誰も、グリーフシードを拾わなかった。
さっきまで人魚の魔女がいた場所から少し離れた地面に、黒い小さな塊だけが残されている。結界が消えた後の夜は妙に静かで、遠くを走る車の音すら、今は自分たちとは関係のない場所で起きている出来事みたいに聞こえた。
まどかはさやかの身体のそばに膝をつき、肩へ置いた手を動かさない。杏子も少し離れた場所で槍を下ろしたまま立ち尽くしている。さっきまで何度も名前を呼び、魔女になったさやかへ戻ってこいと叫び続けていたのに、今は声すら出なかった。
ほむらは盾へ手を添えたまま、浅い呼吸を繰り返している。オクタヴィアとの戦いでは何度も時間を止め、拳銃もショットガンも使った。その疲労だけではない。眼鏡の奥の目は、目の前で起きたことをまだ受け入れ切れずに揺れていた。
俺も似たようなものだった。知っていたはずなのに、戻せなかった。
原作では駄目だった。それでも今回は違うかもしれないと思っていた。マミさんがいて、杏子もいて、ほむらもいて、俺までいる。さやか自身だって、魔法少女が最後にどうなるのかを知っていた。
前より条件は良かったはずだ。それなのに結局、戻ってこなかった。
そんな中で、マミさんだけが立っていた。何かを確かめるように視線が動いていく。さやかの身体。地面へ転がったグリーフシード。その少し先にいるキュゥべえ。そして最後には、自分の胸元へ落ちた。
◇
「……私も、いつかああなるの?」
ひどく小さな声だった。
誰に尋ねているのか分からないまま、マミさんは自分のソウルジェムへ指先を添える。確かめるように宝石の表面を親指でなぞり、それからようやくキュゥべえを見た。
否定してほしいように見えた。
「ソウルジェムが限界まで濁ればね」
キュゥべえはいつもの声で答える。慰めるでも、責めるでもない。ただ聞かれたことへ、そのまま答えただけだった。
「……そう」
マミさんの指が止まる。
すぐには顔を上げず、胸元の宝石を見つめたまま浅く息を吸って、吐いた。それでも足りないようにもう一度吸い込み、ようやく言葉を続ける。
「でも……グリーフシードがあれば、浄化できるのよね?」
「限界へ達する前ならね」
「じゃあ……ちゃんと気をつけていれば」
そこで声が弱くなった。
視線の先には、さやかだった魔女が残したグリーフシードがある。
気をつけていたはずだった。ソウルジェムの濁りをこまめに確認するように言った。無理をしないよう何度も止めた。杏子も自分のグリーフシードまで差し出した。それでも、間に合わなかった。
「美樹さんは……知っていたのに」
誰へ向けるでもなく呟く。
「自分が最後にどうなるのかも知っていた。それでも……」
「マミ」
杏子が呼ぶ。
けれど、マミさんはすぐには反応しなかった。
「私も知っていた。暁美さんから聞いて、キュゥべえにも確認して……それなのに、何もできなかった」
「マミさん……」
まどかが立ち上がりかける。
その声に、ようやくマミさんが顔を上げた。
まどかを見る。
次に杏子。
ほむら。
最後に俺。
一人ずつ見ながら、その視線が胸元のソウルジェムへ落ちていく。
「……みんな、同じなのよね」
「巴さん」
ほむらの声が僅かに震えた。
「今すぐそうなるわけではありません。グリーフシードもありますし……みんなで気をつければ、今度は――」
「でも、美樹さんも一人じゃなかったでしょう?」
ほむらの言葉が止まった。
マミさん自身も、言ってから傷ついたように目を伏せる。
「……ごめんなさい。暁美さんを責めたいんじゃないの。ただ……」
唇が震えた。
「私たち、あの子を探したわ。助けようとした。グリーフシードだって使った。それでも、駄目だった」
杏子が槍を握り直した。
「だからって、全員そうなるって決まったわけじゃねえだろ」
「……そうね」
マミさんは小さく頷いた。
一瞬だけ、その言葉へ縋ったように見えた。
「そうよね。決まったわけじゃ……」
そこでまた、足元のグリーフシードが視界へ入る。
言葉が止まった。
「……でも、もし」
「マミ?」
「もし次は、私だったら?」
マミさんは杏子を見る。
「もし佐倉さんだったら。暁美さんだったら。鹿目さんだったら……」
そして最後に俺を見る。
「マギカさんだったら?」
俺の胸元にある二つの宝石へ、視線が止まる。
成り代わり。スペッキオ。スカンビオ。
マミさんが俺の能力をどこまで理解しているかは分からない。それでも、普通の魔法少女とは違うものを抱えていることくらいは知っている。
「その時も……私たちは今みたいに、戻せるかもしれないって言いながら戦うの?」
誰も答えられなかった。
「それで最後には……自分たちで殺すの?」
「そんな言い方……」
まどかが首を振る。
「だって、そうでしょう?」
マミさんの声が少しだけ強くなった。
怒っているわけではない。
怖がっている。
「魔女になったら、もう戻せない。放っておけば人を襲う。だったら誰かが倒さなきゃいけない。今の私たちには、それしかできないんでしょう?」
「巴さん、まだ方法がないと決まったわけでは――」
「あるの?」
「……え?」
ほむらが息を詰める。
マミさんは縋るように彼女を見た。
「元に戻す方法、知っているの?」
「それは……」
ほむらの口が開く。
けれど続かない。
その顔に浮かんだ困惑と怯えを見て、マミさんは今度は俺へ視線を向けた。
「マギカさんは?」
喉が詰まった。
「あなたは……色々なことを知っているのでしょう? 魔女にならない方法も、美樹さんを元に戻す方法も……何か知っているんじゃないの?」
「……」
確実な方法なんて知らない。
ただ、魔法少女の願いなら、この仕組みそのものへ触れられる可能性はある。願いは、人の身体を治したり、常識では届かないところまで現実を書き換えたりする。
けれど、それは「誰かが願えば何とかなる」という話じゃない。どんな願いなら届くのか、誰ならそれを叶えられるのか、今の俺には分からなかった。
「……方法が、ないとは言い切れない」
マミさんの目が僅かに動く。
「なら――」
「でも、今すぐ使える方法じゃない。少なくとも、俺はまだ分からない」
そこまで言うのが精一杯だった。
俺自身の願いで何かできるのかもしれない。別の魔法少女の願いなら、もっと大きなところへ届くのかもしれない。
けれど全部、まだ「かもしれない」だ。
目の前のさやかを戻せなかった以上、胸を張って答えられるものは何一つなかった。
マミさんの表情が、少しずつ沈んでいく。
「……そう」
笑おうとしたように見えた。
けれど、唇は歪んだだけだった。
「今は、ないのね」
「……」
「だったら……」
声が震える。
何かを言おうとして息を吸ったのに、喉の奥で引っかかり、肩だけが小さく揺れた。
「だったら、どうすればいいの……?」
初めて、完全に後輩へ助けを求める声だった。
まどかも、ほむらも、杏子も、すぐには答えられなかった。
俺も何も言えない。
数秒にも満たない沈黙だったと思う。
けれどマミさんには、それが答えに聞こえてしまった。
「……ひっ……」
すすり泣く声が漏れる。
「ソウルジェムが……魔女を生むなら……」
涙が頬を伝った。
「私たちが生きてる限り、また誰かがああなるなら……」
「マミ、やめろ」
杏子の声が低くなる。
それでもマミさんは止まらなかった。
「……みんな」
一度、声が途切れる。
息を吸おうとしても上手くいかず、肩が何度も小さく震えた。それでも最後には顔を上げ、泣き腫らした目で俺たちを見る。
泣き声の混じった叫びだった。
言い切ったあと、マミさん自身が一番傷ついたような顔をした。それでも、その結論から目を逸らさなかった。
「魔女になる前に……私たちのままで終わらせるしかないのよ」
◇
「マミ……?」
杏子の声が変わった。
さっきまで下げていた槍を持ち上げながら、距離を詰めようと一歩だけ踏み出す。
「何言ってんだよ。おい、ちょっと待てって。今のお前、自分でも何言ってるか――」
「ごめんなさい、杏子」
黄色いリボンが走った。
「――っ!」
杏子の手首へ巻きついたリボンが腕を外側へ引き、身体の正面を無理やり開かせる。杏子が槍を引き戻そうとした時には、もうマミさんのマスケットが胸元へ向いていた。
「マミ、待――」
赤いソウルジェムが砕け、細かな光が杏子の胸元から散る。
魔法少女の衣装も長槍も赤い粒になって消えた。杏子は何が起きたのか理解できないまま目を見開き、マミさんを見た。
「……マ、ミ……?」
声になったのは、それだけだった。
次の瞬間には全身から力が抜け、その身体が前へ崩れ落ちる。
「杏子ちゃん……?」
まどかの掠れた声が聞こえた。
俺も動けなかった。杏子が倒れたことは見えているのに、頭がそこへ追いつかない。
マミさん自身も、撃った直後には息を止めていた。
マスケットを持つ手が震える。
「……ごめんなさい」
倒れた杏子を見下ろしながら、もう一度呟く。
「杏子……ごめんなさい……」
泣いている。
それなのに、銃は下ろさなかった。
◇
赤い宝石が砕けた光がまだ目に残っていた。
その光景を見た瞬間、頭の奥で何かが噛み合う。
真実を知ったマミさん。拘束される仲間。砕かれるソウルジェム。
待て。
これを、俺は知っている。
この後――。
「巴さん……?」
少し離れたところで、ほむらが息を呑んだ。
杏子からマミさんへ視線を移したまま、すぐには動けずにいる。顔色は真っ白になり、盾へ伸ばしかけた指さえ途中で止まっていた。
「どうして……こんな……」
声が震えている。
けれど、マミさんが次にこちらへ視線を向けた瞬間、ほむらははっと息を吸った。
「……っ!」
ようやく盾へ手を伸ばす。
「巴さん、待ってください! こんなことをしても、美樹さんが戻るわけじゃ――」
最後まで言えなかった。
黄色いリボンがほむらの左腕へ巻きつき、盾ごと上へ引き上げる。
「きゃっ……!」
背中が壁へ叩きつけられ、続けて両腕と腰へリボンが絡みつく。ほむらは慌てて身体を捩ったが、力を入れるほど拘束が食い込むだけだった。
「や、やめて……巴さん! お願いです、少しだけ落ち着いてください!」
「ごめんなさい、暁美さん」
マミさんは涙を流したまま首を振った。
「あなたを自由にしておいたら、時間を止めて私を止めるでしょう?」
「それは……そうですけど……だからって!」
ほむらは言葉に詰まり、それでも俯かなかった。眼鏡の奥の目には涙が浮かび、声も震えている。
「怖いのは分かります。私だって……私だって怖いです。でも、だからって今ここでみんなを殺すなんて、そんなの絶対に違います!」
普段なら途中で萎んでしまいそうな声だった。それでも最後まで言い切った。
マミさんの表情が僅かに歪む。
「ごめんなさい」
返ってきたのは、またそれだけだった。
壊れている。
それなのに、戦い方だけはいつものマミさんのままだ。
時間停止に使う盾ごと封じ、ほむらが動きにくい角度を選んで拘束している。泣いているのに、相手の能力を潰す手順には迷いがない。
背中が冷えた。
「まずい!」
ようやく刀へ手を伸ばした瞬間、足首へ何かが巻きついた。
「っ!」
強く引かれて体勢を崩したところへ、二本目、三本目のリボンが飛んでくる。腕、胴、肩へ食い込み、刀を握った手まで身体へ押しつけられた。
「マギカ!」
まどかが叫ぶ。
「動くな! マミさん、待て!」
リボンへ力を込めても、ほとんどびくともしない。
マミさんはもう、俺を見ていた。
◇
「マギカさんも……ごめんなさい」
その顔が苦しそうに歪む。
「待てって!」
「あなたは……特に危ないもの」
視線が俺の胸元へ落ちた。
何を考えたのかは分かった。
俺が魔女になった時、スペッキオやスカンビオだけで済む保証なんてない。成り代わりまで歪んだ形で残ったら、何になるのかは俺自身にだって分からない。
「違う! 魔女になる前に全員殺すなんて、それこそおかしいだろ!」
「でも……」
「少なくとも、何も方法がないって決まったわけじゃない!」
「さっき言ったでしょう」
マミさんは涙を拭おうともせず、俺を見る。
「今は分からないって」
「だから探せばいい!」
「その間に、また誰かが美樹さんみたいになったら?」
すぐには返せなかった。
「私、もう見たくないの」
マミさんは首を振る。
「誰かが魔女になって、それをみんなで殺すなんて……もう嫌なのよ」
◇
「そんなの……そんなのおかしいよ!」
まどかが立ち上がった。
「鹿目さん……」
「さやかちゃんだって、死にたくて魔法少女になったんじゃない! 杏子ちゃんだって!」
「分かってる!」
マミさんの声が初めて大きくなった。
自分でも驚いたように口元を押さえる。
「……分かってるわ」
今度は掠れた声だった。
「分かってるから……これ以上、誰にも同じことをさせたくないの」
倒れている杏子、拘束されたほむら、それから俺を、一人ずつ確かめるように見た。
「誰も魔女にしないためよ」
「巴さん……」
ほむらがもう一度身体を動かす。リボンが食い込み、痛みに顔を歪めても諦めなかった。
「お願いです。今なら、まだ止められます。私たち、巴さんと戦いたいわけじゃありません……!」
「でも、私を止めるでしょう?」
ほむらは一瞬黙った。怯えたように目を伏せかける。
それでも、次には顔を上げた。
「……止めます」
自分でも驚いたように目を見開いた。
けれど言い直さない。
「止めます。だって……こんなの駄目です。佐倉さんまで殺して、それでみんなを助けたことにはなりません!」
声は震えている。
でも、もう引っ込めなかった。
マミさんの目から、また涙がこぼれた。
「ごめんなさい」
ほむらも目に涙を浮かべたまま、必死に首を振る。
「それで全員殺して……最後にあなたも死ぬつもりですか」
「ええ」
返事は早かった。
まどかの顔から、さっと血の気が引く。
「そんな……」
マミさんは、そんなまどかを安心させようとするみたいに、泣き腫らした顔で笑った。
その言い方が、余計に怖かった。
◇
マミさんの視線が、もう一度俺へ戻る。
正確には、胸元に並んだ二つの宝石へ。
銀色と、ほとんど透明に近いもう一つ。
一度だけ見比べた後、銃口が銀色へ向いた。
俺自身もそう思った。
銀色の宝石は、変身するたびに反応した。刀を使った時も、スペッキオやスカンビオを使った時も、成り代わった時も。
だからずっと、それが俺のソウルジェムだと思ってきた。
「マミさん」
声を出した瞬間、自分でも分かるくらい掠れていた。
「……待って」
喉が乾いている。
何度も死ぬような目には遭った。誰かを庇って、自分が消えてもいいと考えたことだってある。
でも、自分から前へ出るのと、目の前の相手に「お前は危険だから死んだ方がいい」と決められるのは、まるで違った。
銃口の先に自分の魂がある。
そう思った途端、それがどうしようもなく怖くなった。
「待って。マミさん」
リボンへ力を込める。
動かない。
◇
「マミさん……やめて!」
まどかの手元に光が集まり、ピンク色の弓が形を取った。
俺は何も言っていない。戦えとも、撃てとも頼んでいない。
「鹿目さん……」
マミさんが振り向く。
「やめてよ……もう誰も殺さないで!」
まどかは涙を拭おうともせず、震える指で弦を引いた。
マミさんの眉尻が下がる。
「ごめんなさい。でも、ここで止めたら……また誰かが魔女になってしまうでしょう?」
「そんなの分からないよ!」
「分からないから、怖いのよ」
その言葉だけは、すぐに返ってきた。
声がまた震え、涙も止まっていない。それでもマミさんは銃口を下ろさず、もう一度俺の胸元へ向ける。
「誰が次になるのかも分からない。いつなのかも分からない。助けられるかどうかも分からない。それなのに……また同じことが起きるまで待つなんて、私にはできない」
「マミさん……」
「だから……もう終わらせるしかないの」
「マミさん!」
「やめて!」
まどかの声と、引き金へ掛かった指が重なった。
◇
「……え」
何が起きたのか理解するより先に、身体を包んでいた魔力が消えた。
魔法少女の衣装がほどけ、刀も光になって消えていく。リボンへ抗うために流していた力まで、根元から抜き取られたみたいに失われた。
スペッキオを使おうとしても何も起きない。スカンビオも、成り代わりも、そこにあったはずの感覚ごと消えている。
膝から力が抜けた。リボンに吊られていなければ、そのまま地面へ崩れていたと思う。
痛いのかどうかも、よく分からない。
胸を撃たれたというより、もっと深いところを急に切り離されたような感覚だった。身体と自分の間にあった何かが、そこだけ綺麗になくなっている。
視界の端で、ピンク色の光が走った。
まどかの矢だ。
どこへ飛んだのか、何に当たったのかは見えなかった。マミさんも、壁に拘束されたほむらも、倒れた杏子も、輪郭から少しずつ滲んでいく。
ソウルジェムは魂そのものだ。
その本体を、今、撃ち砕かれた。
少し遅れて、その意味が頭まで追いつく。