――マギカ視点
朝になっても、さやかの席は空いたままだった。
ここ数日では、もう珍しい光景でもない。遅刻してくる日もあれば、昼前になってようやく顔を出す日もあるし、とうとう一度も学校へ来なかった日だってあった。
それでも今日は、いつもと少し違った。
「……出ない」
まどかが携帯を耳から離した。何度目かの電話らしく、画面には朝から送ったメッセージが並んでいる。
『今日学校来る?』
『大丈夫?』
『起きてる?』
どれにも返事はなかった。
「さやかさん、今日もお休みですの?」
仁美が心配そうに覗き込む。
「うん……。連絡もつかないの」
少し前なら、この二人の間には別の気まずさがあった。恭介のこと。仁美が告白すると言ったこと。そして、さやかが何もしなかったこと。
それでも仁美は迷わず自分の携帯を取り出した。
「私からも連絡してみます」
「仁美ちゃん」
「こういう時に遠慮することではありませんわ」
そう言われて、まどかの表情が僅かに緩んだ。
俺は田中として、その会話を横で聞いているしかない。
昨日のさやかを知っている。傷があっても痛みを消し、自分の身体を守る対象から外し始めていた。その姿が頭から離れず、朝からずっと嫌な予感だけが残っていた。
◇
放課後になっても、さやかから連絡はなかった。
『美樹さんが?』
念話で呼びかけると、マミさんの声がすぐに返ってくる。
『はい。朝から何度も連絡してるんですけど……』
『家の方は?』
『お母さんには聞きました。朝には家を出たって』
まどかの返事のあと、少し沈黙があった。
『最近の美樹さん、ソウルジェムの濁りも早くなっていたわ。手分けして探しましょう』
『……探すぞ』
杏子の返事は早かった。少し前なら「勝手にしろ」と言っていてもおかしくなかったのに、今は迷いすらない。
『風見野側はあたしが見る』
『私は駅周辺を探します』
ほむらも続く。
『じゃあ私、学校から病院の方を見てみる!』
『俺は南側を回る』
俺も答えて走り出した。
この辺だった。それだけは覚えている。
仁美。恭介。さやか。そして、人魚の魔女。
けれど、大まかな流れしか残っていない。どこで、何時頃、どの魔女を倒した後だったのか。そんな細部まで覚えているわけじゃなかった。
しかも今は、俺の知っている展開そのままではない。マミさんは生きている。杏子とも早くから関わっている。ほむらもいるし、俺もいる。そしてさやかは、魔法少女が最後にどうなるのかまで知っている。
それでも危険な場所へ近づいていることだけは分かる。
◇
――美樹さやか視点
身体が重かった。
足を動かすたび、制服の下に何かをぶら下げているような鈍さがある。それでも歩けているし、痛みは魔法で遠ざけているのだから、まだ大丈夫だと思えた。
手元のソウルジェムを見ると、青かったはずの宝石には、もう無視できないほど黒い濁りが広がっている。
「……まだ」
戦える。昨日だって戦えた。魔女を倒せばグリーフシードが手に入り、それで浄化すればいい。
何度もそう考えながら歩いていると、少し先に見覚えのある二人がいた。
恭介と、仁美。
思わず足が止まった。
二人が何を話しているのか、ここからでは聞こえない。仁美が笑い、恭介も普通に笑い返している。
少し前まで動かなかった恭介の腕は、もう普通に動いていた。自分の足で立って、歩いて、誰かと話している。その姿を見たくて願ったはずだった。
願いは叶った。ちゃんと成功している。
そう自分へ言い聞かせたのに、胸の奥から別の言葉が浮かんだ。
「……っ」
思った自分自身に驚いた。
何を考えているんだ。
仁美は何も悪くない。恭介だって悪くない。自分が勝手に願っただけで、誰からも何かを返すなんて約束されていない。
それなのに、悔しかった。寂しかった。腹が立った。その感情を向けていい相手がどこにもいないから、結局全部が自分へ戻ってくる。
さやかは自分の手を見る。
この中に魂はない。本当の自分は、手の中の青い宝石にいる。傷ついても治せる身体で、痛みまで消すことができて、この宝石が濁り切れば最後には魔女になる。
そんなものになった自分が、普通の女の子みたいに恭介の隣へ立とうとしていた。
「……馬鹿みたい」
声に出したところで、ソウルジェムが熱を持った。
魔女の反応だ。
さやかは一度だけ恭介と仁美の方を見て、それから背を向けた。
◇
結界へ入った瞬間、剣を呼び出した。
使い魔の群れが一斉に飛びかかってくる。一本目を投げ、避けた先へ二本目を置き、そのまま距離を詰めて三本目の剣で斬り上げた。
以前より速く、迷いも少ない。
敵の爪が腕へ食い込んだが、痛みを切ってそのまま剣を振り抜く。血が飛んでも止まらないし、傷は後から治せばいい。
脇腹を抉られても同じだった。痛みを消して踏み込み、脚を裂かれても動くなら問題ない。
「まだ……!」
魔女の攻撃が振り下ろされる。
避ければ距離が開く。それなら受ければいい。
肩で攻撃を受け、そのまま懐へ潜り込む。剣を深く突き刺し、もう一本を重ねると、魔女が大きく身体を揺らした。
「これで……!」
最後の剣を振り抜く。
魔女の姿が崩れ、結界が消えていった。
◇
現実へ戻ると、誰もいない場所にさやかだけが立っていた。
足元へ落ちたグリーフシードを拾い上げ、すぐにソウルジェムへ近づける。黒い濁りが吸われ、一瞬だけ青が戻った。
「……え?」
中心に残った黒だけが動いていない。
もう一度グリーフシードを近づけると、表面の濁りは僅かに吸われるのに、その奥から新しい黒が滲み出すように広がっていく。
「何で……?」
さらに近づけても、吸収より速く濁りが増えていく。指が震え、持っていたグリーフシードが小さく揺れた。
初めて、声に恐怖が混じった。
◇
――マギカ視点
「さやか!」
声を上げたのと、杏子が駆け込んできたのはほとんど同時だった。
「……杏子?」
さやかが振り返る。俺より先に、杏子の視線がソウルジェムへ落ちた。
「おい。それ見せろ!」
「何だよ」
「いいから!」
杏子は自分のグリーフシードを取り出した。
「杏子の分じゃん」
「知るか! 使えっつってんだよ!」
さやかが目を見開いた。
杏子がグリーフシードを大事にしていることくらい、さやかだって知っている。魔力もグリーフシードも有限だから無駄にするなと、何度も言っていた。
その杏子が今は、一瞬も迷わず差し出していた。
「早く!」
杏子がさやかのソウルジェムへ近づけると、黒い濁りが僅かに動き、ほんの一瞬だけ青が戻った。
「ほら、まだ――」
杏子の声が途中で止まった。
戻った場所から、また黒が染み出してくる。今度はさっきより速い。
「……何で?」
さやかの声が震えた。
「何で消えないの……?」
その広がり方には見覚えがあった。もう、浄化が追いつかない。
「杏子、離れろ」
「は?」
「いいから離れろ!」
「まだ間に合う!」
杏子はもう一つグリーフシードを近づけようとする。
「杏子!」
「黙れ!」
さやかの腕を掴んだまま、杏子が怒鳴った。
俺だって、そう思いたかった。
でも知っている。ソウルジェムが限界まで濁ればグリーフシードへ変わり、その先に何が起きるのかも。
◇
「さやかちゃん!」
まどかの声が響き、その後ろからマミさんとほむらも駆けてきた。
「美樹さん!」
全員が揃った瞬間、間に合ったと思った。けれど次に浮かんだのは、その逆だった。
全員が、これを見ることになる。
「まど……」
さやかがまどかを見る。
何か言おうとしたのだと思う。でも、言葉にはならなかった。
ソウルジェムに残っていた最後の青が、黒へ飲み込まれていく。
「さやかちゃん?」
まどかが一歩近づく。
宝石の内側に細い亀裂が走り、それが一つ、また一つと増えていく。
「……っ」
マミさんが息を呑んだ。
青い宝石が少しずつ形を失っていく。
やがて、それはもうソウルジェムではなくなった。
誰も言葉を発せなかった。
知っていた。ほむらから聞いたし、キュゥべえ本人からも確認した。それでも、知っていることと、目の前で友達がそうなるのを見ることは全然違った。
「……本当に、こうなるの……?」
マミさんの声が掠れた。
誰も答えられなかった。
◇
空気が歪んだ。
「さやかちゃん!」
まどかが手を伸ばした瞬間、さやかの身体から力が抜け、杏子がとっさに受け止めた。
「おい、さやか!」
呼びかけても返事はない。
魂はもう、その身体には残っていない。
グリーフシードを中心に世界そのものが裏返り、水の匂いと音楽、舞台、巨大な車輪、無数の剣が歪みながら組み上がっていく。
そして、その中心に人魚の姿をした巨大な魔女が現れた。
俺はその名前を知っている。
さやかの願いも、恭介への想いも、正義感も、自分を犠牲にしてでも誰かを助けようとしたことも、全部が歪んで魔女という形になっている。
「……さやか」
杏子が呟いた。
腕の中には、もう動かない身体がある。その目の前には、さやかだった魔女がいた。
◇
「キュゥべえ」
まどかが呼んだ。
いつの間に現れたのか、白い影が少し離れた場所に座っている。
「何だい?」
まどかは魔女を見て、それから杏子に抱えられたさやかの身体を見る。
「これ……本当にさやかちゃんなの?」
「そうだよ」
即答だった。
マミさんがキュゥべえを見る。
「あなたは……こうなると分かっていて、私たちと契約したの?」
「もちろん。魔法少女が最終的に魔女へ変化することは、契約システムの一部だからね」
マミさんの指が僅かに震えた。
「じゃあ……」
まどかが縋るように言う。
「どうしたら戻せるの?」
「戻す?」
キュゥべえが首を傾げる。
「僕は、一度魔女になった魔法少女が元の状態へ戻った例を観測したことがない」
「例がねえだけだろ!」
杏子が即座に怒鳴った。
キュゥべえは杏子を見る。
「その可能性を否定するつもりはないよ。ただし、少なくとも僕は成功例を知らない」
杏子はさやかの身体をそっと地面へ寝かせ、槍を握った。
魔女へ向けるためではない。
「さやか! 聞こえてんだろ!」
◇
オクタヴィアが動いた。
巨大な車輪が軋み、舞台全体へ音楽が響き渡る。
「待って! さやかちゃん、私だよ!」
まどかも一歩前へ出た。
「鹿目さん、危ない!」
マミさんが止めようとする。それでもまどかは、その場から退かなかった。
「帰ろうよ! 一緒に帰ろう!」
オクタヴィアの腕が持ち上がり、巨大な剣が振り下ろされる。
「っ!」
マミさんのリボンが走り、まどかの身体を引き寄せた。刃が直前までまどかのいた場所を叩き割る。
俺もスカンビオを使って次の車輪の軌道を僅かにずらし、杏子は鎖を伸ばしてオクタヴィアの腕へ巻きつけた。
「大人しくしろ! 話聞け、さやか!」
誰もオクタヴィアを倒そうとはしていなかった。拘束し、攻撃を逸らし、避けながら、ただ呼びかけるための時間を稼いでいる。
ほむらだけが少し離れた場所から全体を見ていた。盾へ手を掛けているが、まだ動かない。
◇
「さやかちゃん! 私、待ってるから! 学校だって一緒に帰りたいし、もっといっぱい話したいよ!」
まどかが何度呼んでも、魔女の剣は止まらない。
杏子は歯を食いしばり、鎖を握る手へさらに力を込めた。
「さやか! 戻ってこい!」
魔女が大きく腕を振り上げる。
その瞬間、音楽が弱くなった。
「……え?」
まどかが顔を上げる。
巨大な車輪の回転がゆっくりと止まっていき、オクタヴィアの腕も剣を掲げたまま動かなくなった。
「さやか……?」
杏子の声が小さくなる。
俺も動けなかった。
偶然かもしれない。魔女の行動パターンが、たまたま切り替わっただけかもしれない。それくらいの可能性は、頭では分かっている。
でも、誰もそうは言わなかった。
杏子が一歩だけ前へ出る。
オクタヴィアは動かない。
「なあ、さやか。戻ってこいよ」
返事はなかった。