翌朝、さやかは何事もなかったように学校へ来た。
「おっはよー!」
教室の扉を開ける声も、鞄を机へ置く勢いもいつもと大して変わらない。むしろ普段より少し元気なくらいで、入ってくるなり近くのクラスメイトへ声を掛け、そのまま自分の席へ向かっていく。
「さやかちゃん」
まどかが近づくと、さやかは椅子を引きながら振り返った。
「ん?」
「……大丈夫?」
「何が?」
返事が早すぎて、まどかの方が言葉に詰まる。
「昨日のこと……」
「あー、あれね。大丈夫大丈夫。寝たらちょっと落ち着いたし」
「本当に?」
「だってさ、今ここで考え続けたって仕方ないじゃん。すぐどうにかできることでもないし」
「でも……」
「はい終了!」
さやかはまどかの額へ人差し指を軽く当て、そのまま笑った。
「朝からそんな顔してたら、こっちまで暗くなるって」
「さやかちゃん」
「大丈夫だって」
最後だけ少しゆっくり言った。
俺は少し離れた自分の席で教科書を出しながら、そのやり取りを横目で見ていた。
二人とも昨日の話を直接口にはしない。
当然だ。
この教室には、魔法少女とは何の関係もない生徒が大勢いる。そして二人から見れば、田中である俺もその中の一人だった。
昨日までなら、さやかも「本当かどうか分からない」で逃げられた。でももう違う。キュゥべえ自身が、魂はソウルジェムの中にあり、それが濁り切れば魔女になると認めている。
俺はそれを全部知っている。
ここでさやかへ何か言えるのはマギカであって、普通のクラスメイトである田中ではなかった。
何も聞いていなかったふりをして教科書を開く。そんな俺たちの事情とは関係なく予鈴が鳴り、いつもの一日が始まっていった。
◇
授業中、さやかは頬杖をつきながら黒板を眺めていた。
教師が何かを書き、チョークの音が教室へ響く。ノートを取ろうとして机へ置いた自分の手が視界へ入ると、さやかの動きが一瞬だけ止まった。
指も、爪も、皮膚も昨日までと何も変わらない。
それでも、指を一度曲げ、掌を返して確かめるように見ている。机の硬さも、紙が指先へ触れる感触も昨日と同じはずなのに、見慣れた自分の手を妙に長く眺めていた。
何を考えているのかまでは分からない。ただ、いつもの退屈そうな授業中とは違うことだけは、少し離れた席からでも分かった。
「起立ー」
号令ではっと顔を上げたさやかが慌てて立ち上がり、椅子の脚を床へ擦らせる。周囲と同じように頭を下げ、次の授業になればまたノートを開く。
◇
「最近、さやかさんお忙しそうですわね」
昼休み、少し離れた席から仁美の声が聞こえてきた。
「え? そう?」
「放課後、すぐにいなくなってしまうことが増えましたから」
「あー……まあ、ちょっと色々ねー」
「色々?」
「乙女には秘密の一つや二つあるのですよ」
「まあ。さやかさんがそのようなことを仰るとは」
「何それ! 私だって乙女ですー!」
「もちろん存じていますわ」
「絶対思ってない!」
三人の笑い声が聞こえる。
俺は自分の席で昼食を取りながら、そちらへ視線を向けないようにした。仁美は魔女のことも魔法少女のことも、昨日さやかの身体が一度動かなくなったことも知らない。
そして仁美から見れば、俺も同じ側にいる。
三人で笑っている姿だけを見れば、それまでと何も変わっていないように見えた。
午後の授業では、さやかが何度か時計を確認していた。昼休みに携帯を見て、すぐ何かを打ち込んでいた時の表情からして、相手は多分恭介だろう。
事情を知らない田中が、それ以上じろじろ見るわけにもいかない。
俺は視線を黒板へ戻した。
◇
放課後、さやかは鞄を肩へ掛けた。
「じゃ、今日は先帰るねー」
「病院?」
まどかに聞かれると、少しだけ得意そうに笑う。
「まあね。今日はちゃんと行けそうだし」
俺も帰り支度をしながら、その会話を聞いていた。
そのまま教室を出ようとした時、胸元へ微かな魔力の反応が触れる。
同時に、さやかの足も止まった。
胸元へ手をやり、まどかを見る。
まどかも一瞬だけ目を見開いた。
二人とも、何かを察したらしい。
俺には何が起きたのか分かっている。
でも鞄へ教科書を入れる手は止めなかった。
この場で二人と同じ反応をすれば、それだけでおかしい。
「……ごめん、ちょっと待って」
さやかはまどかへ小声で言うと、鞄から携帯を取り出した。
「もしもし?」
『さやか?』
「ごめん! 今日ちょっと用事できちゃった!」
声は明るかった。
『そっか』
「また今度ね!」
『うん……最近、忙しいんだな』
「人気者はつらいのですよ」
『何それ』
「じゃあまた!」
『うん』
通話を切ったあと、さやかは消えた画面を一度だけ見た。
「……よし」
まどかが心配そうに顔を覗き込む。
「よかったの?」
「いいっていいって。こっちの方が先でしょ」
それだけ言い、二人は教室を出ていった。
周囲の生徒が聞いても、何の話かは分からない。
俺はすぐには追わなかった。
周囲と同じように帰り支度を終え、教室を出て階段を下りる。二人とは別の出口へ向かい、人目がなくなってからようやく足を速めた。
田中として学校を出て、そのあとでマギカになる。
◇
魔女自体は、それほど強くなかった。
マミさん、まどか、ほむら、さやかが先に戦っていて、そこへ少し遅れて俺がマギカとして合流し、途中から杏子まで現れた。戦力だけなら十分すぎるくらいだ。
「美樹さん、前に出すぎよ!」
マミさんの声が飛ぶ。
「だいじょーぶです!」
さやかはいつもより少しだけ動きが速かった。剣を振り抜いて使い魔を倒すと、そのまま次へ向かう。傷ついているわけでも取り乱しているわけでもないが、早く終わらせようとしているのは見ていれば分かる。
「何か急いでる?」
近くへ出た時に聞いてみる。
「別に」
即答し、そのまま踏み込んで使い魔を斬る。
「そう?」
「そう!」
こちらを見ることすらなかった。
学校で恭介へ電話していたことを、俺は知っている。
でも、マギカがそれを知っているわけがない。
だからそれ以上は聞かなかった。
◇
結界が消えて街並みが戻ると、さやかは剣を消すなり真っ先に時計を確認した。
「……あ」
ほんの少し肩が落ちる。
やっぱりそうだったかと思ったが、もちろん口には出せない。
「まあ、明日行けばいいか」
「美樹さん」
マミさんが近づく。
「時間があるなら、少しだけ残れる?」
「え?」
「前衛の動き、少し見直した方がいいと思うの」
さやかはもう一度時計を見てから、すぐ頷いた。
「いいですよ。お願いします!」
どうせ今日はもう病院へ行けない。そんな切り替えの早さにも見えた。
マミさんの訓練はいつも通り丁寧だった。
「前へ出るのは悪くないわ。でも、自分だけで全部追おうとしないこと」
足元へ伸びたリボンを、さやかが横へ跳んで避ける。
「はい!」
「治癒が早くても、攻撃を受けていい理由にはならないわよ」
「分かってますって」
マミさんの視線が、さやかのソウルジェムへ移る。
「それから、今まで以上に濁りはこまめに確認して」
一瞬だけ、さやかの動きが止まった。
以前なら単なる魔力残量の確認だった。今は、濁り切った先に何があるのか全員が知っている。
「……はい」
「今日はもう、このくらいでもいいわ」
「まだ大丈夫です! もう一回お願いします!」
マミさんは少し迷った。
「焦る必要はないのよ」
「焦ってないですって」
さやかは笑う。
本当に、自分が無理をしているつもりはないのだろう。病院へ行けなくなった時間を少しでも有効に使い、もっと上手く戦えるようになれば魔力の無駄も減る。
本人の中では、それくらいの理屈なのかもしれない。
◇
帰る頃には、外はもう暗かった。
さやかが携帯を取り出して届いていた何かを読む。内容までは見えなかったが、一瞬だけ肩が落ちた。
「……うん」
小さく呟いて画面を閉じる。
それ以上は、誰にも何も言わなかった。
◇
次の日も、学校ではいつも通りだった。
「眠そうだね」
まどかがさやかの顔を覗き込む。
「ちょっとね」
「無理はいけませんわ」
仁美まで加わる。
「はいはい、お母さんが二人もいる」
「もう」
まどかが困ったように笑い、さやかもつられて笑った。
俺はまた少し離れた席から、そのやり取りを聞いている。
「そういえば、上条君、もう随分よくなられたそうですわね」
「うん」
そこだけは、さやかの表情が素直に明るくなる。
「もう普通に動かせるって」
「本当に良かったですわね」
「うん」
恭介が治ったことは、今でも嬉しいのだろう。魂を抜かれていたと知っても、最後には魔女になると知らされても、願ったことそのものまで嫌いになったわけではない。
恭介の腕が治った。
「そうだ」
仁美が少し遠慮がちに口を開く。
「上条君のお見舞いへ行ってもよろしいでしょうか」
「え? 何で私に聞くの?」
「さやかさんが一番親しいでしょう?」
「別にいいって。私に許可取ることじゃないし」
「そうですか?」
「うん」
「では、今度」
仁美が笑い、さやかも普通に笑い返した。
俺は会話へ入らなかった。
ここで先を知っている俺が何か言えば、それこそ余計な介入になる。
その時は、それだけだった。
◇
その日の放課後、さやかはちゃんと恭介のところへ行けたらしい。
そのことを俺が知ったのは、後でマギカとして巡回へ合流した時だった。
いつもより少し遅れて来たさやかが、妙に機嫌よく剣を呼び出したからだ。
「今日はご機嫌だな」
杏子が言う。
「別にー?」
「顔に出てんぞ」
「出てませんー」
そう言いながら、さやかの口元は緩んでいる。
多分、今日はちゃんと会えたんだろう。
田中として直接聞くことはできない。
でも、マギカとして見ていれば分かることもある。
◇
その日の巡回では、魔女の反応も使い魔もなく、決められた道を歩くだけで終わりそうだった。
「今日は平和だな」
俺が言う。
「……そうだね」
さやかの返事は、さっきまでの機嫌のよさに比べて少し低い。
理由は何となく分かった。
平和なのはいいことだ。魔女が出ないなら誰も襲われないし、本来なら喜ぶべきことのはずだ。それでも、巡回のために誰かとの時間を切り上げてきたのなら、何も起きない夜を歩きながら別のことを考えてしまうのも無理はない。
「何イラついてんだ?」
横から杏子が覗き込む。
「イラついてないし」
「顔に出てる」
「出てない!」
「出てる」
「うっさい!」
いつもの言い合いだった。
杏子は少しだけさやかの顔を見たが、それ以上は何も言わなかった。
◇
それから数日、似たような日が続いた。
学校では田中としてさやかを見る。放課後や夜になれば、マギカとして同じさやかと戦う。
学校で眠そうにしていた理由を、マギカは知らないことになっている。巡回で傷ついたことを、田中は知らないことになっている。
「美樹」
「はいっ!」
授業中、教師に呼ばれてさやかが慌てて立ち上がり、教室から笑い声が上がる。
「寝てたでしょ?」
休み時間にまどかが言う。
「寝てない寝てない」
「目閉じてたよ」
「考え事してただけ」
「それ寝てた人の言い訳じゃん」
まだ笑える。
だから、周囲から見ても大したことではないように見えた。
◇
その日の夜、使い魔との戦闘中に爪がさやかの腕を浅く切った。
「っ」
血が滲んだが、魔力を流せば傷口はすぐに塞がる。
少し前なら、治ったこと自体を面白がっていたかもしれない。今日は傷の消えた場所へ指を置き、何も残っていない皮膚をしばらくなぞっていた。
「さやかちゃん?」
まどかに呼ばれて顔を上げる。
「ん?」
「大丈夫?」
「余裕余裕! ほら」
腕を大きく振ってみせる。
ちゃんと動くし、痛みももうほとんどない。
それでも、何もなくなった皮膚をもう一度だけ見てから手を離した。
キュゥべえに魂のことを聞かされてから、身体を見る目が少し変わっている。
そんな気がした。
◇
帰り道、少し前を歩くさやかへ声を掛けた。
「さやか」
「何?」
「無理してない?」
「してない」
即答だった。
「ほんとに?」
「ほんとほんと。何? 最近マギカ過保護じゃない?」
笑いながら肩を竦める。
「……ならいい」
「何それ」
「別に」
俺には、嫌でも知っている流れがある。
恭介、仁美、さやか。
今の状況を見れば気になるものはいくらでもあるが、俺が知っている通りに物事が進むとはもう限らない。それに、先のことを知っているからという理由だけで、さやか本人から選ぶ権利まで奪うわけにはいかなかった。
「じゃあまた明日!」
さやかが手を振る。
「おう」
マギカとして別れる。
◇
その夜、さやかはベッドへ横になったところで携帯を手に取った。
恭介から短いメッセージが届いている。
口元が少し緩んだ。
『また明日!』
送信して画面を閉じた直後、ソウルジェムが微かに反応する。
さやかは携帯とソウルジェムを交互に見た。恭介との短いメッセージ。その横で、自分の魂が入っているという宝石が淡く光っている。
少しだけ天井を見上げたあと、身体を起こした。
「はいはい。行きますよっと」
冗談っぽく言いながら変身する。
外へ出る途中、今度はまどかからメッセージが届いた。
「明日かー……」
さやかは立ち止まり、学校、恭介、マミさんとの訓練、巡回と頭の中で予定を並べていく。少し考えてから指を動かした。
送信して携帯をしまい、そのまま地面を蹴る。
「よし」
夜の街へ走り出した。
学校へ行く自分も、恭介に会いに行く自分も、魔法少女として夜を走る自分も、全部同じ美樹さやかだ。