放課後。
見滝原中学校での初日は、思っていたより普通に終わった。少なくとも、私にとっては。
授業は前世の知識がある分そこまで困らなかったし、体育も今の身体へ慣れていないだけで、動けないわけではなかった。長い銀髪が視界へ入ったり、スカートで階段を上るたび妙に落ち着かなかったり、女子として話しかけられると一瞬だけ反応が遅れたりはしたけれど、その辺りはもう慣れるしかない。
問題は、少し前を歩いているほむらだった。
帰りのホームルームが終わってから、ほとんど誰とも話さず教室を出ていった。朝より肩が落ちているように見えるし、歩く速度も遅い。今日一日を思い返せば、理由はだいたい分かる。
授業にはついていけず、体育では準備運動だけで消耗して途中から見学。クラスメイトに囲まれても上手く返事ができず、困ってばかりいた。転校初日というだけでも疲れるのに、長い入院生活を終えた直後ならなおさらだろう。
そりゃ落ち込む。
少し迷ってから、ほむらの後を追った。
「暁美さん」
「えっ?」
後ろから声をかけると、ほむらがびくっと肩を揺らして振り返った。
「あ……田中さん」
「今、帰り?」
「は、はい」
「私も」
そう言って隣へ並ぶ。
私。
まだ少し引っかかるけれど、学校を出た直後だし、今は田中として話している。ほむらは一瞬戸惑ったようだったものの、嫌がる様子はなかった。
そのまま二人で校門を抜ける。
夕方の見滝原は、朝とは少し違って見えた。ガラス張りの建物へ西日が反射し、整いすぎた街並み全体が薄い橙色に染まっている。
綺麗な街だ。
魔女が徘徊しているとは思えないくらいに。
隣を見ると、ほむらは相変わらず少し下を向いていた。
「疲れた?」
「えっ」
「今日」
「あ……」
少し間があってから、ほむらは小さく頷いた。
「はい……少し」
少しどころではない顔だった。
「まあ、初日だしね」
「……でも、みんな普通にできていたから。授業も、体育も。私は全然できなくて……」
「うん」
「ずっと入院していたからって、分かってはいるんです。でも……」
そこで言葉が止まる。
たぶん、悔しいんだろう。
原作でも、この頃のほむらは自分にかなり自信がなかったはずだ。勉強も運動も上手くいかず、周囲へ追いつけない。人と話すことにも慣れていない。
知識としては知っていた。
でも、実際に隣を歩いている少女を見ると、思っていたよりずっと普通の悩みだった。未来の暁美ほむらを知っているせいで特別な存在のように見えてしまうけれど、今はただ、学校生活に馴染めなくて落ち込んでいる中学生だ。
「できなくて普通じゃない?」
「……え?」
ほむらが顔を上げる。
「入院してたんでしょ?」
「は、はい」
「なら、授業についていけないのも運動できないのも、別に変じゃないと思うよ。私だって今日、体育で普通にこけそうになったし」
「でも、田中さんはちゃんと走れてました」
「一歩目でバランス崩したけどね」
「……見てました」
「見られてたか」
ちょっと恥ずかしい。
というか、今の身体で走るのは本当に変な感じだった。前世と脚の長さも重心も違うし、腕を振る感覚まで微妙にずれている。身体そのものは軽いのに、頭の中に残っている動かし方と噛み合っていない。
慣れれば何とかなりそうだけど、まだ完全に自分の身体という感じはしない。
「だからまあ、私も似たようなものだよ」
「……似てないと思います」
「そう?」
「田中さんは、授業も分かってましたし……みんなとも普通に話してました」
そこを言われると困る。
俺には前世の学校生活があるし、中学の授業だって一度は通った道だ。人付き合いも少なくとも初めてではない。一方のほむらは、本当に長い入院生活から戻ってきたばかりだ。
条件が違いすぎる。
「まあ、そこは……慣れ?」
「慣れ……」
「たぶん」
適当だな、俺。
でも、下手に格好いいことを言うのも違う気がした。大丈夫、君ならできる。自信を持って。そんな人生を変えるような言葉を、今の俺が言う必要はない。
というか、ここで俺がほむらにとって決定的な存在になるのは違う。
原作を知っているから分かる。
この子には、この先、自分の人生を変えるほど眩しく見える相手がいる。
鹿目まどか。
それは俺じゃない。
別に俺がほむらと仲良くなってはいけないわけじゃない。でも、ここで全部抱えて支えて、俺だけを頼るような関係にする必要もない。
俺がここで全部やるのは違う。
この子には、まどかがいる。
「……田中さん?」
「ん?」
「どうかしましたか?」
「いや。今日の晩ご飯、何にしようかなって」
「晩ご飯……?」
「大事でしょ」
ほむらが少しだけ瞬きをした。
たぶん話の繋がりが分からなかったんだと思う。
俺にも分からない。
「とりあえず、今日できなかったことを全部今日できるようになる必要はないと思うよ」
「……はい」
「授業なんて後から追いつけばいいし、体育は体力が戻ってからでいい。入院明け初日に全部できたら、そっちの方が怖いって」
ほむらは黙って聞いていた。完全に納得した顔ではなかったけれど、さっきより少しだけ顔を上げて歩いている。
それで十分だ。
「それに、今日一日ちゃんと学校にいられたんだから、それで結構すごいと思うけど」
「……そんなことで?」
「そんなことって言うけど、入院明けなんでしょ?」
「はい」
「じゃあ十分じゃん」
ほむらはしばらく黙っていたが、やがてほんの少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
可愛いな。
いや、そこで妙な達成感を覚えるな。
俺の目的は暁美ほむら攻略ではない。
「どういたしまして」
できるだけ普通に返す。
原作キャラと実際に話して、笑ってもらえるだけでまだ少しテンションが上がる。
早く慣れないとな。
しばらく歩いたところで、ほむらがこちらを見た。
「田中さんは……優しいんですね」
「いや、普通じゃない?」
「でも今日、私に話しかけてくれた人、あまりいなかったから」
「鹿目さんとかいたじゃん」
「鹿目さん……」
ほむらの口から、その名前が出る。
「うん。いい人そうだったでしょ?」
「……はい。とても」
よし。
そこだ。
「明日も話してみたら? 鹿目さんと」
「で、でも……迷惑じゃないでしょうか」
「ならないと思うよ」
というか、絶対ならない。
むしろ話せ。
もっと話せ。
仲良くなれ。
心の中だけが急にうるさくなる。
「鹿目さん、そういうの気にしなさそうだし」
「……そうでしょうか」
「うん」
ここは強めに頷いておく。
ほむらは少し考え込んでから、ほんの少しだけ笑った。
「……明日、話してみます」
「そうしてみたらいいと思う」
いいぞ、その調子だ。
俺は一歩下がって見守るくらいでいい。まどかとほむらが自然に仲良くなる。
完璧。
……ワルプルギスとか魔女化とか、問題は山ほど残っているけど。
それはそれ。これはこれ。
信号が青になり、二人で横断歩道を渡った。
「田中さんは、こっちですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「……まだ道、完全には覚えてなくて」
実際には身体が覚えている。
でも、それを説明する方が難しい。
「私は……もう少し先です」
「じゃあ途中まで一緒だね」
「はい」
ほむらが少しだけ嬉しそうに頷く。
……その顔は明日まどかにも向けてくれ。
そんなことを考えながら歩き続ける。
それから数分ほど経った頃だった。
最初に気づいたのは、音だった。
正確には、音が減っていた。
さっきまで歩道には下校中の学生がいて、道路にも何台も車が走っていた。遠くからは信号機の電子音や誰かの話し声も聞こえていたはずなのに、いつの間にかそれらが妙に遠くなっている。
「…………」
足が少し遅くなる。
何か変だ。
「田中さん?」
「ん?」
「どうかしましたか?」
「いや……」
周囲を見る。
住宅街。
道路。
建物。
見た目だけなら、何もおかしくない。
でも、胸の奥がざわついていた。
昨日、帰り道で一瞬だけ感じた違和感に似ている。
ただ、今はもっと強い。
「……まただ」
「え?」
「なんでもない」
制服のポケットへ手を入れる。
二つ繋がった宝石へ指先が触れた瞬間、銀色の方がはっきりと熱を持っているのが分かった。
「熱い……」
「田中さん?」
「大丈夫」
そう答えながら、ポケットの中でそっと宝石を握る。
校門やクラスメイトを前にした時とは、反応の質が違う。
あの時は、この身体に残っている感情が引っ張られるような感覚だった。
今はもっと外側だ。
何かが近くにいる。
そんな感じがする。
「…………」
無意識に視線が細い路地へ向いた。
住宅と住宅の間。
夕日の届きにくい、暗い道。
そちらを見るだけで、胸の奥がもう一度強くざわつく。
「……あっち?」
「田中さん?」
ほむらの声で我に返る。
「ごめん。ちょっと変な感じがして」
「変な感じ?」
「うまく説明できないんだけど」
本当に説明できない。
昨日までなら、ただの気のせいで終わらせていたと思う。
でもここは、まどマギの世界だ。
そして俺の手元には、どう見ても普通ではないソウルジェムらしき宝石がある。
「……こっちはやめた方がいいかも」
そう言って別の道へ向かおうとした。
その時だった。
「え……?」
ほむらが小さく声を上げる。
振り返る。
さっきまで歩いてきたはずの道が、妙に暗かった。
夕方だからという暗さではない。
遠くの景色が揺れている。
「…………」
建物の輪郭がわずかに歪み、窓の位置まで少しずれて見える。
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がする。
俺は無意識に、ほむらの前へ半歩出た。
「田中さん?」
「暁美さん、ちょっと待って」
ポケットの中で、銀色の宝石がさらに熱を増す。
今までで一番強い反応だった。
そして次の瞬間。
目の前の景色が、大きく揺れた。