱れ。それから胸元のソウルジェムへ視線を止める。
「この魔女、一人で倒したの?」
「まあ」
「すごいわね。でも、ずいぶん魔力を使ったみたい」
「……分かる?」
「これくらいなら」
警戒を完全に解いたわけではない。それでも敵ではないと判断したらしく、指先に集まっていた黄色い魔力が消えた。
そして、マミさんが小さく笑う。
その表情に、砕けたソウルジェムと落ちていく身体が一瞬だけ重なった。
俺はすぐに視線を外した。今はまだ生きているし、これから起こることだって、前と同じにするつもりはない。
「そういえばさ、こっちは名乗った方がいい感じ?」
さやかが何気なく一歩前へ出た。
そこでようやく、俺はさやかの姿をまともに見た。
制服じゃない。青を基調にした衣装を着て、肩にはマントが掛かり、その手には剣まで握られている。
思わず声が出た。
「ん?」
さやかが首を傾げ、その隣から僅かに息を呑む音がした。
「美樹……」
ほむらだった。
俺が見ると、ほむらもさやかの姿を凝視している。その顔は明らかに本気で驚いていて、そこで一瞬だけ目が合った。
ほんの一瞬だったけれど、それで十分だった。
俺は、ほむらがこれを知らなかったことを知った。たぶん向こうも、俺がさやかの姿へ驚いたことを見ている。
「……その格好、お前も魔法少女なのか?」
「うん。昨日なったばっかの新人だけどね。美樹さやか。よろしく!」
さやかは何でもないことみたいに笑った。
「……昨日?」
「そう。ちょっと叶えたい願いがあってさ」
嬉しそうな顔だった。今のところ、後悔なんて欠片もないのだろう。
当然だ。
もう契約は終わっている。
前の時間みたいに、まだ迷っている段階じゃない。俺もほむらも、何かをするより前から一手遅れていた。
◇
「今日は本当に、魔法少女が増える日ね。昨日は美樹さんで、今日は暁美さんとマギカさんまで」
マミさんが少し困ったように笑った。
「さんは別にいらないけど」
「あら、じゃあマギカちゃん?」
「それはそれで違う気がする」
思わず返すと、まどかが少しだけ笑った。
「私は鹿目まどかです」
「美樹さやか!」
「暁美ほむらです」
「巴マミよ。よろしくね」
知っている名前ばかりなのに、全員が初対面みたいに名乗ってくる。それが妙な感覚で、俺もほむらも余計なことを話せば話すほどボロが出そうだった。
「なんだか急に賑やかになったわね」
マミさんは少し嬉しそうだった。仲間が増えたことを、素直に喜んでいるのだろう。
「今日から私も一緒に戦えるしね。まだ新人だから、マミさんに色々教えてもらってるけど」
「焦らなくていいのよ」
「分かってますって」
二人のやり取りを見ても、俺は素直に笑えなかった。
さやかがこの先どうなるのかは知っている。でも、今さら何を言えばいい。契約するなと言っても、もう遅い。願いをやめろと言っても、もう叶っている。魔法少女をやめろと言ったところで、そんな方法はない。
前の時間では、まだ間に合うと思っていた場所を、今回は始まった時点ですでに通り過ぎていた。
ほむらも黙ったまま、さやかを見ている。あいつも同じだ。まどかを救うために戻ったのに、戻った先で何もかもが都合よく待っていてくれるわけじゃない。
◇
さやかは楽しそうに、自分も戦えるようになったことや、まだ剣の扱いが難しいことを話していた。まどかも笑い、マミさんも時々口を挟んでいる。
その横で俺が一度だけほむらを見ると、向こうもほとんど同じタイミングでこちらを見ていた。互いにすぐ視線を外し、何も言わない。
いや、今は言えない。
それでも、同じことを考えたのだけは分かった。
俺たちは、この周回ではまだ何もしていない。それなのに、さやかはもう契約している。なら、俺たちの知らないところで、前の時間とは何かが違った。
大筋は同じでも、完全に同じではない。