音楽が鳴っていた。
大きすぎて、近すぎて、もう音というより空間そのものが震えているみたいだった。車輪、水、剣、舞台。その中央に、巨大な人魚の魔女――オクタヴィアがいる。
誰も攻撃できなかった。
「さやかちゃん! さやかちゃん、聞こえる!?」
最初にまどかが叫ぶが、魔女は答えない。
「おい! 聞こえてんだろ!」
杏子も槍を握ったまま一歩前へ出る。マミさんはマスケットを出しているものの、銃口を上げることができずにいた。ほむらだけが少し離れた場所から、オクタヴィアと俺たち全員を交互に見ている。
俺は巨大な人魚を見上げた。
知っている。少なくとも、俺が見た話では戻らなかった。杏子やまどかがどれだけ呼びかけても、最後まで元のさやかには戻らなかった。
でも、それはこの世界でも同じなのか。
◇
「さやかちゃん! 一緒に帰ろう!」
まどかがもう一度名前を呼んだ時、流れていた音楽が僅かに弱くなり、オクタヴィアの剣を持つ腕もほんの一瞬だけ止まった。
「……え?」
全員の動きが止まる。
「さやかちゃん……?」
まどかの声が震える。
杏子は顔を上げ、そのまま一歩前へ出た。
「ほら。聞こえてんじゃねえか」
「佐倉さん」
マミさんが小さく呼んでも、杏子は止まらなかった。
「まだ何も試してねえだろ」
今度は俺を見る。
「なあ。お前、何か知ってんだろ。戻せねえって決まったわけじゃねえんだろ?」
急に刺さった。
俺の知っている話では戻らなかった。でも今、目の前で反応した。
「……分からない」
それしか言えなかった。
「なら、試すぞ」
杏子はオクタヴィアへ向き直った。止める権利は、俺にはなかった。
◇
「さやか! お前、聞こえてんなら返事しろ!」
杏子が叫ぶ。それでもオクタヴィアは動かない。
「ほら……また喧嘩しようぜ」
その瞬間、剣が止まり、巨大な車輪も一つ、軋みながら回転を止めた。
杏子の表情が変わる。
「聞こえてる。絶対聞こえてる」
今度は確信するように言った。
まどかも一歩前へ出る。
「さやかちゃん、帰ろう。学校も、みんなも、まだいるよ」
マミさんの唇もようやく動いた。
「……美樹さん。帰ってきなさい」
誰も撃たないし、誰も斬らない。ただ、名前だけを呼び続けた。
◇
次の瞬間、オクタヴィアが暴れた。
巨大な剣と車輪が一斉に動き、水が舞台を叩く。マミさんのリボンがまどかの身体を引き、杏子は鎖と槍で足元を拘束した。
「スペッキオ・ファントム!」
俺は認識をずらして迫っていた車輪の軌道を横へ外し、ほむらは盾を動かして一瞬だけ姿を消す。次に見えた時には、まどかの身体は刃の軌道の外へ移されていた。
誰も殺すためには攻撃しない。守り、止め、逸らしながら、ただ呼びかけるための時間を稼いでいる。倒してしまうより、その方がずっときつかった。
◇
「大人しくしろ! 話聞け!」
杏子の鎖がオクタヴィアへ巻きつき、魔女が身体を捻るたびに金属が軋む。
「馬鹿! 戻ってこい!」
まどかも続けて名前を呼んだ。
「さやかちゃん!」
その声に反応するように音楽が一瞬だけ変わり、マミさんが目を見開く。
「今……」
まどかも顔を上げた。
「今、変わったよね?」
誰も否定できなかった。本当にさやかの意識が残っているのか、それとも、ただ魔女が刺激へ反応しただけなのか。それは分からない。
でも今は、前者を信じたかった。
◇
「ほら! 分かってんだろ! お前は美樹さやかだ!」
杏子がさらに声を張り、槍を地面へ突き立てる。
オクタヴィアの動きが、ほんの少し鈍った。
まどかは涙を浮かべながら、それでも笑おうとしていた。
「さやかちゃん。私だよ、まどかだよ」
マミさんもマスケットを少し下げる。
「戻れるわ。きっと……」
自分へ言い聞かせるような声だった。
それを聞いて、俺まで思ってしまう。
『今回なら』
知っているのに。
◇
突然、オクタヴィアの剣がまどかへ向いた。
「鹿目さん!」
マミさんのリボン、俺のスカンビオ、杏子の槍、そしてほむら。全員がほとんど同時に動き、まどかの身体をどうにか刃の軌道から外す。
「まどか!」
「大丈夫!」
杏子は無事を確認すると、すぐにオクタヴィアへ視線を戻した。
「違う。今のは魔女の方だ。さやかじゃねえ」
まどかを殺そうとするさやかなんて認められないのだろう。だから必死に、さやかと魔女を分けようとしている。
◇
「一度魔女になった魔法少女が、元に戻った例は?」
マミさんがキュゥべえを見る。声はまだ少し震えていた。
「僕は知らない」
キュゥべえは淡々と答える。
「例がねえだけだろ!」
杏子がすぐに睨む。
「そうだよ。可能性がゼロだと証明されたわけではない」
杏子は一度息を吐くと、槍を握り直した。
「なら、戻す」
迷いはなかった。
◇
呼びかければ一瞬だけ止まり、その直後にはまた暴れ出す。それを何度も繰り返した。
少し反応すれば希望が見え、その次には攻撃が来る。誰かが傷ついても、誰一人として殺すための一撃を出さなかった。
マミさんのリボンが切れ、杏子の鎖が弾かれる。俺もスカンビオを使うたびに魔力を削られ、ほむらは何度も時間を止めて致命傷だけを避けていた。まどかの声は、もう掠れている。
「さやかちゃん! お願い! 戻ってきて!」
それでも戻らない。
◇
「……もう、やめませんか」
ほむらが小さく言った。
「黙ってろ!」
杏子が振り返る。
「まだ反応してる!」
まどかも首を振った。
ほむらは一瞬だけ唇を結び、視線を落とした。それでも、もう一度オクタヴィアを見る。
「……でも、反応しているだけかもしれません」
「何だと?」
「戻るような変化は……今のところ、ありません」
「分かんねーだろ!」
「分かりません!」
思ったより大きな声が出たのか、ほむら自身が僅かに肩を揺らした。
「……分からないです。でも、このままだと、誰かが死にます」
最後だけは、まどかを見て言った。
◇
「嫌だ! だったら、もっと呼べばいい! さやかちゃんが聞こえるまで――」
まどかが言い切るより先に、オクタヴィアの車輪が飛んだ。
マミさんがまどかを抱えて避け、そのすぐ横を巨大な車輪が通り抜ける。結界の壁が大きく抉られ、杏子も弾かれたが、槍を地面へ突き立ててどうにか踏みとどまった。俺の腕にも刃が掠る。
オクタヴィアの攻撃は止まらない。呼びかけるたびに一瞬だけ反応するのに、元のさやかには戻ってこない。
◇
「杏子」
俺が呼ぶ。
「何だよ!」
「……このままじゃ」
「言うな!」
「でも!」
「言うなっつってんだろ!」
もう分かっているのだと思う。分かっているからこそ、聞きたくない。
「まだ、さやかはいる」
杏子が槍を持ち上げた直後、オクタヴィアの腕が横薙ぎに振るわれ、その身体を壁へ叩きつけた。
「杏子ちゃん!」
それでも杏子は槍を杖代わりにして立ち上がり、口元の血を拭う。
「まだ……終わってねえ」
◇
俺はオクタヴィアを見た。
この魔女も、その結末も知っている。それなのに俺まで、ここまで来れば何か変わるんじゃないかと期待していた。
『……今回なら』
でも、何度呼んでも戻らない。反応しても、それ以上にはならない。
ほむらが盾へ手を掛ける。
「マミさん」
俺が呼んでも、マミさんはオクタヴィアを見たまま返事をしない。
「……巴さん」
ほむらも呼んだ。声は強くない。むしろ、返事を待つような響きが残っていた。
ようやくマミさんは一度だけ目を閉じ、それからゆっくり開いてマスケットを握り直した。
「……鹿目さん。少し下がっていて」
「マミさん……?」
「お願い」
声は震えていた。それでも、銃口は今度こそ上がった。
◇
「嫌だよ。まださやかちゃんが――」
まどかが首を振る。
「鹿目さん」
マミさんの声は優しかった。それが余計に苦しい。
「私だって、戻ってきてほしいわ」
一度だけ唇を噛み、マスケットを構える。
「でも、このままみんなまで傷つけさせるわけにはいかない」
杏子は何も言えず、ただ槍を握る手だけを震わせていた。
◇
ほむらも盾へ右手を入れた。
取り出したのは、黒い拳銃だった。
『……それまで入ってんのかよ』
盾と時間停止までは俺も再現した。でも、その中に何を持っているのかまでは知らない。
「……お前、そんなのまで持ってんのかよ」
杏子も気づいたらしい。
ほむらは一瞬だけ杏子を見て、それから手元の拳銃へ視線を落とした。
「え……その、必要になるかもしれないと思って」
「だからって普通、銃は持ち歩かねーだろ」
「……今は、それどころじゃないでしょう」
言い返したものの、最後だけ少し声が小さくなった。
杏子が何か言い返そうと口を開く。その前に、ほむらは盾へ手を掛けて姿を消した。
一瞬後、オクタヴィアの腕へほとんど同時に銃弾が食い込み、巨大な剣の軌道が僅かに落ちる。
「今です!」
マミさんのリボンと杏子の槍が動き、俺もスカンビオで攻撃の認識を逸らした。
それでも別の車輪がまどかへ飛ぶ。
「鹿目さん!」
ほむらが盾へ手を入れ、今度はショットガンを引き抜いた。
「えっ、それも!?」
杏子の声に構う余裕もなく、ほむらは反動を受け止めるように足を踏ん張って引き金を引いた。
轟音とともに車輪が横へ弾かれ、結界の壁へ激突する。
「……お前、本当に何でも出てくんな」
ほむらは少し困ったように眉を寄せた。
「わ、私だって好きで集めてるわけじゃありません」
「そこじゃねーよ」
「……じゃあ、どこですか」
「もういい!」
杏子が槍を構え直す。
こんな状況なのに、一瞬だけ普段のやり取りみたいなものが戻った。
俺はその横で、ほむらの盾を見ていた。
能力は借りられる。
でも、その人が積み重ねてきたものまでは借りられない。盾の中に何を入れ、どう使い分け、どの距離なら何を選ぶのか。俺が成り代わった時には知らなかったものが、まだいくらでもある。
◇
「……さやか」
杏子が最後にもう一度呼ぶ。
「聞こえてるなら、戻ってこい」
オクタヴィアは答えず、巨大な剣を振り上げた。
「……くそ」
杏子は俯いたが、次に顔を上げた時には槍を構えていた。
「殺すんじゃねえ。……止めるだけだ」
誰に言い聞かせているのかは分からなかったが、誰も否定しなかった。
◇
マミさんのリボンが伸び、オクタヴィアの腕を拘束する。
「今よ!」
杏子が鎖を絡め、槍を地面へ突き立てて脚を止めた。俺も認識をずらし、振り下ろされた剣の軌道を横へ逸らす。
ほむらは拳銃を両手で構え、一発、二発と腕へ撃ち込んだ。射撃のたびに肩へ力が入っている。慣れてきたとはいえ、最初から銃を扱ってきた人間の動きではない。
それでも狙いは外さない。
使い魔が飛び込んでくると、一瞬だけ迷ってからショットガンへ持ち替えた。反動に身体を持っていかれかけながらも踏みとどまり、二体まとめて吹き飛ばす。
マミさんとは違う。
マスケットを自在に増やし、最初から自分の武器として戦うマミさんに対して、ほむらは自分に足りないものを一つずつ拾い集めている。
不格好なところはまだある。
でも、それでも生き残るために覚えてきた戦い方だった。
◇
オクタヴィアが拘束を破った。
「来る!」
俺と杏子が横へ跳び、マミさんがまどかの前へ入る。その瞬間、ほむらの盾が動き、世界から音が消えた。
オクタヴィアも、飛び散った水も、剣も止まる。
ほむらは一度大きく息を吐いてから拳銃を構え、次にショットガンを置く。何度か位置を確かめながら、一つずつ攻撃の準備を整えていった。
途中で手が止まる。
動かないオクタヴィアを見上げて、ほんの少しだけ俯いた。
「……ごめんなさい、美樹さん」
時間の止まった世界では、誰にも届かない声だった。
ほむらは眼鏡の位置を直し、盾へ手を掛ける。
次の瞬間、時間が動き出した。
拳銃とショットガン、マミさんのマスケット、杏子の槍、俺の刀が一斉に動く。
◇
光と衝撃の中で音楽が歪み、巨大な車輪の一つが砕けた。人魚の身体が揺れても、オクタヴィアはなお剣を振るう。
「まだ!」
杏子が叫び、槍を突き立てる。マミさんの銃撃と俺の刀、ほむらの拳銃が続き、鎖とリボンもさらに締まっていった。
「暁美さん!」
「は、はい!」
マミさんに呼ばれ、ほむらが慌てるようにショットガンを構え直す。
照準を合わせ、息を止める。
轟音。
その最後まで残ったのは、まどかの声だった。
「さやかちゃん――!」
オクタヴィアの身体が止まった。
音楽が途切れ、握っていた剣が落ちる。巨大な人魚の身体も少しずつ崩れ始めた。
「……さやか」
杏子が呟く。
返事はなかった。
舞台も、水も、車輪も薄れていき、やがて結界そのものがほどけていった。
◇
現実へ戻ると、夜の街は異様なくらい静かだった。誰もすぐには動けない。
まどかがさやかの身体のそばへしゃがみ、その肩へ手を置く。
「さやかちゃん……」
何も起きなかった。
あの時は、身体から離された青いソウルジェムを戻せば、さやかは目を開けた。今回は違う。戻すべき青い宝石そのものが、もうどこにもない。
杏子も近づいてきたが、何も言わなかった。
ほむらは少し遅れて拳銃を下ろした。盾へ戻そうとして一度手を止め、空になった薬室を確かめてから、拳銃とショットガンを順番に仕舞っていく。
その動きは手慣れてきている。それでも、まだどこかぎこちなかった。
俺はその左腕を見ながら、自分がほむらへ成り代わった時には知らなかったものが、まだいくらでもあるのだと思った。
その時、小さな音がした。
何かが地面へ落ち、僅かに転がる。
黒いグリーフシードだった。
さやかのソウルジェムだったものが魔女になり、倒された末に残ったもの。
全員がそれを見ていた。
誰も拾わなかった。