その場に三人を残していく、という選択だけはできなかった。
さやかも、杏子も、マミさんも、もう動かない。それでも、このまま人目につく場所へ置いておけば、朝になる前に誰かに見つかる。警察が来て、学校や家族へ連絡が行って、その先で何を説明すればいいのか、今の俺たちには何一つ答えがなかった。
「……マミさんの部屋へ連れていこう」
口にすると、まどかがゆっくり顔を上げた。
「三人とも……?」
「ああ。少なくとも、ここに置いていくよりはいい」
ほむらも倒れた三人へ視線を向けた。しばらく何も言わなかったが、やがて小さく頷く。
マミさんは以前、魔法少女仲間に何かあった時のためにと、自宅の合鍵を渡していた。まさか本人をそこへ連れて帰るために使うことになるなんて、その時は誰も考えていなかったけれど。
問題は、三人の身体だった。
「鹿目さん、ほむら。少しだけ魔力を使えないか」
「魔力……?」
まどかがさやかを見る。
「治すんじゃない。身体の状態がこれ以上変わらないようにするだけだ。完全に止められるわけじゃない。でも、しばらくなら状態は保てるはずだ」
「どうすれば……」
ほむらが不安そうに聞く。
「難しいことはしなくていい。魔力を薄く、身体の表面に留める感じでいい」
言いながら、自分では何もできないことが妙に引っかかった。少し前までなら俺も一緒に試せたはずなのに、今は二人へ頼むしかない。
まどかはさやかのそばへ膝をつき、頬へ触れようとして指を止めた。
「……痛くない?」
「もう、痛くはないと思う」
それ以外の答えが思いつかなかった。
やがてまどかの手から淡い桃色の光が広がり、さやかの身体を薄く包む。少し離れたところでは、ほむらも杏子とマミさんへ慎重に魔力を流していたが、一度、光が途切れた。
「あ……」
「大丈夫。もう一回、ゆっくりでいい」
「は、はい……」
ほむらは息を整え、もう一度手をかざす。今度は弱い光が途切れずに残った。
傷を塞ぐわけでも、命を戻すわけでもない。ただ、身体に残された状態を崩れにくくするための薄い膜を作るようなものだった。
「これで……いいんでしょうか」
「たぶん。少なくとも、すぐにどうこうなることはないはずだ」
断言はできなかった。でも、何もしないよりはずっといい。
◇
三人をマミさんの家まで運ぶのは、思っていたよりずっときつかった。
魔法を使えるまどかとほむらが支え、俺もできる範囲で手を貸す。普段なら魔法で簡単に運べたのかもしれないけれど、今の俺には普通の腕しかない。その重さが、嫌でも現実だった。
マミさんの家へ着くと、まどかが合鍵を取り出した。けれど、ドアノブへ伸ばした手は途中で止まる。
「……入って、いいのかな」
誰もすぐには答えられなかった。ここはマミさんの家だ。その本人は、今、俺たちのすぐ後ろにいる。
ほむらが眼鏡の位置を直し、少し迷ってから口を開いた。
「……入りましょう」
最初に言いかけた言葉を飲み込んだような間があったが、今度は少しだけはっきりしていた。まどかはほむらを見て、それから鍵を差し込んだ。
◇
まず三人を寝室へ運んだ。
ベッドを空け、足りない分はその横へ毛布を敷く。マミさんをベッドへ寝かせ、その近くへさやかと杏子を横たえた。三人とも目を閉じていれば、眠っているだけにも見える。
そう思った瞬間、俺は視線を逸らした。もちろん、眠っているわけじゃない。
まどかはさやかの乱れた髪を指先で整え、ほむらはマミさんの衣服を直した。杏子の腕が毛布から落ちかけると、俺がそっと上へ戻す。
誰も「死体」という言葉を使わなかった。
三人を残して寝室の扉を閉じ、そこで初めてリビングへ向かう。
「……とりあえず、座ろう」
誰も家へ帰る気にはなれなかった。
◇
電気を点けると、部屋はあまりにも以前と同じだった。
テーブルも椅子も、ティーポットも、棚に並んだ菓子も何一つ変わっていない。マミさんがほんの少し出掛けていて、待っていればそのうち帰ってくるようにすら見える。
なのに、聞こえるのは冷蔵庫の低い駆動音だけだった。
杏子が勝手に菓子へ手を伸ばす音も、それを見たさやかが何か言う声もない。マミさんの呆れた注意も、まどかの笑い声も、ほむらが少し遅れて会話へ入る声も聞こえない。部屋そのものは何も変わっていないのに、前よりずっと広く感じた。
『……静かだな』
こんなに静かな部屋だっただろうか。
◇
「お茶……淹れようか」
不意にまどかが立ち上がった。たぶん、何かしていたかったのだと思う。
「私も手伝います」
ほむらも続いて立つ。俺は止めなかった。
二人でキッチンへ入り、棚を探す。マミさんなら迷わず取り出せたはずの茶葉を、まどかは一度違う場所から探した。
「こっちじゃ……」
「あ、そっちです」
「ほむらちゃん、分かるの?」
「前に、巴さんが……」
そこまで言って、ほむらの手が止まった。
「……教えてくれました」
「そっか」
まどかはそれ以上何も言わず、やがてカップを取り出し始める。三つ並べたところでも手は止まらなかった。
四つ、五つ、六つ。
六つ目を置いてから、ようやくまどかの動きが止まった。
誰も何も言わない。ほむらが一つを手に取り、無言で棚へ戻す。俺もその隣の一つを取った。
最後に残った余分なカップを、まどかが両手で持ち上げる。しばらく見つめてから、ゆっくり元の場所へ戻した。
テーブルには三つだけが残った。
◇
席にも困った。
いつの間にか、みんな何となく座る場所が決まっていたらしい。マミさんの席にも、杏子がよく座っていた場所にも、さやかの場所にも、誰も座ろうとしなかった。
結局、三人ともテーブルの片側へ少し寄るように腰を下ろした。
俺は向かい側の空いた椅子へ目をやる。
『……馬鹿』
誰に向けたのか、自分でも分からない。杏子かもしれないし、マミさんかもしれない。さやかかもしれない。あるいは、俺も含めて全員かもしれなかった。
◇
まどかが淹れたお茶は、少し濃かった。
一口飲んだ本人がすぐに気づき、カップを見下ろす。
「……ごめん。あんまり上手くできなかった」
「そんなこと……」
ほむらも一口飲み、ほんの一瞬だけ止まった。
「……おいしいです」
まどかが顔を上げる。
「ほんと?」
「はい」
少し間が空いた。
「……少し濃いですけど」
「あ」
まどかの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「やっぱり?」
「でも、おいしいです」
「そっか」
笑顔はすぐに消えてしまった。それでも、一瞬だけちゃんと笑った。
◇
「明日……」
しばらくして、まどかが両手でカップを包み込んだ。
「学校……どうしたらいいんだろ」
その言葉だけで、教室の光景が浮かぶ。さやかの席。先生も、仁美も、クラスのみんなも何も知らない。
「明日、さやかちゃんの席……空いてるんだよね」
まどかの視線がカップへ落ちる。
「マミさんもいない。杏子ちゃんも……」
水面が小さく揺れた。
「こんなの……嫌だよ」
泣き叫ぶことすらなく、まどかは小さな声で呟いた。その静かさの方が、さっきまでの涙より重く感じた。
「もう……どうしたらいいのか、分かんないよ……」
ほむらが何か言おうとして口を開く。でも、「大丈夫です」とは言わなかった。カップを持つ指は、ほむら自身も僅かに震えている。
「ほむらちゃんは……」
まどかが顔を上げた。
「怖くないの?」
◇
ほむらはすぐには答えなかった。眼鏡の奥の目が揺れる。
「……怖いです」
小さな声だった。
「私も、怖いです。また誰かがいなくなるのも……私が、何もできないままなのも」
言葉を重ねるほど声は小さくなっていく。それでも、最後まで誤魔化さなかった。
「怖いです」
まどかが少しだけ驚いたように見る。
「……そっか。ほむらちゃんも、怖いんだ」
「はい」
ほむらは小さく頷くと、少しして椅子を引き、まどかの隣へ移った。近くまで行ったのに、まだ少しだけ距離を残している。
「私が……鹿目さんを……」
そこまで言って、ほむらは止まった。自分で何か違うと思ったらしい。
「……違う」
「ほむらちゃん?」
膝の上で握っていた手を、ゆっくりまどかへ伸ばす。途中で一度止まったが、それでも最後には、まどかの手へ触れた。
「だから……二人で」
ほむらは一度息を吸う。
「二人で、頑張りませんか」
◇
まどかは何も言わなかった。
返事がないことに不安になったのか、ほむらが少し慌てたように顔を上げる。
「私、その……上手くできるかは分からないですけど。でも、一人じゃ……」
声が詰まった。
「一人じゃ、怖いから」
まどかは握られた手を見て、それからゆっくり握り返した。
「……うん」
涙が一つ落ちる。でも、さっきまでとは少し違う涙だった。
「一緒に……頑張ろう」
ほむらの目も潤んだ。眼鏡が少し曇り、それでもどうにか笑おうとする。
「……はい」
俺は少し離れた席から二人を見ていた。
『……そっか』
俺もいる。三人だ。そう言いたくなったけれど、口には出さなかった。
今、自分からまどかへ手を伸ばしたのはほむらだ。そこへ割って入る必要はない。
◇
しばらく誰も話さなかった。お茶は少しずつ冷めていき、まどかとほむらの手はまだ繋がったままだった。
俺の胸元には淡い金色が残っている。因果。再契約。キュゥべえの言葉も頭の片隅には残っていたけれど、今はそれより寝室にいる三人の方がずっと重かった。
「マミさん……」
まどかがふと空いた席を見る。繋いだ手に少しだけ力が入った。
「最後……怖かったのかな」
ほむらはすぐには答えず、少し俯いてから、ためらうように口を開いた。
「……たぶん。怖かったんじゃないかと、思います」
「私……マミさんを……」
その先は言えなかった。ほむらも無理に続けさせない。
「鹿目さんが止めなかったら……もっと、ひどいことになっていたと思います」
その言葉に、まどかの指が僅かに強くほむらの手を握った。
俺は考えるより先に口を開いていた。
「俺は死んでたな」
まどかの顔が歪んだ。
『あ』
遅かった。
「……悪い」
こういう時に限って、口が余計な仕事をするところだけは昔から変わらない。
「そういう意味じゃ……」
「ううん」
まどかは首を振り、涙を拭った。
「分かってる」
それでも少しだけ、また泣いた。今度は俺が黙る番だった。
◇
しばらくして、まどかがほむらと手を繋いだまま俺を見る。
「マギカちゃんも」
「ん?」
「……」
何か言われる前に、俺は先に口を開いた。
「俺は今、何もできねえからな」
魔法もない。刀も出ないし、戦える力は今の俺には残っていない。
まどかはすぐに首を振る。
「それでも、一緒にいてよ」
返事が一瞬遅れた。
何ができるのか、何の役に立てるのか。そんな考えばかりが先に出てくる。でも、まどかが聞いているのはそこじゃない。
「……ああ」
それだけ答えると、まどかはほんの少しだけ笑った。
◇
帰る前に、三人で使ったものを片づけた。
まどかがカップを洗い、ほむらが布巾で拭く。最初の一つを受け取った時、ほむらが危うく落としかけた。
「あっ」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
慌てて両手で持ち直すと、まどかが少しだけ笑った。
俺は拭き終わったカップを棚へ戻していく。魔法はない。ただ自分の手で、普通のカップを持って、普通に棚へ戻す。
今はそれでよかった。
三つのカップが片づく。使わなかった残りは、最初からそこにあったみたいに棚へ並んでいた。
◇
部屋を出る前、まどかが照明のスイッチへ手を伸ばした。
けれど一度だけ止まり、振り返る。少し前まで六人で囲んでいたテーブルには、もう誰も座っていなかった。
隣にはほむらが立っている。繋いだ手は、まだ離れていない。
俺もその少し後ろで二人を待った。
まどかが電気を消す。
扉が閉じる。
後に残った部屋は、ひどく静かだった。