放課後、俺はまどかとさやかに連れられて病院へ向かった。昨日の昼休みに誘われた時点で行くとは決めていたけれど、いざ白い建物が見えてくると、どうにも妙な気分になる。
上条恭介。前世では知っていた名前だし、画面越しなら顔も見ている。さやかが何を願ったのか、その願いがこの先どう彼女へ返ってくるのかも、大まかには知っていた。それでも、こうして現実の人間として会うのは今日が初めてだった。
「田中、病院苦手?」
「何で?」
「さっきから妙に静かだから」
「普通だよ。病院で騒ぐ方がおかしいでしょ」
「まだ外だからいいじゃん」
「そういう問題?」
前を歩いていたまどかが小さく笑った。
「さやかちゃん、昨日からずっと機嫌いいもんね」
「そりゃあね」
さやかは否定するどころか、少し得意そうに胸を張った。その顔を見ていれば、今日の見舞いをどれだけ楽しみにしていたのかは聞くまでもない。
◇
病室へ入って最初に目へ入ったのは、窓際のベッドだった。上条恭介はそこへ身体を起こして座っていて、思っていたよりずっと顔色がいい。
そして何より、左手が動いていた。
恭介は自分でもまだ信じきれていないように、左手を胸の前まで持ち上げ、指を一本ずつ曲げては開いている。動きにはぎこちなさが残っていて、力を入れようとすると少し眉が寄る。それでも、一昨日までほとんど思い通りにならなかったはずの指が、今は確かに本人の意思に従っていた。
「恭介ー、来たよ」
さやかが真っ先に声を掛けると、恭介が手元から顔を上げた。
「さやか。鹿目さんも」
「こんにちは」
「こんにちは」
それから視線が俺へ移る。知らない顔なのだから当然だ。
「あ、こっちは田中。クラスメイト」
「田中です。急にごめん」
「いや、全然。上条恭介です」
思っていたより普通だった。勝手にもっと線の細い、神経質そうな印象を持っていたけれど、今は自分の手が動くようになったことの方が大きいらしく、表情にも明るさが戻っている。
「見てよ、これ」
さやかが何か言うより先に、恭介が左手を持ち上げた。ゆっくり拳を作り、また開いてみせる。
「昨日より動いてる!」
「分かる?」
「分かるって。昨日ここまで曲がってなかったじゃん」
「うん。僕も朝起きてびっくりした」
恭介は手首まで慎重に動かしてみせた。途中で少し引っかかったように止まったものの、それでも昨日より可動域が広がっているらしい。
「でも、本当に急だったんだよ。昨日までは、動かそうとしてもほとんど駄目だったのに」
さやかがほんの少し身を乗り出す。
「昨日から?」
「うん。それまでずっと大して変わらなかったのに、昨日になって急に指先が動いてさ。最初は自分でも見間違いかと思った」
恭介は左手を見つめながら、親指と人差し指をゆっくり近づける。
「先生を呼んだら、向こうもびっくりしてた。何回も同じ動きやらされて、検査もやり直して……でも、こんなふうに急に良くなるような経過じゃないって」
「へえ……」
さやかの返事はいつもより少し遅かった。
俺だけは、その理由を知っている。
昨日、さやかは願った。そして、それまでほとんど改善の兆しがなかった恭介の左手が、同じ日に突然動き始めた。偶然のはずがない。二つの出来事が一本の線で繋がっていることを、この場で知っているのは俺とさやかだけだった。
「まだ力は入りづらいし、リハビリも必要みたいだけどね。でも、ここまで戻るなんて昨日までじゃ考えられなかったって」
「そっか……」
さやかの顔が見る間に明るくなる。俺はその横顔と、動くようになった恭介の左手を交互に見た。
◇
「先生も原因は分からないって」
ひとしきり手を動かしたあと、恭介がそう言った。
「検査の結果を見ても、昨日までと急に何かが変わったようには見えないらしいんだ。でも実際には動いてるから、先生たちも首傾げててさ」
「いいじゃん、治ってるなら」
「まあね」
さやかがあっさり笑うと、恭介もつられて笑った。それから、まだ自分でも確認したりないのか、左手を光へ透かすように眺める。
「昨日まで全然だったのに、いきなりこうなるとさ……」
少し照れたように笑う。
「本当に、神様でもいるのかな」
さやかの指が止まった。
本当に一瞬だった。膝の上に置いていた手が僅かに固まり、その視線が恭介の左手へ落ちる。俺が横から見ていなければ、たぶん気づかなかったと思う。
「……いたんじゃない?」
すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「恭介、運いいし」
「そうかな」
「そうそう。日頃の行いってやつ?」
「それなら、さやかよりはいいかも」
「はぁ!?」
「冗談だよ」
「病人じゃなかったら殴ってるからね」
「さやかちゃん、それ病室で言うことじゃないよ」
まどかに注意されて、さやかは「分かってるって」と笑った。恭介も笑っている。どこにでもいそうな幼馴染同士の会話で、少なくともこの場にいる本人たちにとっては、昨日突然起きた奇跡の方がよほど現実離れしていた。
恭介は、自分の左手が動くようになった理由を知らない。そして、さやかも教えようとはしなかった。魔法少女のことを話せないからというだけではない気がする。自分が治したと誇りたいわけでも、感謝してほしいわけでも、何か借りを作りたいわけでもない。たぶん、恭介の腕が治って、またバイオリンを弾けるようになれば、それでよかったのだ。
少なくとも、今ここで笑っているさやかはそう見えた。
◇
「退院したらさ」
恭介が窓の外へ目を向けた。
「また弾いてみたいんだ」
その一言で、さやかの顔が変わる。
「バイオリン?」
「うん。まだ先生には早いって言われてるけど、指がちゃんと動くようになったら……」
「絶対弾けるって!」
ほとんど被せるように言ったせいで、恭介が少し目を丸くした。それから、おかしそうに笑う。
「さやかは妙に自信あるな」
「そりゃあ……」
そこまで口にしたところで止まった。俺とまどかの視線が、ほぼ同時にさやかへ向く。
「……幼馴染ですから?」
「何で自分で疑問なんだよ」
「うるさいな!」
恭介が笑い、さやかも誤魔化すように笑った。ただ、言いかけて飲み込んだものがあったことだけは分かる。
本当は、また弾けると知っている。自分がそうなるよう願ったのだから、今のさやかにとっては、その未来を疑う理由がない。それでも口には出さず、奇跡の理由を自分だけの秘密にしたまま、ただ恭介を励ましていた。
それを見ていると、前世で知っていた「美樹さやかの願い」という一つの出来事が、少しずつ違う形に見えてくる。
◇
少しして、まどかが持ってきた飲み物を机へ置いた。
「これ、飲めるかな」
「ありがとう」
「甘すぎたらごめんね」
「大丈夫だよ」
その横では、さやかが相変わらず恭介の左手を気にしていた。
「ここは?」
「動く」
「じゃあこれは?」
「さやか、医者じゃないだろ」
「いいじゃん、気になるんだから」
「先生より細かく聞いてくるな」
口では面倒そうにしながらも、本気で嫌がっている様子はない。さやかが手元を覗き込めば、恭介もわざわざ指を動かして見せる。長い付き合いなのだろう。俺がそこへ混ざろうとしても作れない距離が、二人の間には最初からあった。
昨日、さやかは「願った甲斐あったよ」と笑っていた。
実際、その通りなんだと思う。
原作を知っていると、どうしても先まで一つに繋げて考えてしまう。恭介の腕を治したこと、そのあとでさやかが苦しんだこと、最後に何が起こったのか。結末から逆算すれば、この願いそのものが最初から間違いだったように見えてしまう。
でも、今目の前にあるのはその途中だ。それまで医者ですら良くなる兆しを見つけられなかった左手が、昨日を境に突然動き始めた。恭介は救われ、さやかはその奇跡を目の前で確かめて心から嬉しそうにしている。この瞬間だけを見れば、間違いだと言えるものなんてどこにもなかった。
「……これは、願うよな」
考えていたことが、ほんの少し声へ出た。
「ん?」
まどかがこちらを向く。
「何でもない」
危ない。何の願いだと聞かれたら、田中としては説明できない。
俺は何でもない顔を作り、窓の外へ視線を逃がした。
◇
「本当に運が良かったよ」
腕の話が一段落した頃、恭介がぽつりと言った。
「昨日までは、このまま治らなかったらどうしようってずっと考えてたから。先生からも、前みたいに弾けるようになるとは言えないって言われてたし」
さやかの視線が少し落ちる。
「……うん」
ほんの一拍だけだった。すぐに顔を上げると、さっきまでと変わらない調子へ戻る。
「じゃあ、治った分ちゃんとリハビリしないとね」
「分かってるよ」
「サボったら許さないから」
「何でさやかに怒られなきゃいけないんだよ」
「せっかく治ったんだから当然でしょ」
恭介は苦笑し、さやかも笑った。
昨日まで、もう戻らないかもしれないと思っていたものが、一晩で希望へ変わった。その理由を知っているのはさやか自身なのに、相手へ何かを求める様子はない。それでいいと本気で思っているからこそ、こんなふうに笑えるのかもしれなかった。
◇
話しているうちに、思っていたより時間が経っていた。さやかが何気なく時計へ目をやり、そのまま一瞬動きを止める。
「あ」
「どうしたの?」
まどかも時計を確認し、同じことに気づいたらしい。
「そろそろ行かないと」
マミさんたちと合流する時間が近い。もちろん、恭介の前ではそんなことは言えない。
「もう帰る?」
「うん。ちょっと用事があって」
「そっか」
恭介は普通に頷いた。責めるわけでもなく、引き止めるわけでもない。ただ、さやかが立ち上がったあとで一度だけ口を開く。
「もう少しいる?」
さやかの手が止まった。
本当は、いたいんだろうな。今日ここへ来てからの顔を見ていれば、それくらいは俺にも分かる。
「……ごめん。今日はちょっと」
「うん、分かった」
「また来るから!」
「別に無理しなくていいって」
「行くの!」
「はいはい」
いつもの調子に戻って笑いながら、さやかは鞄を持ち上げた。俺とまどかも挨拶をして病室を出る。
扉が閉まりきる直前、さやかが一度だけ振り返った。
恭介はまだベッドの上で、昨日突然動き始めた左手を何度も開いたり閉じたりしていた。本人にとっては、それだけでまだ飽きないくらいの出来事なのだろう。
そのまま扉が閉じた。
◇
廊下へ出ると、さやかは胸の奥に溜めていたものを吐き出すように大きく息をついた。
「よかったー。昨日より全然動いてた」
「うん。恭介くん、元気そうだったね」
「でしょ? 昨日いきなり動いたって聞いた時は、私もびっくりしたけどさ」
まどかに言われ、さやかは満足そうに笑う。
俺には、その「いきなり」の理由が分かっている。
キュゥべえとの契約で奇跡が起きた。言葉にしてしまえばそれだけだけれど、実際に結果を見せられると重みが違った。昨日まで治る保証もなかった左手が、今は指を曲げ、手首まで動かしている。
さやかは、それを自分の目で確かめた。だからあんなに嬉しそうなのだ。
病院の玄関を出たところで、さやかが俺へ向き直った。
「あ、田中。ごめん、私たちこのあとちょっと用事あるんだ」
「二人で?」
「まあ、そんな感じ」
さやかが露骨に誤魔化し、まどかまで少し困った顔で笑う。
「ごめんね、田中さん」
「別にいいよ。私もこっちだから」
ここで「知ってる」と言うわけにもいかない。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
「田中、今日はありがとね」
「私は付いてきただけだけど」
「それでも」
さやかは軽く手を振り、まどかと並んで別の方向へ歩き出した。俺も反対側へ足を向け、二人の姿が見えなくなるまで振り返らない。
角を二つ曲がり、人通りの少ない場所まで来たところでようやく足を止めた。
「……面倒だな、この生活」
学校では田中として二人と病院へ行き、今からはマギカとして同じ二人へ合流する。数十分前まで隣を歩いていたくせに、次に会った時には最初から別行動をしていたような顔をしなければならない。
周囲に人がいないことを確認し、ソウルジェムへ意識を向ける。銀白の光が身体を包み、制服の輪郭が魔法少女の衣装へ置き換わっていく。最後に仮面を付ければ、さっきまで病室にいた「田中」はいなくなった。
マギカとして歩き出しながら、もう一度だけ病院の方を振り返った。
恭介は奇跡の理由を知らない。昨日までほとんど変化のなかった左手が突然動き始めても、理由が分からないまま喜んでいる。さやかも、自分がそれを起こしたのだとは教えようとしなかった。それでも恭介がまたバイオリンを弾けるなら、それでいいと本気で思っている。
あの病室を実際に見てしまえば、少なくとも俺には、その願いを間違いだったなんて言えなかった。
ただ、一つだけ引っかかるものが残った。
恭介の左手を取り戻すために魔法少女になったさやかは、その魔法少女の仕事があるせいで、奇跡を起こした翌日から、恭介の隣を少し早く離れなければならなかった。
今はまだ、それだけだ。
田中と上条はお互い初見という設定です、