夕方の河川敷は、少し風が強かった。
川沿いの道を、俺とほむらが並んで歩いている。今日は大きな魔女の反応もなく、巡回というより散歩に近い。少し前を自転車が通り過ぎ、川向こうでは犬を連れた人が立ち止まっていた。
こういう時間の方が、妙に落ち着かない。戦っている時なら考えることは単純だ。避ける、斬る、魔力を見る。必要なら逃げる。それだけで済むのに、何も起きていないと隣を歩くほむらの視線まで気になってくる。
「マギカさん」
「何?」
「一つ、聞いてもいいですか?」
足は止めなかったが、頭の中ではいくつか候補が浮かんだ。昨日試したばかりで俺自身にも説明できないスカンビオのことか、それとも時間停止へ妙に慣れていることをまた聞かれるのか。どちらにしても、あまり答えやすい話ではない。
「どうぞ」
できるだけ普通に返すと、ほむらは少し黙ってから前を向いたまま口を開いた。
そっちか。むしろ、もっと答えづらかった。
否定しても意味はない。前の時間では一度ほむらに知られているし、今の俺がここで誤魔化しても、余計に疑われるだけだ。
「……ああ」
短く認めても、ほむらは驚かなかった。やっぱり、とでも言いたげに少し視線を落とす。
「巴さんたちは……きっと知らないんですよね」
俺もすぐには答えなかった。
今のマミさんやまどか、さやかの様子を見る限り、真実を知っているようには見えない。ソウルジェムが魂そのものだということも、その濁り切った先に何が待っているのかも、キュゥべえから説明されている様子はなかった。
「……たぶんな」
「キュゥべえは、巴さんたちにも話していないんでしょうか」
「自分から進んで説明するような奴じゃないだろ」
聞かれれば答えることはあっても、契約する前に不利な情報まで丁寧に並べるような相手じゃない。ほむらもそれ以上キュゥべえについては言わず、しばらく考えたあとで俺を見る。
「巴さんたちも、知った方がいいと思いますか?」
今度は俺の歩幅が少しだけ乱れた。
「……話すつもりなのか?」
「まだ決めていません。ただ……何も知らないままでいる方がいいのか、それも分からなくて」
風が吹き抜け、河川敷の草が一斉に同じ方向へ倒れる。
頭に浮かんだのは、今ここにいるマミさんではなかった。もっと前、画面越しに見た巴マミ。魔法少女の真実を知ったあと、それに耐えられず崩れていった姿。
そこへ、前の時間で一緒に戦ったマミさんの姿も重なる。紅茶を淹れて、俺たちをまとめて、最後まで先輩でいようとしていた。同じ人間だったのに、俺が知っていた通りの未来にはならず、最後にはまったく別の理由で死んだ。
前と同じになるとは限らない。でも、前と同じにならない保証だってない。だから簡単に「話した方がいい」とも「黙っていた方がいい」とも言えなかった。
「……慎重にした方がいいとは思う」
「どうしてですか?」
ほむらがこちらを見る。少し迷ったあと、口から出たのは自分でも予想していなかった言葉だった。
言った瞬間、しまったと思った。ほむらの表情が僅かに変わる。
「だから、黙っていた方がいいってことですか?」
「違う」
思ったより強い声が出た。本当にそういう意味ではないのに、どう説明すればいいのかは自分でも分かっていなかった。
「じゃあ、どういう意味ですか?」
答えようとして、言葉が詰まった。
◇
「真実ってのは、知れば強くなれるものばかりじゃないだろ。一度知ったら、知らなかった頃には戻れない。自分の魂が身体の外にあるとか、最後には魔女になるとか、そんな話をいきなり全部ぶつけられて、全員が平気でいられると思うか?」
ほむらはすぐには答えず、少しだけ視線を落とした。
「……平気では、いられないと思います」
意外だった。もっとすぐに反論されると思っていたが、ほむら自身も真実の重さを軽く考えているわけではないらしい。
その言葉が、思った以上に深く刺さった。
『それを決めるのは、マギカさんなんですか?』
前の時間で、もっと直接的に同じところを刺されたことがある。今のほむらはその会話を覚えていないのに、また似た答えへ辿り着いた。違う時間で同じ相手から二度も言われると、さすがに無視はできない。
◇
最初は、もっと単純だった。
俺はこの世界の本来の住人ではなく、ここで起きることを物語として知っていた。だから余計なことをして未来を壊したくなかったし、知っているからといって全部話し、全部変えたところで、それが本当に良い結果へ繋がる保証なんてどこにもないと思っていた。
むしろ、自分が知っているからこそ触らない方がいいこともある。最初は、それだけの話だった。
でも、今はもうそんなに単純じゃない。
さやかと一緒に行った病室を思い出す。昨日までまともに動かなかった恭介の左手が動き、さやかはそれを見て心から嬉しそうに笑っていた。
『願った甲斐あったよ』
原作だけを見れば、あの願いは後になってさやかを追い詰めていく。だったら契約するなと言えばよかったのか。恭介の腕は諦めろと、未来を知っている俺が代わりに決めればよかったのか。
でも、あの病室を実際に見たあとでは、そんなに簡単な話には思えなかった。恭介は確かに救われていたし、さやかも本当に幸せそうだった。未来を知っているからといって、その瞬間に本人が感じている幸福まで「間違いだ」と決めつけていい理由にはならない。
「マギカさん?」
ほむらの声で意識が戻った。
「……悪い。ちょっと考えてた」
隣を見る。
俺には、今ここで言おうと思えば言える秘密がある。
たったそれだけ伝えればいい。
そうすれば、ほむらは俺へ相談するようになるかもしれない。前の時間で何が起きたのかも共有できるし、どこで失敗して、次は何を変えるべきか、二人で考えられる。少なくとも戦略だけを考えるなら、黙っているより言った方が圧倒的にいい。
それくらいは分かっている。
それでも、俺はまだ言っていない。
◇
秘密にしている理由ならいくつも思いつく。未来を変えすぎたくない。ほむら自身の選択を奪いたくない。俺を前提にした動きへ変わってほしくないし、キュゥべえへ余計な情報を渡したくもない。
周回を覚えていて、二つのソウルジェムを持ち、原作にはなかった魔法まで使い始めている。そんな俺をキュゥべえがどう見るのかは分からない以上、情報を渡さないこと自体が防御になるという考えだって、別に嘘じゃない。
ただ、本当にそれだけなのかと考えると妙に胸の奥が重くなる。
誰かに自分のことを全部話してしまうのが怖い。自分でもよく分からないものまで預けてしまうようで嫌だ。そんな個人的な理由まで混ざっている気がするのに、まだうまく言葉にはできなかった。
「私は、知らなければ選ぶこともできないと思います」
ほむらが改めてこちらを見る。
「魔法少女になることも、戦い続けることも、キュゥべえを信じることも。何も知らないまま選んだなら、それは本当に自分で選んだことになるんでしょうか」
また同じところへ刺さった。
今のほむらは前の時間を覚えていない。それなのに、結局また俺の同じ弱点へ辿り着いている。
「……そうだな」
今度は、それを否定する気にはならなかった。
「だから、もし本当に話したいと思う時が来たなら、俺は止めない」
ほむらが少し目を見開く。
「止めないんですか?」
「ああ。ただ、一気に全部ぶつけるのはやめた方がいい」
「どういう意味ですか?」
俺は川の方へ視線を向けた。
「相手が何を知ってるか、何を信じてるかをちゃんと見ながら話せってこと。正しいことを言えば、そのまま信じてもらえるとは限らないし、内容が正しいからって一度に全部受け止められるとも限らない」
ほむらへ言いながら、自分自身にも言っているような気がした。知っていることと、正しいことと、それを相手へ伝えていいことは全部別だ。
前の時間で、それを一番痛い形で学んだ。
「……分かりました」
ほむらは少し考えてから頷いた。まだ誰かへ話すと決めたわけではない。ただ、もしその時が来たなら、何を伝えるかだけでなく、どう伝えるかまで考える必要があることは受け取ったらしい。
そこで話が終わると思った。
「でも」
「まだあるのかよ」
「あります」
ほむらは少しだけこちらへ身体を向けた。
今度こそ足が止まりかけた。
答えが出ないまま黙っていると、ほむらは急かさずに待っている。それが余計に困る。
「……色々あるんだよ」
「色々、ですか」
「そう」
「そうですか」
また、その「そうですか」だ。
「今、絶対信じてないだろ」
「信じるかどうかを決めるほど、何も聞いていません」
「……正論やめろ」
ほんの少しだけ、ほむらの口元が緩んだ。
◇
それからしばらくは何も話さなかった。川の流れる音と靴が地面を踏む音、それに風が草を揺らす音だけが続いている。
少し前を歩くほむらの背中を見る。
今なら、まだ言える。
「……暁美」
ほむらが振り返った。
「何ですか?」
喉まで言葉が上がってくる。
たったそれだけ言えば、この妙な探り合いは終わる。前の時間で一緒に戦ったことも、ワルプルギスの夜で何が起きたのかも、これから何を警戒するべきなのかも話せる。
それでも、口を開いたまま数秒迷って、結局その言葉を飲み込んだ。
「……いや。何でもない」
ほむらは少し怪訝そうな顔をしたものの、追及はしなかった。
「そうですか」
今度は、どの「そうですか」なのか分からなかった。
◇
再び歩き出してから、前の時間でほむらに言われた言葉がもう一度頭に浮かんだ。
『それを決めるのは、マギカさんなんですか?』
声も場所も覚えている。ただ、その時のほむらがどんな顔をしていたのか思い出そうとして、一瞬だけ記憶が引っかかった。
「……あれ?」
少し探れば、すぐに出てきた。硬い顔をしていた。泣きそうなのに怒っていて、それでも俺から目を逸らさなかった。
ちゃんと思い出せる。
ただ、一瞬だけ出てこなかった。
別におかしいことじゃない。人間なんだから、昔見た表情の細かいところまで全部完璧に覚えている方がおかしい。そう考えて、小さく息を吐いた。
少し前では、ほむらが何も知らないまま歩いている。
俺も覚えている。
その一言だけが、また頭に浮かぶ。
それでも今はまだ、口には出さない。秘密にしている理由なら説明できるし、自分でもちゃんと分かっている――少なくとも、今はそう思っている。