あの話を聞いてから、さやかはずっと機嫌が悪かった。
話しかければ返事はするし、まどかにもマミさんにも、以前と同じように接しようとはしている。ただ、会話が途切れた時や、何かの拍子に自分のソウルジェムへ視線が落ちた瞬間だけ、表情が固くなる。前のほむらの告白で知った真実が喉の奥に引っかかったまま、まだ飲み込めていない。そんな顔だった。
その日の巡回中、路地裏で弱い使い魔を見つけた時もそうだった。
「また見逃すの?」
さやかが杏子へ言う。
「使い魔だろ。今倒してもグリーフシードは落とさねえ」
杏子は槍を出そうともしない。使い魔はまだこちらに気づかず、壁際の暗がりを小さく動き回っていた。
「だからって、人を襲うの分かってて放っとくの?」
「またその話かよ」
「まただから何?」
声が以前より刺々しい。杏子も気づいたらしく、僅かに眉を寄せた。
「だったら一生そうやって全部助けてみろよ。自分が先に潰れなきゃな」
俺がそう思った時にはもう遅かった。
「……何それ。私が間違ってるって言いたいの?」
「そうは言ってねえ」
「じゃあ何なのよ!」
「だから、魔力には限りがあるって話だろ。昨日聞いたばっかじゃねえか」
「もういい!」
さやかは杏子から顔を背け、そのまま路地を出ていった。まどかが一歩追いかけて名前を呼んだが、振り返りもしない。
杏子も追わなかった。
「……面倒くせえ」
吐き捨てるような言い方だったが、その声はいつもより少し重い。
その後の巡回中、二人はほとんど口を利かなかった。視線すら合わせなくなったまま別れ際まで来て、そこでようやく杏子がさやかへ声を掛ける。
「まだ言いてえことあんなら、今夜来いよ」
短く場所だけを伝える。
さやかは少しだけ杏子を睨み、そのまま目を逸らさなかった。
「行くから」
それだけ答えた。
マミさんには、どちらもそのことを話さなかった。
◇
その夜。
跨道橋の下を、途切れることなく車が流れていた。白いヘッドライトと赤いテールランプが何本もの線になり、大型トラックが通るたび橋の床まで僅かに振動する。それでも橋の上だけは、下の道路とは切り離されたみたいに静かだった。
杏子はすでに魔法少女姿で待っていた。槍を肩へ乗せ、街灯の白い光から半分だけ外れた場所に立っている。
そこへ制服姿のさやかが現れた。
「来たか」
「呼んだのそっちでしょ」
「逃げるかと思った」
「言ったね」
さやかの手がソウルジェムへ伸びる。杏子は止めず、むしろ肩に乗せていた槍をゆっくり下ろした。
「戦わねーの?」
「……やるよ」
青い魔力がさやかの身体を包み、制服が魔法少女の衣装へ変わる。
二人の距離が、ほんの少し縮まった。
◇
その頃、俺はほむらとも別れて一人で帰路についていた。
マミさんは巡回後に別区域の反応を確認すると言って先に離れ、まどかとほむらもそれぞれ別の道へ帰っている。いつもならそのまま家へ戻るだけだった。
そこへ、突然キュゥべえの声が頭へ響いた。
『鹿目まどか。暁美ほむら。それからマギカ』
聞いた瞬間、嫌な予感がした。
『三人とも、来た方がいいと思うよ』
「何だよ」
『美樹さやかと佐倉杏子が、戦おうとしている』
一瞬だけ足が止まった。
橋。杏子とさやか。魔法少女同士の喧嘩。
そこまで揃えば、嫌でも原作の一場面が頭に浮かぶ。
「場所!」
伝えられた位置はここから少し遠い。
俺はすぐに走り出した。
原作と同じ流れなら、まずい。
とはいえ今は前回までとも原作とも違う。杏子とさやかはすでに何度も顔を合わせ、ほむらは魔女化の真実まで話している。同じ行動を取る保証なんてない。
それでも、何も起きない方へ賭ける気にはなれなかった。
◇
「さやかちゃん!」
最初に橋へ駆け込んだのは、まどかだった。少し遅れてほむらも到着する。
「美樹さん、やめてください……!」
杏子が二人を振り返った。
「あんたらは引っ込んでろ」
「魔法少女同士で戦うなんて……そんなのおかしいです!」
ほむらの声は焦っていた。まだ誰かを威圧して押し切ることに慣れていない、今のほむららしい声だった。
「だったら止めてみろよ」
「杏子!」
さやかが剣を構え、杏子も槍を下ろす。
二人とも、本当に引く気がない。
まどかは剣と槍を交互に見た。言葉では止まらない。それなら、戦えなくすればいい。魔法少女へ変身するために必要なものを取り上げれば。
「さやかちゃん」
「何」
まどかが一歩近づく。
「これがなければ、戦えないんだよね!?」
「え?」
さやかが意味を理解するより早く、まどかの手が青いソウルジェムを掴んだ。
「ちょ、まどか――」
そして、そのまま橋の外へ投げた。
◇
俺が橋へ駆け込んだのは、ちょうどその瞬間だった。
「――は?」
青い光が宙を舞っている。下には幹線道路が伸び、そこへ大型トラックが通りかかった。ソウルジェムは弧を描いたまま、その荷台へ吸い込まれるように落ちていく。
俺だけには、その意味が分かった。
あれは変身道具じゃない。
「やばっ!」
「マギカちゃん?」
まどかの声へ返事をする余裕はなかった。トラックはすでに橋の下を抜け、速度を上げながら遠ざかっている。普通に走って追いつける距離じゃない。
その時、頭へ浮かんだのは一人だった。
魔力が身体の奥で跳ねた。
銀白の衣装へ黒紫の意匠が混ざり、左腕へ見覚えのある円形の盾が形を取る。ほむら本人の姿になるわけではない。それでも盾の重さも、腕へ固定された位置も、妙に馴染んだ。
「え……?」
本物のほむらの声が聞こえる。
俺の左手は考えるより先に盾へ触れていた。
何度も隣で見た。前の時間でも、今の時間でも。
知っている。
いや。
知識としてじゃない。
盾を回した。
◇
風も、車も、橋の下を流れていた光も止まる。空中に浮いていた小さな埃まで、その場へ縫いつけられたように動かない。
「……マジか」
思わず声が漏れた。
いつものように、ほむらが止めた時間へ触れて入り込んでいるわけじゃない。今、この止まった世界を作っているのは俺自身だ。
でも、同じではなかった。
ほむらの時間停止に同行している時にはなかった熱が、発動と同時に頭の奥へ広がっていく。視界の端が僅かに揺れ、数秒も経たないうちに魔力が急激に削られていくのが分かる。
長くは無理だ。
俺はすぐ走った。
橋を下りる階段へ飛び込み、二段、三段と飛ばしながら道路脇へ向かう。止まったトラックはまだ遠い。
一秒。
二秒。
三秒。
こめかみの奥から鈍い痛みが広がった。
「っ……!」
限界を感じて盾を戻す。
瞬間、世界中の音がまとめて戻ってきた。車のエンジン音、風、タイヤが路面を擦る音。止まっていた大型トラックも再び走り始める。
「くそっ……!」
まだ遠い。
もう一度盾へ手を掛ける。
停止。
走る。
数秒で解除。
また世界が動く。
ほむらなら、こんな使い方はしない。もっと長く、もっと正確に止められるはずだ。
俺は数秒維持するだけで、頭の中を内側から掻き回されるような痛みに耐えなければならない。
それでも止まるわけにはいかなかった。
もう一度盾を回した。
◇
橋の上では、杏子が遠ざかっていく俺を見ていた。
「……何だありゃ」
一瞬前まで橋のすぐ近くにいたはずなのに、次に視界へ入った時には数十メートル先へいる。その姿がまた消え、さらに遠くへ現れる。
杏子には何が起きているのか分からない。
でも、ほむらには分かる。
「…………」
自分と同じ盾。
自分の時間停止。
それをマギカが使っている。
しかも、初めて再現したとは思えないほど迷いなく。
問いただすより先に、別の異変が起きた。
「……?」
さやかの膝が折れた。
「さやかちゃん?」
まどかが慌てて身体を抱える。
「さやかちゃん!?」
返事がない。
目は半開きのまま焦点を失い、全身から力が抜けていた。
「美樹さん!?」
ほむらも駆け寄る。
杏子はしゃがみ込み、首元、顔、身体と順番に確認した。
「……おい」
反応がない。
「おい!」
杏子の顔色が変わる。
「……え?」
まどかの声から力が抜けた。
「何で……?」
怪我はない。
血も流れていない。
ただソウルジェムを投げただけ。
「駄目じゃないか、まどか」
キュゥべえが言った。
まどかがゆっくり顔を上げる。
「……何?」
その場にいた全員が、すぐには意味を理解できなかった。
◇
何度目かの停止で、ようやくトラックへ追いついた。
荷台の隅に、小さな青い光が見える。
「あった!」
止まった荷台へ飛び乗り、ソウルジェムを掴んだ。
冷たい。
でも、確かにそこにある。
それだけで少しだけ息が戻った。
「戻る……!」
問題は帰りだった。
盾の輪郭が揺れ、衣装へ混ざった黒紫も薄くなり始めている。魔力の消耗だけじゃない。頭痛もひどく、左腕には自分のものではない重さが残っていた。
停止。
数秒走って解除。
動き出した世界の中を走り、また止める。
今度はさらに短い。
「っ……!」
目の奥まで痛くなる。
最後は時間を止めること自体を諦め、普通に走った。
息が切れ、胸が痛い。足も重い。
成り代わりを解除したあとも、左腕だけはまだ盾を動かそうとする。
もう何もないのに。
◇
「はっ……は……っ」
橋へ戻る。
まどかが動かないさやかを抱え、杏子もほむらも酷い顔をしていた。
「マギカちゃん!」
「……これ」
説明する余裕はない。
手の中の青いソウルジェムを、さやかへ近づける。
ある程度まで距離が縮まった、その瞬間だった。
「――っ!」
さやかが大きく息を吸った。
「さやかちゃん!」
まどかが抱きしめる。
「……え?」
さやかの目に焦点が戻った。
「何……?」
何が起きたのか分かっていない。
自分が数十秒、完全に身体を動かせなくなっていたことすら知らない。
◇
「不思議なことじゃないよ」
キュゥべえが青いソウルジェムを見る。
「……は?」
さやかが固まる。
「契約の時、僕は君たちの魂を肉体から分離して、ソウルジェムへ格納する」
「魂……?」
「そうだよ」
キュゥべえは、いつもと同じ声だった。
「君たちの肉体は、戦闘を続けるにはあまりに壊れやすいんだ。だから魂をソウルジェムへ移しておけば、身体がどれだけ損傷しても修復できるし、痛覚だって必要に応じて遮断できる。戦闘用の身体としては、ずっと合理的だろう?」
便利な機能を説明するような口調だった。
さやかは自分の手を見る。指を曲げ、掌を返し、それから腕へ視線を移す。そこにあるのは、昨日までと何一つ変わらない自分の身体だった。
「じゃあ……この身体って……」
「君が操作している肉体だよ」
キュゥべえは青いソウルジェムへ視線を向ける。
「……そんなの」
続かなかった。
さやかの手が小さく震えていた。
◇
「私も……?」
まどかが自分の指輪へ視線を落とす。
「もちろん」
キュゥべえは即答した。
「そんなの……あんまりだよ」
ほむらも自分の手とソウルジェムを交互に見ていた。
何度も怪我をした。走った。戦った。食べた。笑った。
ずっと自分そのものだと思っていた身体の中に、魂そのものは入っていなかった。
誰も、そのことを知らなかった。
「……てめえ」
杏子の声が低くなる。
「どうしたんだい?」
「それも、黙ってやがったのか」
「君たちは聞かなかったからね」
次の瞬間、赤い槍が伸びた。
キュゥべえの身体を一突きで貫く。
「杏子ちゃん!?」
まどかが叫ぶ。
「ちょ、やりすぎ……!」
さやかも止めようとしたが、声に力はなかった。
キュゥべえの身体はそのまま動かなくなる。
数秒後、別の足音が聞こえた。
同じ姿。同じ赤い目。
何事もなかったように、もう一匹のキュゥべえが歩いてくる。
倒れた自分の身体の前まで行き、その死骸を食べ始めた。
「まったく、感情的だね」
杏子も何も言えなかった。
さやかも、まどかも、ほむらも、ただその光景を見る。
誰にも答えられなかった。
◇
杏子とさやかの喧嘩は、もうどうでもよくなっていた。
「……今日はもういい」
杏子が槍を消す。
さやかは返事をせず、自分のソウルジェムを両手で持ったまま見つめている。まどかはその隣から離れず、ほむらも時々、自分の手元へ視線を落としていた。
そして誰も、俺が使った盾について聞かなかった。
なぜソウルジェムを追ったのか。なぜ投げた瞬間に危険だと分かったのか。どうしてほむらの魔法を、初めてのはずなのにあれだけ迷わず使えたのか。
本来なら聞かれて当然のことばかりだ。
でも今は、それどころじゃない。
少なくとも、その場では。
◇
翌日。
マミさんの部屋へ集まると、昨夜その場にいなかった彼女へ、ほむらが起きたことを短く説明した。
さやかのソウルジェムが身体から離れた瞬間に意識も呼吸も失ったこと。戻せば何事もなかったように身体が再び動き始めたこと。そしてキュゥべえが、ソウルジェムの中に魔法少女の魂が入っていると認めたこと。
「……つまり、この中に?」
マミさんが自分のソウルジェムを見る。
「魂が入っているそうです」
ほむらが答える。
しばらく誰も喋らなかった。
マミさんはカップを持ったまま、自分の指先を見ていた。やがて親指でカップの縁を一度なぞる。
ぽつりと、それだけ言った。
指には紅茶の熱が伝わっている。魂がそこにないと言われても、痛みも、温度も、触れた感覚も昨日までと何一つ変わらない。
キュゥべえが当然のように口を挟む。
「何か問題があるのかい?」
マミさんが顔を上げた。
「あなたは、最初から知っていたのよね」
「もちろんだよ」
少し間が空く。
「……そう」
マミさんはカップをテーブルへ戻した。指先がほんの少し震えている。
それでも昨日と同じように、誰かへ武器を向けることはなかった。
◇
その夜。
ほむらは一人になってから、ようやく昨夜の出来事を順番に思い返していた。
まどかがソウルジェムを投げた。誰も、何が起きるか知らなかった。
杏子も。
さやか自身も。
自分も。
でも、マギカだけは違った。
青い宝石が橋の外へ出た瞬間、マギカはさやかの身体へ何が起こるか確認するより早く走り出した。
まるで、ソウルジェムが一定以上身体から離れればどうなるのか、最初から知っていたみたいに。
それだけなら、まだ偶然と言えたかもしれない。
問題は、そのあとだった。
自分と同じ盾。
時間停止。
マギカに他人の能力を再現する魔法があること自体は、もう知っている。
でも、初めて再現した能力を本当にあそこまで迷わず扱えるものなのか。
盾へ触れる位置。
回す方向。
停止と解除を繰り返すタイミング。
完璧ではなかった。むしろ、自分よりずっと短時間しか維持できていない。
それでも、「どう使うのか分からない人」の動きではなかった。
最初に引っかかったのは、戦い方だった。
初めて一緒に戦ったはずなのに、マギカは時間停止の直後にこちらが何をするのか知っているように動いた。偶然で済ませるには噛み合いすぎていて、それから意識して見れば見るほど、妙なところが増えていった。
戦闘そのものもそうだ。動きには、短期間で身につくとは思えない癖がある。迷う場所と迷わない場所が妙にはっきりしていて、時折、自分よりずっと長く戦ってきた人間のように見える瞬間さえあった。
聞けば答える。
けれど、答えを一つもらうたび、その奥にもう一つ隠しているものが見えた。
それぞれ単独なら、いくらでも理由をつけられた。
でも昨夜の一件まで加わると、もう同じようには考えられない。
「…………あれ?」
ほむらは自分の盾へ視線を落とした。
答えそのものには、まだ届かない。
マギカも時間を繰り返している。
そんな発想へ飛ぶだけの材料までは、まだない。
それでも一つだけ、ほぼ確信に変わったことがある。
◇
同じ夜。
俺は自分の部屋で時計を見ていた。
秒針が一つ進み、また一つ進む。その次の瞬間だけ、ほんの一拍止まったように見えた。
「……?」
左腕が勝手に動く。
もう盾なんて出していないのに、指だけが何かを回そうとしていた。
「何だよ……」
成り代わりの残りか。
そう思った直後、胸の奥へ理由の分からない焦りが走る。何かを忘れているような感覚。急がなければならない。誰かのところへ行かなければならない。
誰を、とは分からない。
それなのに頭の中へ、一瞬だけ桃色が浮かんだ。
「……何だ、今の」
左腕を押さえる。
少し待つと、勝手に動こうとしていた指は止まり、胸の奥の焦りも薄れていった。それでも完全に気のせいだとは思えない。
巴マミへ成り代わった時には、口調や姿勢が残った。
今回も同じものだとするなら、残ったのは動きだけじゃない。
もっと内側の何かまで、一緒に持ってきたのかもしれない。
俺は時計から目を逸らした。