巴マミの家は、思っていたより普通だった。
一人暮らしの女子中学生が住むには少し広すぎる気もするけど、それ以外は本当に普通だ。
綺麗に片付いた部屋に、整えられた家具。テーブルの上には紅茶とケーキまで並んでいて、さっきまで魔女の結界で銃をぶっ放していた人間の家とは思えないくらい、普通の女子中学生の部屋だった。
いや、当たり前なんだけど。
「どうぞ。遠慮しないで」
「ありがとうございます……」
ほむらが緊張した様子で頭を下げ、私もそれに続いて椅子へ座る。向かいにはマミ、その隣にはまどか。キュゥべえは当然のようにテーブルの端へ座っていた。
「…………」
いるな、害獣。
そのつぶらな瞳には騙されんぞ……。
いや、もういい。見ないことにしよう。
「田中さん、紅茶大丈夫?」
「うん。ありがとう」
まどかがカップをこちらへ寄せてくれる。学校でも話したけど、こうして同じテーブルを囲むと、また妙な感じがした。
鹿目まどか。
世界を作り変える少女。円環の理になる少女。暁美ほむらが何度も何度も時間を巻き戻す理由になる少女。
――なんだけど。
「田中さん、甘いもの好き?」
「え?」
「ケーキ。マミさんが作ってくれたんだよ」
「ああ、好き」
「よかった」
まどかが嬉しそうに笑う。
普通だな。
いや、本当に普通だ。世界を救う女神でも、概念でもない。今ここにいるのは、友達にケーキを勧めて笑っているだけの中学生だった。
「それじゃあ、少し話しましょうか」
マミが紅茶を置く。
「今日あなたたちが迷い込んだ場所について」
「……はい」
ほむらの表情が少し固くなる。
「さっきも言ったけれど、あれは魔女の結界よ。魔女は普通の人には見えないけれど、人に悪い影響を与える存在なの。理由もなく気分が沈んだり、自殺や事故へ向かわせたりすることもあるわ」
「そんな……」
ほむらの顔色が変わった。
そりゃそうだ。いきなり聞かされるには、かなり重い。
「さっきの変な生き物は?」
「使い魔よ。魔女の手下みたいなものね」
「なるほど」
知ってるけど、ここで妙に詳しい顔をするわけにもいかない。
「そして、私たちはその魔女を倒すために戦っているの」
マミがそう言うと、まどかも小さく頷いた。
「魔法少女として」
ほむらがまどかを見る。
「鹿目さんも……?」
「うん。最近、魔法少女になっちゃったばかりで、まだマミさんみたいには全然できないけど」
「そんなことないわよ。まどかさんはよく頑張ってるもの」
「えへへ……」
褒められて、まどかが少し照れたように笑う。その様子を、ほむらは眩しそうに見ていた。
ああ、やっぱりここなんだな。
学校では自分に何もないと思っていた少女が、強くて優しいまどかを見る。自分ができなかったことを、まどかは当たり前みたいにやってみせる。
そりゃ憧れる。
「魔法少女になるには、キュゥべえと契約する必要があるの」
マミの言葉に、俺の意識がそちらへ戻る。
「契約?」
「僕は契約する少女の願いを一つだけ叶える。その代わりに、その子には魔法少女として魔女と戦ってもらうんだ」
キュゥべえが、いつもの調子で説明する。
願いを一つ。その代わりに魔法少女。
そこだけ聞けば、確かにすごい話だ。病気を治すこともできるし、死にかけた人間を助けることだってできる。何だって叶う。
問題は、その説明の後ろに死ぬほど大事な情報が山ほど隠れていることだけど。
「どんな願いでも?」
「君にそれだけの素質があるならね」
ほむらは少し考え込む。俺は黙って紅茶を飲んだ。
今ここで「やめとけ」とは言えない。いや、言いたい。でも理由を説明できない。ソウルジェムが本体になるとか、濁りきると魔女になるとか、そもそもキュゥべえが宇宙の熱的死をどうこうとか。
初対面の転校生が突然そんなことを言い出したら、俺の方が危ない。
「田中さんは?」
「え?」
まどかがこちらを見る。
「願い。何かある?」
「……今のところは、別に」
「そうなんだ」
「鹿目さんは?」
「わたし?」
まどかが少し困ったように笑う。
「わたしは……猫を助けたくてお願いしたの。事故に遭って、このままだと死んじゃいそうだったから」
「猫?」
ほむらが少し驚いたように聞き返す。
「うん。エイミーっていう子なんだけど、あの時は他のことなんて考える余裕もなくて。気づいたらキュゥべえにお願いしてて、それで魔法少女になっちゃったんだけど……」
まどかは少し照れたように視線を落とし、それから笑った。
「今は、こうして誰かの役に立てるなら、それでよかったのかなって思ってる」
「…………」
なるほど。
これが鹿目まどかか。
世界を救うためでも、すごい力が欲しかったわけでもない。目の前で死にかけていた猫を放っておけなくて、願いを使った。
原作では何度も見てきた。自分のことより、他人を先に考える少女。
でも、実際に本人の口から聞くと少し印象が違う。
立派というより、危なっかしい。目の前で誰かが困っていたら、自分の損得より先に手を伸ばしてしまう。たぶん本人にとっては、それが特別なことですらない。
そういう普通の中学生に見えた。
「鹿目さんって、結構危ないよね」
「え?」
口から出ていた。
「いや、なんでもない」
「ええ?」
まどかが困ったように笑う。
危ない。またやった。
「それにしても」
少し空気を変えるように、部屋を見回す。
「マミさん、ここ一人暮らしなんですか?」
「ええ。今はね」
マミは少しだけ驚いたようにしたあと、いつもの柔らかい笑顔に戻った。
そっか。
マミさんはここで一人暮らしをしてるんだ。
知っていたはずなのに、実際にこの部屋へ来ると重みが違う。綺麗な部屋。ちゃんと並べられた食器。人数分用意されたケーキ。そして、誰かが来ることを少し嬉しそうにしているマミ。
原作で見た時より、ずっと分かりやすかった。
この人、寂しいんだ。
たぶん。
「マミさん?」
「なあに?」
「……ケーキ、美味しいです」
「本当?」
少しだけ表情が明るくなる。
「よかった。まだあるから、遠慮しないでね」
「はい」
それ以上は言わなかった。
今は、それでいい。
しばらくして、話は魔女の活動範囲やグリーフシードへ移っていった。
「魔女を倒すと、こういうものを落とすことがあるの」
マミがテーブルへ小さな黒い物体を置く。
グリーフシード。
実物。
触りたくない。
「これでソウルジェムの濁りを取ることができるのよ」
「ソウルジェム……」
ほむらが、マミとまどかの指輪を見る。
「魔法少女にとって、とても大切なものなの」
大切。
まあ、間違ってはいない。むしろ大切すぎる。
それ、本体だぞ。
心の中でだけ突っ込む。
「最近は魔女の数も少し気になるのよね」
マミがグリーフシードを片付けながら言った。
「何かあるんですか?」
「噂程度だけど、とても強い魔女がこの街へ来るかもしれないって話があるの。まだ確かな情報じゃないんだけどね」
「強い魔女……?」
ほむらが聞き返す。
マミは少しだけ声を落とした。
「ワルプルギスの夜」
「…………」
その名前を聞いた瞬間、俺の手が止まった。
来た。
やっぱり、この世界にもいる。
「田中さん?」
「いや、名前がすごいなって」
「確かにちょっと怖い名前だよね」
まどかはそう言って笑った。俺も適当に笑っておく。
でも、頭の中はもう別だった。
ワルプルギスの夜。0周目。このままなら、マミさんとまどかが戦う。マミさんが死ぬ。まどかも死ぬ。
そして、ほむらが契約する。
ここから全部が始まる。
「…………」
紅茶が少し冷めていた。
◇
マミさんの家を出た頃には、空はすっかり暗くなっていた。
「今日は本当にありがとう、鹿目さん」
ほむらが何度目か分からないお礼を言う。
「ううん。気にしないで」
「でも……助けてもらって」
「ほむらちゃんが無事だったなら、それでいいよ」
「…………」
ほむらがまた少し頬を赤くする。
俺は隣で黙って見ていた。
いいぞ。
そのまま行け。
俺を見るな。
「田中さんも、また明日ね」
「え?」
まどかがこっちにも笑いかけてくる。
「うん。また明日」
だから俺を見るな。ほむらを見ろ。
とは、もちろん言えない。
別れ道で二人と離れ、一人で歩き出す。
さっきまで一緒にいたまどかの顔が、まだ妙に頭へ残っていた。
原作キャラ。
鹿目まどか。
ずっとそういう認識だった。
でも、今日一日話してみて、少し変わった。
ケーキを勧めてくる。褒められると照れる。人のことばかり心配する。目の前で猫が死にかけていれば、自分の一生を変える願いだって迷わず使ってしまう。
普通に笑って、普通に困って、普通に怖がる。
ただの中学生だ。
魔法少女という部分を除けば。
なのに、この先。
この子は神になる。
「…………」
それって、かなりおかしくないか?
◇
家へ戻ると、今日も当然のように俺の生活用品は揃っていた。冷蔵庫も使えるし、風呂もある。学校の書類も住所も、銀行らしきものまである。
この世界は本気で「田中」という人間が昔からいたことにするつもりらしい。相変わらず気味が悪い。
でも今は、それより考えたいことがあった。
ベッドへ座り、スマートフォンを横へ置く。
「……整理するか」
まず、ここは0周目。
このまま原作通り進むなら、ワルプルギスの夜が来る。マミさんが死ぬ。まどかが戦って死ぬ。その後、ほむらがキュゥべえと契約して時間を巻き戻す。
そこから何度もループする。
そして最終的に、TV版ではまどかが全ての魔法少女を救う願いを叶える。
円環の理になる。
「…………」
神様。概念。存在そのものが世界から消える。
それを「救われた」と言っていいのか。
今日会ったまどかを思い出す。ケーキを食べて、笑って、マミさんに褒められて照れて、ほむらを心配していた。
死にかけた猫を、ただ助けたかった。
そんな普通の中学生が、世界からいなくなる。
「……駄目だろ」
少なくとも、俺は嫌だ。
じゃあ、まどかを神にしなければいい。
そこまでは単純だ。
「でも……」
その先。
『叛逆の物語』。
円環の理になったまどかを、ほむらが引きずり下ろす。まどかの人間としての部分を取り戻し、今度はほむら自身が世界を書き換える側へ行く。
悪魔。
本人がそう名乗った存在。
つまり、まどかを人間に戻せば終わり、でもない。まどかを救えば、今度はほむらが終わる。
まどかを神にしない。ほむらも悪魔にしない。
二人とも普通の中学生として残す。
「……どうすんだ、それ」
普通なら、ここで詰みだ。
誰かが役割を背負わなければならない。魔法少女の仕組み。魔女。円環の理。世界そのものに必要な部分。
まどかをそこから降ろすなら、代わりがいる。
「…………」
代わり。
その言葉で、ふと思った。
「……なら」
天井を見る。
まどかが駄目。ほむらも駄目。他の誰かへ押しつけるのも違う。
だったら。
俺が代わればいいんじゃないか?
「…………」
自分で考えたことを、自分でもう一度考える。
俺が、まどかの代わりに円環の理になる。
そうすれば、まどかは神にならない。ほむらも、まどかを取り戻すために悪魔になる必要がない。
二人とも人間のまま、普通に学校へ行って、普通に遊んで。
普通に。
「……くっつける?」
そこまで考えて、身体を起こした。
「いや、待て。これ……ありじゃないか?」
まどかを神にしない。ほむらも悪魔にしない。俺がその役割を引き受ける。
まどかとほむらは、人間として残る。
つまり。
「俺が神になれば、まどほむハッピーエンドじゃん」
我ながら、完璧な理論だった。
細かいところを全部無視すれば。
そもそも俺が魔法少女になれるのか。神になるほどの因果があるのか。円環の理をどう作るのか。キュゥべえをどうするのか。ワルプルギスの夜をどう倒すのか。
何一つ分からない。
でも、方向は決まった。
まどかを神にしない。ほむらを悪魔にしない。二人を普通の人間として残す。
そのために必要なら、俺が代わる。
「…………」
今思えば、たぶんこれが最初だった。
まだ何の力もなく、自分が何者なのかすら分からない田中が、冗談半分で考えたあまりにも雑な計画。
後に何度も形を変えながら、それでも最後まで消えなかった目的。
――マギカ計画の、最初の原型だった。