始業を告げるチャイムが鳴り、教室のざわめきが少しずつ収まっていく。
早乙女先生が出席簿を教卓へ置くのを眺めながら、俺はさっきまで集めた情報を頭の中でもう一度整理していた。見滝原中学校。鹿目まどか、美樹さやか、志筑仁美。担任は早乙女和子。ここまで揃えば、この世界が『魔法少女まどか☆マギカ』であることはもう疑わなくていい。
問題は時系列だった。
教室を見回しても、暁美ほむらはいない。三つ編みも眼鏡も、アニメ本編で見慣れた長い黒髪の姿もなかった。少なくとも、本編一話より前なのは間違いなさそうだ。
「はい。それじゃあホームルームを始めます」
早乙女先生の声で意識を戻し、俺も机へ向き直る。
「まず皆さんに一つ、大事なお話があります」
先生は大きな白いホワイトボードの前に立つと、妙に真剣な表情を作った。
……この人の場合、その顔のまま真面目な話が始まる保証はない。
「目玉焼きとは、半熟ですか? それとも固焼きですか?」
「…………」
来た…!
ちなみに私は半熟派である。
「半熟ですか? 固焼きですか? はい、中沢君!」
「えっ!? ぼ、僕ですか?」
突然指名された男子が慌てて立ち上がる。
中沢。そこまで含めて覚えている。
「ど、どっちでもいいんじゃないかと……」
「その通り!」
早乙女先生の声が教室へ響く。
「たかが目玉焼きの焼き加減が違うくらいで、女の魅力を決めつけるような男とは付き合ってはいけません! 皆さんも、男の見た目や条件だけで騙されないように!」
教室のあちこちから苦笑が漏れ、さやかが遠慮なく声を上げた。
「先生、また振られたの?」
「美樹さん!」
「図星じゃん」
「朝のホームルーム中ですよ!」
「先生が始めたんでしょ」
教室に笑いが広がる。
……本物だ。
昨日までアニメの中でしか知らなかった人が、今は数メートル先で自分の恋愛事情らしきものを生徒へぶつけている。妙なところで感動するが、同時に画面の中とは違う現実感も強かった。笑い声も、机を叩く音も、全面ガラス越しに廊下を通る生徒の姿もある。
そして、その中に俺がいる。
本来ここにいなかった田中という少女の身体で、原作を知っている男が座っている。
「……さて」
早乙女先生が咳払いをし、教室の空気を戻す。
「今日はもう一つ、皆さんに紹介する人がいます」
その言葉を聞いた瞬間、背筋が伸びた。
転校生。
まさか。
「入ってきてください」
全員の視線が教室の扉へ向く。
俺も見る。
扉が開き、一人の少女がゆっくりと入ってきた。
長い黒髪を三つ編みにまとめ、赤い縁の眼鏡をかけている。教室中から向けられる視線を意識しているのか、肩は少し内側へ入り、歩幅も小さい。教壇の横へ立つだけで緊張しているのが、離れた席からでも分かった。
見覚えがある。
ありすぎる。
暁美ほむら。
ただし、俺がアニメ本編で最初に見た彼女とはまるで違う。長い黒髪をなびかせ、無表情のまま拳銃や爆弾を使いこなす魔法少女でもなければ、転校初日から鹿目まどかへ意味深な言葉を投げかける少女でもない。
眼鏡に三つ編み。
通称、めがほむ。
「…………」
実際に見ると、想像していた以上に弱々しい。
この子が、あの暁美ほむらなのか。
「それじゃあ、自己紹介をお願いします」
「は、はい……」
ほむらが小さく頷き、両手を身体の前で重ねる。
「暁美……ほむらです。長い間、入院していたので……その、皆さんにご迷惑をかけることもあるかもしれませんが……よろしくお願いします」
最後はほとんど消え入りそうな声だった。
「暁美さんは心臓の病気で長く入院していました。久しぶりの学校生活になるので、皆さんも困っていたら助けてあげてくださいね」
早乙女先生が補足すると、クラスから拍手が起こる。ほむらは驚いたように一度顔を上げ、それから慌てて頭を下げた。
0周目。
真っ先にその言葉が浮かんだ。
ただ、まだ決めつけるのは早い。初期のループでは、ほむらはしばらく眼鏡と三つ編みの姿だったはずだ。見た目と入院明けという条件だけなら、最初の時間軸以外でも成立する。
それでも、かなり近い。
胸の鼓動が少し速くなる。
もしかすると。
かなり最初だ。
「暁美さんの席は……あそこね」
早乙女先生が指した席へ、ほむらがゆっくり歩いていく。鞄を抱える腕には余計な力が入り、机へ着いてから椅子を引く動作まで慎重だった。
俺は無意識にその姿を目で追っていた。
「田中さん」
「……はい?」
「ホームルーム中よ」
「あ、すみません」
周囲から小さな笑い声が漏れる。
危ない。
復学初日から転校生を凝視する変な女になるところだった。
……もう遅い気もするけど。
◇
一時間目は数学だった。
転生して二日目。女子中学生の身体で中学の授業を受けている状況自体は相変わらず妙だったが、勉強については思ったより困らなかった。前世で一度は中学校を終えているし、多少忘れている部分があっても、教科書を読めば内容くらいは思い出せる。
むしろ厄介なのは身体の方だった。ノートへ視線を落とすたびに銀髪が肩から滑り、手元へ垂れてくる。朝に身体任せで整えてきたものの、座った姿勢では想像以上に邪魔だった。
「……長いな」
小さく呟いて髪を耳へかけると、その動作も自分で考えるより自然にできた。
「田中さん」
「ん?」
「髪、ずいぶん伸びたね」
「え?」
「前よりかなり長くなってる。休んでる間に伸ばしてたの?」
「ああ……たぶん」
「たぶん?」
前の席の女子が不思議そうに首を傾げる。
「いや、なんでもない」
適当に誤魔化しながら、肩から落ちてきた銀髪を指で払う。
言われてみればかなり長い。肩を大きく越えて背中へ流れるくらいには伸びていて、昨日まで短い男の髪しか扱ったことがない俺には十分すぎる長さだった。
前の田中は、もっと短かったらしい。
また一つ、俺の知らない情報が増えた。
毎日が設定資料集のない即興劇みたいなもので、誰かに何気なく話しかけられるたびに、自分の知らない「田中」が少しずつ増えていく。そのうち致命的なボロが出そうで怖い。
そんなことを考えながらホワイトボードの内容をノートへ写していると、斜め前の席で動きが止まっている生徒に気づいた。
ほむらだった。
ホワイトボードへ視線を向け、教科書へ戻し、それからノートを見る。教師が次の説明へ進むたびに少し遅れて書き写し、追いついた頃にはもう次の数式が追加されている。長く入院していたせいか、授業の内容だけでなく、説明を聞きながらノートを取るという学校生活そのものの感覚まで鈍っているように見えた。
原作でも、この頃のほむらは勉強や運動が上手くできず、自信を失っていた。
知識では知っている。
でも実際に見ると、印象が違う。
ただ問題が解けなくて困っている中学生だった。
この少女が何度も時間を繰り返し、最終的には銃器の扱いや爆弾の作り方まで覚えることになる。
人生って分からない。
……ほむらの場合は人生というかループだけど。
「田中さん」
「はい」
「この問題、答えてみてくれるか?」
「え?」
数学担当の男性教師が、ホワイトボードの前からこちらを見ていた。
まずい。ほむらを見ていて問題を聞いていなかった。
「えっと……これですか?」
「ああ。途中式も見ていいから、落ち着いて考えてみなさい」
ホワイトボードへ視線を戻し、書かれている式を追う。完全に聞き逃していたが、中学数学なら何とかなる。
「……三、ですか?」
「正解」
「よかった……」
小さく息を吐く。
授業中に転校生の観察へ夢中になっていました、なんて説明はできない。
何気なくほむらを見ると、ちょうど向こうもこちらを見ていた。
「…………」
「…………」
目が合う。
ほむらは驚いたように眼鏡の奥で目を見開き、すぐにノートへ視線を戻した。
何だったんだ、今の。
◇
休み時間になった瞬間、ほむらの席へ生徒が集まった。
「暁美さんって前はどこに住んでたの?」
「入院って長かったの?」
「部活とか入る予定ある?」
「心臓ってもう大丈夫なの?」
「あ、その……」
完全に処理落ちしている。
一つ目の質問へ答える前に二つ目が飛び、そちらへ向こうとしたところで別方向から声をかけられる。ほむらの視線は右へ左へ落ち着かず、制服の袖を握っている指にも力が入っていた。
これはきつそうだ。
助けた方がいいかと思ったところで、俺より先に動いた人物がいた。
「暁美さん」
まどかだ。
「え……?」
「わたし、これから保健室に行くんだけど、よかったら一緒に行かない? 暁美さん、まだ学校の中よく分からないよね」
周囲の生徒も「あ、そっか」と納得したように少し道を開ける。
ほむらは何度か瞬きをしてから、遠慮がちに頷いた。
「その……いいんですか?」
「うん。ちょうど行くところだから」
「……お願いします」
来た。
たぶん、ここだ。
暁美ほむらにとって鹿目まどかが特別になっていく、その最初の一歩。
俺が知っている原作では、入院明けのほむらへまどかが自然に手を伸ばし、学校生活を助けていた。それが後々、ほむらの人生を全部変えるほど大きな意味を持つことになる。
今の二人はまだ知らない。
俺だけが知っている。
だからこそ、ここで俺が先回りするのは違う。
ほむらを助けたい気持ちはある。でも、この子を決定的に変える役目は俺じゃない。
そっちだ。
まどかに行け。
「田中さんも行く?」
突然まどかがこちらを振り返った。
「私?」
「うん。田中さんも久しぶりの学校だし、保健室の場所とか覚えてる?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「じゃあ一緒に行こうかな」
「うん」
結局、三人で教室を出ることになった。
◇
廊下では、まどかとほむらが少し前を歩き、俺はその半歩ほど後ろについていった。
まどかは階段や特別教室を指しながら、「こっちが職員室で、体育館は向こうだよ」と簡単に説明していく。ほむらは一つ一つ真面目に頷き、時折「ありがとうございます」と小さく返していた。教室にいた時より明らかに表情が柔らかく、大勢から質問を浴びるより、まどかと話している方がずっと楽なのだろう。
「暁美さん、分からないことがあったら聞いてね」
「はい」
「先生たちも優しいから、困ったことがあったら相談して大丈夫だよ」
「……ありがとうございます」
一歩後ろから眺める。
自然だ。
俺が何かしなくても、まどかの方から距離を縮めている。
いいぞ。
そのまま。
「それと……」
まどかが少し考えてから、隣を歩くほむらを見る。
「暁美さん」
「はい?」
「ほむらちゃんって呼んでもいい?」
「…………え?」
ほむらの足が止まった。
来た。
「い、いきなりですか?」
「うん。暁美さんって呼ぶより、そっちの方が仲良くなれそうかなって」
「な、仲良く……」
ほむらの頬が目に見えて赤くなる。眼鏡の奥で視線を泳がせながら、どう返せばいいのか本気で迷っているらしい。
「嫌だった?」
「い、いえ! 嫌じゃないです。ただ、その……そういうふうに呼ばれたことが、あまりなくて」
「じゃあ……ほむらちゃん」
「…………はい」
まどかが試すように名前を呼び、ほむらが小さく答える。
恥ずかしそうではある。
でも少し嬉しそうだ。
「…………」
いい。
実にいい。
これだ。
俺が割って入る必要なんてない。まどかが自然に手を伸ばし、ほむらが戸惑いながらそれを受け取る。そのまま仲良くなってくれればいい。
俺は少し後ろにいるくらいでいい。
◇
午前の授業が進んでも、ほむらの様子は大きく変わらなかった。教師から指名されるたび肩が強張り、答えが出てこなければ俯く。休み時間に話しかけられれば丁寧に返すが、自分から誰かの輪へ入ることはない。まどかが声をかけた時だけ、ほんの少し表情が和らいだ。
分かりやすい。
ただ、これだけではまだ最初の時間軸だと断定できない。三つ編みと眼鏡、入院明け、自信のなさ。その程度なら初期ループでも成立する。
なら、もう少し見る必要がある。
そして午後の体育で、その疑問はほとんど消えた。
◇
「それじゃあ、最初に軽く準備運動ね」
体育教師の声に合わせ、生徒たちが校庭へ広がる。
俺も周囲を真似しながら身体を動かした。腕を回し、屈伸し、軽く跳ぶ。身長も骨格も重心も昨日までとは別物なのに、身体能力そのものは悪くない。むしろ身体が軽い分、前世より動きやすい部分すらある。
ただし、頭に残っている男の身体感覚とは噛み合わない。
軽く走り出した瞬間、一歩目で身体が前へ出すぎた。
「うおっ」
慌てて足をつき直す。
「田中、大丈夫?」
「大丈夫!」
「久しぶりだからって無理すんなよー」
「分かってる」
近くにいたさやかに笑われながら体勢を立て直す。
前の田中がどれくらい運動できたのか知らない以上、変な動きをしても「久しぶりだから」である程度押し通せる。今だけは長期欠席が便利だった。
それより気になるのは、少し離れたところにいるほむらだ。
「はぁ……はぁ……」
まだ本格的に走ってすらいないのに、準備運動だけで呼吸が乱れ、額には薄く汗が浮かんでいる。身体を伸ばす動作にも余裕がなく、周囲についていこうとして無理をしているのが遠目にも分かった。
「暁美さん、大丈夫?」
「は、はい……大丈夫です」
返事はした。
全然大丈夫に見えない。
その後、軽いランニングが始まると差はさらに大きくなった。ほむらは最初こそ周囲へ合わせようとしていたものの、すぐに集団から遅れ始める。歩幅は少しずつ狭くなり、肩が上下し、顔色まで悪くなっていた。
結局、一周も終わらないうちに先生が止めた。
「暁美さん、無理は駄目よ。今日は見学しましょう」
「……はい」
ほむらは申し訳なさそうに答え、校庭の端へ移動していく。
座った背中は小さかった。周囲の生徒が普通に走っているのを、一人だけ外から見ている。俯きがちで、自分ができないことを恥じているのが遠目にも分かった。
「…………」
走りながら、その姿を見る。
授業についていけない。運動も苦手。人付き合いにも慣れていない。長い入院生活を終えて、ようやく学校へ戻ってきた少女。
それだけなら、まだ決定的ではない。
でも今のほむらには、俺の知っている暁美ほむらが持っていたものが何もなかった。周囲を警戒する視線も、魔女との戦闘経験も、誰かを失った人間特有の諦めもない。まどかを守るためなら何をしてでもやり直す、あの異様な執念もない。
ただ、走れない自分を恥ずかしがっている。
普通の中学生だ。
この子が、あの暁美ほむらになる。
銃器を扱い、爆弾を作り、時間停止の中で魔女と戦い、何度失敗しても鹿目まどかを救うために同じ一か月を繰り返す。
知識としては分かっていた。
でも始まりの姿を実際に見ると、あまりにも遠い。
「……やっぱり」
小さく呟く。
もう疑う必要はない。
ここはアニメ本編じゃない。
暁美ほむらが、まだ一度も時間を戻していない世界。
最初の時間軸。
0周目だ。
「……マジか」
確定した瞬間、知識だったものが急に現実へ変わった。
つまり、全部これから起きる。
巴マミはまだ生きている。鹿目まどかも、これからワルプルギスの夜へ向かう。そしてほむらは、ワルプルギスの夜も、鹿目まどかを失うことも、自分がキュゥべえと契約することも、時間を巻き戻すことも何一つ知らない。
俺だけが、この先を知っている。
その事実が急に重く感じた。
昨日までなら、0周目はただのアニメの設定だった。暁美ほむらがどうして時間遡行を始めたのかを説明する過去で、画面の向こうで完結していた。
今は違う。
俺も、その時間の中にいる。
本来は存在しなかった人間として。
ポケットの中には二つ繋がったソウルジェムらしき宝石がある。片方は銀色に光り、もう片方は空っぽのまま。俺がここへ来た理由も、この身体が誰のものなのかも分からない。
それでも、未来だけは知っている。
校庭の端を見る。
ほむらはまだ俯いたままだった。
その近くを通りかかったまどかが足を止め、何か声をかける。ほむらが顔を上げ、まどかが笑う。それだけで、ほむらの表情がほんの少し明るくなった。
違う。
俺に懐くんじゃない。
そっちだ。
ほむらにとって必要なのは、今のところ俺じゃない。
鹿目まどかだ。
そこを奪うつもりはない。
でも、だからといって全部原作通りになるのを黙って見ている必要もない。ワルプルギスの夜が来て、まどかが死に、マミも倒れ、この眼鏡の少女が「鹿目さんとの出会いをやり直したい」と願う。
その未来を知っていて、何もしないのは違う。
俺にどこまでできるかは分からない。魔法少女かどうかすらまだ確定していないし、戦い方も知らない。原作知識だって、俺という異物が存在するだけでどこまで通用するのか分からない。
それでも、全部が始まる前なら何か一つくらい変えられるかもしれない。
「……やってみるか」
小さく息を吐く。
この弱々しい少女が、俺の知っている暁美ほむらになるまで。
何もせず見ているつもりはなかった。
明日も引き続き投稿していきます、よろしくお願いいたします。