授業中、一瞬だけ意識が落ちた。
「……ん」
頭が前へ傾いたところで気づき、さやかは慌てて顔を上げる。教師は変わらず黒板へ文字を書いていて、どうやら周囲には気づかれていない。
何事もなかったふりをしてペンを持ち直したところで、隣からまどかが心配そうに覗き込んできた。
「さやかちゃん」
「何?」
「昨日も遅くまでだったの?」
声は周りへ聞こえないくらい小さい。
まどかも同じ魔法少女だ。巡回がどれだけ遅くなることがあるかも、その翌日に普通に学校へ来なければならないことも知っている。だから、ここで細かく説明する必要はなかった。
「……ちょっとね」
「また一人で無理してない?」
「してないって。ちょっと眠いだけ」
小さく笑ってみせると、まどかはまだ何か言いたそうな顔をした。それでも今は授業中だと分かっているのか、それ以上は聞かずに前へ向き直る。
さやかも黒板へ視線を戻した。
夜には剣を振って魔女を追い、朝になれば制服を着て数学のノートを取る。その切り替えにはもう慣れたつもりだったが、身体の方は少しずつ誤魔化せなくなっているらしい。
◇
昼休みになると、いつものようにまどかと仁美と三人で弁当を広げた。
「そういえば、上条君、本当にお元気になられましたね」
仁美が箸を置きながら言う。
「うん。そのうちまた演奏もできるってさ」
「それは何よりですわ」
「でしょ?」
その話になると自然に顔が明るくなり、少しだけ自慢げな声も出た。自分が治した、とはもちろん言えない。それでも、あの腕が動くようになったことだけは素直に嬉しかった。
「昨日も少しお話ししましたけれど――」
「……昨日?」
返事が僅かに遅れる。
「ええ。リハビリのことや、学校へ戻る準備について」
「あ、そっか」
仁美は何でもないことのように頷いた。
別におかしいことじゃない。恭介はもう病室にしかいない人ではなく、少しずつ外へ戻ってきている。仁美と話すし、他のクラスメイトとも話す。自分がいない時間にも、恭介の日常はちゃんと進んでいる。
「さやかちゃん?」
まどかに呼ばれて顔を上げる。
「ん?」
「ぼーっとしてた」
「してないって」
笑って誤魔化す。
それくらいなら、まだいつも通りできた。
◇
放課後、教室を出ようとしたところで仁美に呼び止められた。
「さやかさん」
「ん?」
「少し、よろしいですか?」
「何?」
仁美は一度まどかへ視線を向けた。
「二人でお話ししたいことがあって」
「え?」
まどかも少し驚いた顔をしたが、すぐに何か察したように鞄を持ち上げる。
「じゃあ、私先に行ってるね」
「うん」
教室の扉が閉じる。
もう残っている生徒はほとんどいなかった。窓から差し込む夕方の光が机の列を橙色に染めている。
「で? 何々、そんな改まって」
さやかはいつもの調子で笑ったが、仁美はすぐには答えなかった。普段ならほとんど見せない緊張が、その表情にははっきり出ている。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「…………えー。マジ?」
「はい」
「仁美が?」
「はい」
仁美は笑わない。
本気なんだと分かった瞬間、さっきまで浮かべていた笑顔が少しだけ弱くなった。
「そっか」
「それと、さやかさんも上条君のことがお好きなのでしょう?」
「……は?」
今度は笑えなかった。
「別に、私は――」
「ずっと見ていましたから」
責めるような声ではない。ただ、知っていることを口にしているだけだった。
「病院へ通っていたことも、いつも上条君のことを気にされていたことも」
何も返せない。
「だから、私は明日まで待ちます」
「え?」
「さやかさんが先にお気持ちを伝えるのであれば、私は今日、何もしません」
思わず仁美の顔を見る。声は緊張しているのに、目は逸らさなかった。
「それでも何もなさらないのでしたら、明日、私から上条君へ気持ちを伝えます」
勝手に先を越されたのなら、怒れたかもしれない。何も知らない顔で恭介を取られたのなら、少しくらい恨めたかもしれない。
でも仁美は、ちゃんと待つと言った。先に伝える機会までくれた。
「……そっか」
それしか出てこなかった。
「ごめんなさい」
「何で謝るの」
思ったより強い声が出て、仁美が顔を上げる。
「仁美、何も悪くないじゃん」
それは本音だった。
だから余計に苦しかった。
「さやかさんも、後悔なさらないようにしてください」
仁美は最後に静かにそう言うと、鞄を持って教室を出ていった。
扉が閉まったあとも、さやかはしばらく同じ場所から動けなかった。
◇
夕方の教室に一人残され、机の上の携帯を見る。
電話すればいい。今から恭介のところへ行って、好きだと言えばいい。たったそれだけのことなのに、携帯へ伸ばそうとした手は途中で止まった。
そのまま自分の掌へ視線を落とす。
少し前なら、そこに何か疑問を持つことなんてなかった。
数日前、使い魔の爪が腕を裂いた。血が流れて、確かに痛かった。それなのに魔力を流せば傷口は閉じ、しばらくすれば、そこに傷があったことすら分からなくなっていた。
戦いでは何度も同じことが起きている。切られても治る。傷ついても動ける。痛みさえ、必要なら遠ざけられる。
最初は便利だと思っていた。魔法少女なんだから、そういうものなのだと思っていた。
でも今は違う。
キュゥべえの声が蘇る。
この身体には、自分の魂が入っていない。傷つけば直せるように作り替えられた肉体を、ソウルジェムの中から動かしているだけ。
ふと、恭介の腕を思い出した。
少し前まで、指一本まともに動かなかった腕。壊れたら元に戻らないから、恭介は苦しんでいた。だから自分は願った。もう一度動くようにしてほしいと。
なのに今の自分の腕は、刃物で裂かれても魔力さえあれば塞がる。
同じ身体じゃない。
「……あたし、何なんだろ」
掌を握り込む。
温かい。触れれば感触もあるし、腹も減る。眠くもなる。恭介を見れば嬉しくなるし、仁美の言葉に胸だって痛む。
それなのに魂は、この中にはない。
このまま戦い続け、ソウルジェムが濁り切れば、最後には自分自身が魔女になる。
昨日まで当たり前だった「人間」という言葉から、自分だけが少しずつ外へ押し出されていくような気がした。
そんな自分が、何も知らない恭介の隣に立って、好きだと言って、普通の女の子みたいにその先を望んでいいのだろうか。
「……何考えてんの、あたし」
馬鹿みたいだ、と笑おうとした。
けれど、出てきた声は自分でも驚くほど乾いていた。
◇
それでも、病院へは行った。
「さやか」
顔を見るなり、恭介が笑った。
「今日来れたんだ」
「何それ。来ちゃ悪い?」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってるって」
椅子を引いて座り、いつもと同じようにリハビリの話をして、学校へ戻ったらどうするかを話して、音楽の話をした。
「先生も、このままならまたちゃんと弾けるかもしれないって」
恭介が嬉しそうに言う。
「ほんと?」
「うん」
「よかったじゃん!」
その瞬間だけは、何も迷わなかった。
本当に嬉しい。願ったことは間違っていなかった。少なくとも、動く腕を見ている間だけはそう思えた。
「ねえ、恭介」
「何?」
恭介がこちらを見る。
今なら言える。
誰もいない。魔女の反応もない。仁美がくれた時間もまだ残っている。
それなのに、言葉が続かなかった。
恭介がベッドの上で動かしている手を見る。昔と同じ、人間の手。壊れれば痛くて、治るまで時間がかかって、それでも本人の身体としてそこにある手。
自分の手とは、もう同じではない。
「……何でもない」
「何だよ、それ。言いかけたなら言えばいいのに」
「いや、ほんと何でもない」
「変なの」
「うるさい」
いつも通りの会話だった。
本当に普通だからこそ、その中へ自分の秘密を持ち込むことが怖かった。
◇
「それより、最近何してるんだ?」
恭介が少し首を傾げた。
「何が?」
「忙しいだろ。前より全然来なくなったし」
責めているわけではない。ただ気づいているだけだ。
「秘密」
「また?」
「乙女には秘密が多いのです」
「秘密多くなったな」
「うるさい」
冗談のつもりで返したのに、その言葉だけ妙に胸へ刺さった。
本当のことは一つも言えない。どうして突然いなくなるのか。夜まで何をしているのか。なぜ傷が残らないのか。自分の魂がどこにあるのか。
何も知らない恭介は、いつもと同じ顔でそこにいる。
そのことが少しだけ苦しかった。
◇
病院を出たあと、マギカと会った。
「さやか」
「何?」
「……何かあった?」
思わず顔を見る。
「何で?」
「いや、何となく」
「別に」
即答すると、マギカは少しだけこちらを見てから、それ以上は踏み込んでこなかった。
「……そうか」
「最近みんな、あたしのこと心配しすぎじゃない?」
「そうか?」
「まどかも、マミさんも、マギカも」
指を順番に立ててみせる。
「別にあたし普通だから」
言ってから、その言葉が少しだけ引っかかった。
昨日までなら何も考えずに使っていた言葉なのに、今は自分へ向けると妙に居心地が悪い。
「……ならいい」
「何それ」
「別に」
「最近マギカ、過保護」
「うるさい」
少しだけ笑った。
それ以上聞かれなくて、助かった。
◇
その日の巡回中も、杏子にはすぐ気づかれた。
「また機嫌悪ぃな」
「悪くない!」
「それ機嫌悪いやつの言い方だろ」
「悪くないって言ってんでしょ!」
「ほら」
「うっさい!」
いつもの言い合いだった。
杏子は少しだけこちらを見たが、それ以上は何も言わない。誰も無理に聞いてこないことはありがたいはずなのに、どうしてか少しだけ腹が立った。
自分でも、何に苛立っているのか分からなかった。
◇
翌朝、教室で仁美と目が合った。
何も聞いてこない。
昨日の約束通り、待っている。
それが逆にきつかった。
昨夜は恭介と二人きりだった。時間もあったし、誰にも邪魔されなかった。それでも、結局何も言えなかった。
もう仁美を止める理由はない。
放課後、仁美が静かに近づいてくる。
「……では」
確認するような声だった。
さやかは少しだけ間を置いてから頷いた。
「うん」
「ありがとうございます」
「礼言うことじゃないでしょ」
笑って返した。
多分、ちゃんと笑えていたと思う。
仁美はそれ以上何も言わず、恭介のいる方へ歩いていった。
◇
怒る相手がいなかった。
仁美は何も悪くない。恭介も悪くない。まどかも、マミさんも、杏子も、マギカも関係ない。キュゥべえには腹が立つけれど、今のこの気持ちをどうにかしてくれるわけでもない。
残るのは、自分だけだった。
一瞬だけ、そんな言葉が浮かんだ。
「……っ」
浮かんだこと自体が嫌だった。
そんなつもりで願ったんじゃない。
恭介に幸せになってほしかった。もう一度弾けるようになってほしかった。それは嘘じゃない。
でも、その奥に、自分を見てほしいという気持ちが一度もなかったと言い切れるのか。
答えは出なかった。
視線を落とすと、青いソウルジェムがそこにある。
昨日まで自分の身体だと思っていたものは、傷ついても修復できる肉体でしかなく、魂はこの小さな宝石の中に押し込められている。そしてこれが濁り切った先には、魔女が待っている。
普通の女の子みたいに恭介の隣へ立ちたいと思う一方で、自分はもうその「普通」の側にはいないのではないか。
考えれば考えるほど、何が正しいのか分からなくなった。
◇
その時、ソウルジェムが反応した。
魔女だ。
いつもなら何も考えず、すぐに走っていた。
今日は一度だけ、仁美が向かった方向を見る。その先には恭介がいる。
もう一度、手元のソウルジェムへ目を落とす。
数秒だけ迷った。
それでも剣を呼び出した。
誰かが襲われるかもしれないなら、行く。
◇
走っている途中で、携帯が震えた。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
ポケットの中で振動しているが、誰からなのかは分からない。
さやかは取り出さなかった。
前には魔女の反応がある。
今は、そっちへ行く。
足を止めず、そのまま夜の街を走り続けた。