最初は、ただの遅刻だった。
「さやかちゃん、今日遅いね」
朝のホームルームが始まっても、まどかの隣の席は空いたままだった。担任も特に気にした様子はなく、出席簿へ何かを書き込んで、そのまま連絡事項を読み上げている。
「寝坊じゃない?」
「さやかちゃんならありそうだけど……」
まどかはそう言って笑ったものの、何度か時計へ目をやっていた。俺も田中として、何も知らない顔で適当に頷いておく。
結局、さやかが教室へ駆け込んできたのは、一時間目が終わった後だった。
「間に合った!」
「どこがだよ」
近くのクラスメイトに突っ込まれ、さやかは悪びれもせず笑っている。髪が少し乱れているくらいで、見たところ体調が悪そうでもない。
だから、その日は誰も深く考えなかった。
次の日、さやかが来たのは昼前。その次の日には、とうとう一日中、席が埋まらなかった。
「……最近、美樹さんはどうされたのでしょう」
昼休み、仁美が空いた席へ視線を向けた。
「連絡は返ってくるよ」
まどかが携帯をこちらへ向ける。
『生きてまーす』
その下には、妙に元気なスタンプが一つ。
「なら、よろしいのですけれど……」
仁美はそう言ったが、表情は晴れなかった。
俺も同じだった。理由なら、ある程度分かっている。
学校へ来ていない間も、さやかは休んでいるわけじゃない。
◇
その夜、魔女の反応を追って結界へ入った時には、すでに戦闘が始まっていた。
「さやか!」
青い影が使い魔の群れへ突っ込んでいく。
少し前とは明らかに速い。一本目の剣を投げ、避けた先へ二本目を置く。相手が身を捻ったところへ自分から距離を詰め、至近距離で斬り上げる。
マミさんから教わった足運び。杏子との戦いで覚えた間合いの取り方。教えられたことも、盗んだものも、ちゃんと身についている。
だからこそ、次の動きが余計に目についた。
「おい、前!」
「見えてる!」
横から使い魔の爪が伸びる。
避けられた。少なくとも、今のさやかなら。
なのに身体を半歩ずらしただけで、完全にはかわさなかった。爪が腕へ深く食い込み、青い衣装の上から血が飛ぶ。
「っ!」
俺の方が息を詰めた。
さやかは止まらない。傷つけられた腕をそのまま振り抜き、懐へ入った使い魔の胴へ剣を叩き込む。敵が消えると、ようやく自分の腕を一度だけ確認した。
「平気平気」
傷口へ青い魔力が集まり、裂けた肉が塞がっていく。数秒もすれば、そこに深い傷があったことさえ分からなくなった。
「平気じゃねえだろ」
「治ってるじゃん」
「治るかどうかの話じゃ――」
「次来る!」
俺の言葉を切るように、さやかはまた走り出した。
魔女そのものは、それほど強くない。問題はさやかの戦い方だった。
避けられる攻撃まで避けなくなっている。一撃を受ける代わりに一歩早く相手の懐へ入れるなら、そのまま身体で受ける。斬られれば治し、治ればまた前へ出る。
効率だけを見れば、確かに間違ってはいない。
でも、前のさやかはこんな戦い方をしなかった。
まだ訓練を始めたばかりの頃、使い魔の攻撃が腕を掠めただけで大騒ぎしていたことを思い出す。
『いったぁー! ちょ、これ普通に痛いんですけど!』
そんなさやかへ、マミさんが呆れたように笑いながら言っていた。
『治せることと、傷ついていいことは別なのよ』
あの時のさやかは、不満そうに唇を尖らせていた。
今なら、同じくらいの傷を受けても眉一つ動かさない。
次の瞬間、使い魔の爪が肩へ食い込んだ。
「っ……!」
今度は剣先が僅かに鈍った。
さやかもそれに気づいたらしい。肩から流れる血より、一瞬遅れた自分の動きを確かめるように目を細める。
「……邪魔」
「さやか?」
返事はない。
傷を治している様子もなかった。代わりに青い魔力が肩から首筋へ、それから身体全体へ薄く広がっていく。
「……あ」
さやかが肩を回した。
傷はまだ開いている。血も流れている。それなのに、さっきまであった苦痛の色だけが顔から消えていた。
もう一度腕を動かし、確かめる。
「これなら……もっとやれる」
嫌な言葉だった。
「さやか、待て!」
呼び止めるより先に、地面を蹴った。
そこからのさやかは、明らかに強くなった。
痛みで身体が止まらない。多少の傷なら構わず踏み込み、敵が腕を狙えば、その分だけ空いた懐へ剣を入れる。傷そのものは戦闘が終わってから治せばいい。
「美樹さん!」
マミさんの声にも振り返らなかった。
「今ならいける!」
剣が一本、二本、三本と魔女へ突き刺さり、最後の一撃がその中心を貫く。
結界が崩れた。
◇
「美樹さん」
現実へ戻るなり、マミさんがさやかを呼び止めた。声がいつもより低い。
「何ですか?」
「さっき、痛みを魔法で抑えていたでしょう」
さやかは少し驚いたようだった。
「分かります?」
「分かるわ」
魔法少女の衣装、その肩口には乾きかけた血が残っている。傷そのものはすでに閉じているのに、その痕だけが戦い方を物語っていた。
「便利ですよ、これ」
「美樹さん」
マミさんは正面からさやかを見る。
「治せることと、傷ついていいことは別よ」
前と同じ言葉だった。
さやかも覚えていたのだろう。一瞬だけ、目の動きが止まった。
「でも、結果的には誰も怪我しなかったじゃないですか」
「あなたが怪我をしているでしょう」
「私なら治ります。だったら、一番頑丈な奴が前に出た方がいいじゃないですか。私が一発受ければ、その分ほかの人が攻撃されなくて済むんだから」
返ってきた言葉には迷いがなかった。
少し前まで、杏子の効率をあれほど嫌っていたさやかが、今は自分にだけ同じ計算を当てはめている。
マミさんも、それに気づいたようだった。
「自分の身体も、守る対象でしょう?」
さやかの表情が止まった。ほんの一瞬だけだった。
「……そうですかね」
軽く笑う。
だから余計に、背中が冷えた。
マミさんの顔からも、僅かに血の気が引いている。さやか本人だけが、その言葉のおかしさに気づいていなかった。
◇
危ない。
それだけは分かる。
俺が知っている未来でも、さやかはこの辺りから急速に追い詰められていった。でも、今はもう同じ状況じゃない。
マミさんは生きている。杏子も一緒に戦っている。魔法少女の魂がソウルジェムへ移されていることも、その先で魔女になることも、さやかはすでに知っている。
それでも、別の道を通って同じ場所へ近づいている。
何を止めればいいのか分からない。魔女狩りをやめさせるのか、正義感を否定するのか。恭介や仁美のことへ口を出すのか、それともソウルジェムを浄化させ続ければいいのか。
全部が繋がっていて、どれか一つを引き抜けば済むようには見えなかった。
未来を知っている。
なのに、その知識は「危ない」と警告してくるだけで、どこを変えれば助かるのかまでは教えてくれない。
それが、思っていた以上に怖かった。
◇
## ――美樹さやか視点
数日ぶりに朝から学校へ行くと、まどかが真っ先に寄ってきた。
「さやかちゃん!」
「何その顔」
「だって最近、全然来なかったから……」
「ちょっと夜更かししただけだって」
「夜更かしで何日も休まないよ」
「細かいなあ」
笑って返す。
制服を着て、鞄を持って、いつもの席へ座る。それだけで、以前と何も変わっていない気がした。
「お元気そうで安心しました」
仁美も声を掛けてくる。
「心配性だなー」
「だって、本当に……」
そこで仁美の言葉が止まり、目が合った。
恭介のことを思い出しているのは分かった。
「おはよ、仁美」
さやかの方から笑う。
「……おはようございます」
仁美もそれ以上は言わなかった。
もう、その話をする必要はない。
自分が何も言わなかった。ただ、それだけだ。
◇
事故は、戦いとは何の関係もない場所で起きた。
休み時間。教室を移動する生徒で混み合った階段を下りている途中、上ってきた誰かと肩がぶつかった。
「あっ」
足が滑り、一段、二段と踏み外す。とっさについた手も滑り、肩を強く打ったまま、膝と脛を階段の角へぶつけながら踊り場まで転がり落ちた。
周囲から悲鳴が上がる。
「美樹!?」
「大丈夫!?」
さやかは床へ手をついたまま、自分の身体を確認した。
膝の皮が大きく擦れて血が滲んでいる。掌も赤く、肩もまともに打ったはずだった。
「あー……やっちゃった」
立ち上がろうとすると、近くにいたクラスメイトが慌てて止めた。
「いや、待って待って! 立たない方がいいって!」
「保健室呼んだ方がいいんじゃない?」
「大丈夫だって」
普通に足へ力を入れて立ち上がる。
動く。骨も折れていない。
それなら問題ない。
そう思ったのに、周囲の空気が妙だった。
誰かが自分の膝を見ている。別の誰かは顔をしかめていた。本人より、見ている方が痛そうな顔をしている。
「……美樹、それ痛くないの?」
聞かれて、初めて考えた。
「え?」
膝を見る。赤い血が脛へ細く流れていた。
昨日なら、いや、少し前までなら、こんな傷を見ればそれだけで顔をしかめていたと思う。
今は何も感じない。
「……うん。痛くないよ」
自分でも確かめるように答えると、周りの表情がまた変わった。
怖がっているわけじゃない。ただ、理解できないものを見る顔だった。
その視線の意味を考えるより先に、まどかが人混みを掻き分けて駆け寄ってくる。
「さやかちゃん……?」
その声だけで、まどかには分かったのだと思った。
「だから平気だって。ほら、普通に歩けるし」
学校で傷そのものを治すわけにはいかない。でも痛みだけなら、誰にも見えない。
「美樹さん! 何をしているんです、保健室へ行きなさい!」
教師の声が飛んでくる。
「はーい」
仕方なく返事をした。
◇
「これで痛くないなんてこと、ないでしょう」
保健室で、養護教諭が傷を洗いながら眉を寄せた。
「そう言われても、本当に痛くないんですよ」
「我慢しているんじゃなくて?」
「うーん……違いますね」
消毒液が赤く擦れた皮膚へ触れる。普通なら染みるし、前にも転んだ時、消毒液を塗られて痛がった覚えがある。
なのに、今は冷たい感触が少しあるだけだった。
さやかは綿が傷口を擦る様子を、まるで他人の膝を見ているみたいに眺めていた。
◇
保健室を出ると、廊下の先でまどかが待っていた。
「ねえ、さやかちゃん」
「何?」
「本当に痛くないの?」
「うん」
「魔法で?」
周囲に人がいないことを確かめてからの、小さな声だった。
「まあね」
まどかの顔が曇る。
「それ……やめた方がいいよ」
「何で?」
「だって、痛いって、身体が危ないって教えてくれてるんじゃないの?」
「でも治せるんだよ?」
「でも……」
「だったら問題ないじゃん」
自分でも不思議なくらい、自然にそう思えた。
傷は治る。痛みは消せる。戦う時に邪魔なら、消してしまえばいい。
「さやかちゃんの身体でしょ?」
まどかが言った。
足が止まる。
「……身体、ね」
自分の口から出た声が、思っていたより冷たかった。
まどかが黙る。
昨夜、マミさんにも似たようなことを言われた。
自分の身体も守れ、と。
でも、魂はここにはない。この身体が傷ついても、魔力で直せる。
じゃあ、何をそんなに大事にしろというのだろう。
「……ごめん。先、教室戻るね」
「さやかちゃん」
呼ばれたけれど、振り返らなかった。
◇
放課後、校門から少し離れたところに杏子がいた。
「よう」
「……何?」
今はあまり会いたい相手ではなかった。
「怪我したんだって?」
「誰から聞いたの」
「別にいいだろ」
「まどか?」
「さあな」
「絶対まどかじゃん」
杏子は答えず、膝の包帯へ目を落とした。歩き方が普通なのも見ている。
「痛くねーの?」
「痛くない」
即答すると、杏子の眉が僅かに動いた。
「便利な身体だな」
「でしょ?」
「褒めてねえよ」
思っていた返事と違って、少し苛立った。
「杏子だって言ってたじゃん。魔力は効率よく使えって」
「……それが何だよ」
「多少怪我したって治せるなら、避けることばっかり考えるより、その分攻撃した方が早いでしょ」
杏子の顔が険しくなる。
「あたしが言ったのは、そういうことじゃねえ」
「何が違うの?」
「全部だよ」
「説明になってないじゃん」
「うるせえな」
杏子が腕を掴んだ。少し強い。
でも何も感じない。
さやかの表情が変わらなかったせいか、杏子の方が先に手を離した。
「お前さ、自分まで使い捨ててどうすんだよ」
笑いが消える。
「……別に、使い捨ててないし」
「同じだろ。魔女を斬るために腕一本差し出して、後から治ったから問題ありませんってか?」
「治るんだからいいじゃん」
「次は脚か?」
「……」
「腹でも首でも、治せりゃ何でも差し出すのかよ」
「そんな極端な話してないでしょ」
「もうしてんだよ」
杏子の声が低くなった。
「痛みまで消して突っ込んでんだろ」
さやかは返事をしなかった。
杏子が一歩近づく。
「人助けすんのも、魔女狩るのも好きにしろ。あたしが止めたって、お前は行くだろうしな。けど、お前まで勘定から外してんじゃねえよ」
胸の奥へ何かが引っかかった。
「……杏子に何が分かるの」
「分かるから言ってんだろ」
「分かんないよ。杏子には関係ないじゃん」
「さやか」
「うるさい」
背を向ける。
杏子は追ってこなかった。少し歩いたところで、後ろから舌打ちだけが聞こえた。
◇
夜になると、またソウルジェムが魔女の気配を拾った。
行かない理由はなかった。
誰かが襲われるかもしれないなら、倒す。
その気持ちだけは、まだ何も変わっていない。
結界へ入り、剣を握る。
魔女の爪が腹を掠めた瞬間、痛みが走るより先に魔力を流す。感覚が遠のくと、そのまま一歩踏み込み、剣を振った。
次は肩を裂かれた。血は出ているが、痛くない。
傷そのものを治すのは後でいい。戦いながら治癒へ回す魔力を減らせば、その分だけ剣へ回せる。
以前より速い。
以前より迷わない。
攻撃を受けることへの恐怖がなくなれば、それだけ深く踏み込める。
最後の一撃が魔女を貫き、結界が砕けた。
◇
誰もいない路地へ戻り、壁へ背を預けた。
「……はぁ」
息を整えながらソウルジェムを見ると、青い宝石の中には以前よりはっきり分かる濁りが溜まっていた。
グリーフシードは持っている。使えば、もっと綺麗にできる。
手の中でしばらく見比べた。
まだ戦える。今すぐ危険なほど濁っているわけじゃない。グリーフシードだって無限に手に入るわけではないし、次にもっと強い魔女が出るかもしれない。
「……まだ、いける」
必要だと思う分だけ浄化し、そこで止めた。
青は戻った。完全ではないが、それで十分だと思った。
ふと腕を見る。
戦いの途中で裂かれた傷から、まだ少し血が滲んでいる。
指先で触れると、ぬるい。赤い。傷口を押してみても、何も返ってこない。
少し前までなら、こんなことをすれば反射的に手を引っ込めていたはずだった。
「……ほんとに、痛くない」
青い魔力を流すと、裂けていた皮膚がゆっくりと閉じ、最後には跡すら残らなくなった。
さやかはしばらく、その何もなくなった腕を見ていた。
それから制服の袖を下ろすような何気なさで腕を隠し、壁から身体を離した。
誰にも見られていない。誰にも心配されない。そして、痛くもない。
だから、そのまま家へ帰った。