――鹿目まどか視点
夕方の見滝原を、ほむらちゃんと二人で歩いていた。
駅前の賑やかな通りを抜け、住宅街へ入る。まだ帰宅途中の人も多く、買い物袋を提げた人や、自転車で走っていく学生と何度かすれ違った。ほむらちゃんは手元の地図とソウルジェムを交互に確認しながら歩いていて、曲がり角に差しかかるたびに少し足を緩めている。
さっきまで一緒だったマギカちゃんは、今頃どうしているだろう。出かける前は思っていたより普通に見送ってくれたけれど、最後に何度も気をつけろと言っていたし、私たちが出てからもずっと心配しているのかもしれない。
そう思うと、早く帰ってあげたかった。
少し前まで、魔女を探す時にはマミさんが先頭を歩いていた。杏子ちゃんが勝手に先へ行ってしまうこともあったし、さやかちゃんが何か言えばマギカちゃんが横から余計なことを返して、気づけば二人で言い合いになっていることもあった。
今は、隣を歩くほむらちゃんの足音しか聞こえない。
「あの……鹿目さん」
ほむらちゃんが足を止めた。手の中のソウルジェムが、さっきよりも強く反応している。
「この先だと思います。たぶん、もう近くまで来ています」
「うん。私も、何となく分かるよ」
視線を向けた先には、建物と建物の間を通る細い道があった。夕方なのに奥の方は暗く、人の姿も見当たらない。
「ほむらちゃん、準備は大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です」
そう答えたあと、ほむらちゃんは眼鏡を押し上げ、盾のある左腕へ目を向けた。私も一度だけソウルジェムを握り直す。
大丈夫かと聞いたのは自分なのに、私だって全然大丈夫じゃない。昨日から何度も、もう魔女と戦いたくないと思っていた。それでも、二人でここまで来た。
「……行こうか」
「はい」
ほむらちゃんが頷き、私たちは細い路地へ入っていった。
◇
結界へ足を踏み入れると、背後にあった街の音が急に遠ざかった。
代わりに、何か硬いものをゆっくり擦り合わせるような音が聞こえてくる。床は古い板張りに変わり、天井の高さもよく分からない。壁に沿って、色の褪せた紙飾りが何枚も吊るされていた。
その間を、古びた写真立てがふわふわと漂っている。
どの写真にも人らしい姿が写っていたけれど、顔の部分だけが真っ黒に塗り潰されていた。よく見ると、写真の端には子供の手や、誰かの肩に置かれた指が残っている。
床には片方だけの靴が落ち、少し離れた場所には割れた食器が散らばっていた。壁に埋まった時計はどれも針が止まっていて、さっきから聞こえている音だけが、不規則に響き続けている。
「……変わった結界ですね」
ほむらちゃんが呟いた。
「うん……」
私は近くに浮いていた写真立てへ目を向けた。何人かで並んで撮った写真らしい。顔は分からないけれど、みんな同じくらいの背丈で、肩を寄せ合っているように見えた。
昨日までなら、こういう写真があっても、ただ気味が悪いと思って通り過ぎていたのかもしれない。
「……この魔女も、昔は普通の女の子だったんだよね」
口にしてから、少しだけ後悔した。
ほむらちゃんも写真を見て、すぐには答えなかった。
「……はい」
それだけ言って、私の方へ視線を戻した。
写真の中の誰かが、さやかちゃんに見えたわけじゃない。似ているところなんて何もないのに、どうしても教室にあった空席を思い出してしまう。
私は弓を握り直した。
「行こう、ほむらちゃん」
ほむらちゃんは少し心配そうに私を見たあと、小さく頷いた。
◇
最初に現れたのは、壁に張りついていた使い魔だった。
人の影を無理に引き伸ばしたような身体が板の隙間から剥がれ、床の上を滑ってくる。何体いるのか数えようとした時には、左右の壁からも同じものが這い出していた。
「鹿目さん、右です!」
「うん!」
弓を引き、近づいてきた一体へ矢を放つ。桃色の光が使い魔を貫き、後ろにいたもう一体までまとめて吹き飛ばした。けれど、残った影はすぐに左右へ散ってしまい、こちらを囲むように動き始める。
ほむらちゃんが盾へ手を掛けた。
次に瞬きをした時、さっきまで隣にいたほむらちゃんは、少し離れた場所に立っていた。私の横へ迫っていた使い魔も位置が変わっていて、壁際へ追い込まれている。
「鹿目さん、今です!」
「ありがとう!」
空いた場所へ矢を放つと、光が壁際で弾け、使い魔がまとめて消えた。
残りの一体へ弓を向ける。けれど、その使い魔は攻撃せず、奥の暗がりへ逃げ込んでいった。
「……追いますか?」
ほむらちゃんが私を見る。
私は少し考え、首を振った。
「待って。何か、誘われてるみたい」
「……そうですね。私も、そんな気がします」
言い終えるより早く、奥から硬いものが割れるような音が響いた。壁に貼られていた紙飾りが一斉に揺れ、宙に浮かぶ写真立てがゆっくり向きを変えていく。
その奥から、細長い腕が伸びてきた。
魔女の身体は、いくつもの古い写真立てを無理やり繋ぎ合わせたような姿をしていた。歪んだ胴体の周りには額縁が何重にも重なり、細い腕の先にも小さな枠がぶら下がっている。中には写真らしいものが収まっていたけれど、どれも顔だけが真っ黒だった。
魔女が身じろぎするたび、額縁同士がぶつかって乾いた音を立てた。
「……来る!」
私が弓を構えると、魔女の周囲に浮いていた写真立てが突然回転した。何枚もの枠がこちらへ飛んできたので、慌てて矢を放つ。
光は一枚を砕いたものの、後ろから別の写真立てが現れて進路を塞いだ。続けてもう一射放っても、今度は額縁が斜めに傾き、矢を横へ逸らしてしまう。
「……当たらない」
魔女の身体が、見えているのに遠かった。
ほむらちゃんは私より少し前に出て、飛んできた額縁を避けながら盾へ手を掛けた。次の瞬間には別の位置へ移り、魔女の横へ回り込んでいる。
でも、魔女を囲む写真立ては、ほむらちゃんの動きに合わせるように向きを変えた。
「鹿目さん、左側からなら……!」
声が聞こえたので、私はすぐに弓を引いた。
その時、魔女の胴体にはめ込まれた一枚の写真が目に入った。小さな女の子が、誰かと手を繋いでいるように見える。
顔は塗り潰されている。それでも、繋いだ手だけは残っていた。
指に力が入らなかった。
「鹿目さん!」
「――っ!」
魔女の腕が額縁の陰から伸び、私のすぐ横を叩いた。床板が大きく割れ、足元が揺れる。
ほむらちゃんが盾へ手を掛けるのが見えた。次の瞬間、私のそばから姿が消える。
ほむらちゃんは少し離れた場所へ移っていた。けれど、さっき魔女が叩いた床には亀裂が広がっていて、ほむらちゃんがそこへ着地した途端、板が大きく傾いた。
「きゃっ……!」
ほむらちゃんが慌てて身体を引く。崩れた床から鋭い破片が跳ね上がり、左腕の袖を裂いた。
「ほむらちゃん!」
「だ、大丈夫です! それより、鹿目さん、後ろ!」
振り返ると、逃げたはずの使い魔がすぐそこにいた。
考えるより先に弓を横へ向け、ほとんど至近距離から矢を放った。光を浴びた使い魔が壁へ叩きつけられ、黒い影が崩れていく。
避けようとして床へ手をついた時、何か尖ったものが手の甲を擦った。少しひりついたけれど、確かめている余裕はなかった。
私は何とか息を整え、ほむらちゃんを見た。裂けた袖の下に、赤い線が見える。
「……ごめん」
「え?」
「私が、さっきちゃんと撃ってたら……」
最後まで言えなかった。
ほむらちゃんが何か言おうとしたところで、魔女の身体が再び動いた。写真立てが何枚も持ち上がり、こちらへ向きを揃える。
「鹿目さん、今は……!」
「……うん」
私は唇を結び、弓を構え直した。
魔女の周囲では、相変わらず写真立てが回っている。一枚が砕けても別の枠がすぐに前へ出てきて、どこを狙っても身体へ届く前に矢を逸らされてしまう。
さっき手を止めたのは、写真の中の女の子を見たからだった。あの子が誰なのかは分からない。魔女になった本人なのか、それとも大切だった誰かなのかも分からないけれど、誰かと繋いでいた手だけが、どうしても頭から離れなかった。
私は弓の弦を指先で確かめた。
ほむらちゃんは左腕を押さえながらも、魔女から目を離さずにいる。私のせいだと言えば、たぶんまた否定してくれる。それでも、傷をつけてしまったことは変わらない。
「……ほむらちゃん」
「はい」
「もう一回、お願いしてもいい?」
ほむらちゃんが私を見る。
「今度は、ちゃんと撃つから。だから、あの写真立てをどけてもらえないかな」
そう言うと、ほむらちゃんは魔女と私を交互に見て、少し考えた。
「……分かりました。でも、全部を動かすのは難しいと思います。どの辺りを狙いますか?」
私は魔女の胴体を見つめた。額縁が重なっている中心。そこへ続く隙間が、回転するたび一瞬だけ見えている。
「真ん中。あそこに、一度だけでいいから道を作ってほしい」
「……はい。やってみます」
ほむらちゃんは頷き、盾へ手を掛けた。
次の瞬間、私の前に浮いていた額縁の位置が変わっていた。一枚が床へ落ち、別の二枚が横へ押し出されている。魔女の中心へ続く隙間が、さっきより少しだけ広がっていた。
けれど、ほむらちゃんが移動した先へ魔女の腕が向かい、残った枠もすぐに動き始める。
「鹿目さん、今です!」
「うん!」
私は弓を引き絞った。
写真立ての隙間から、あの女の子の写真が見えた。誰かと繋がれた手も、黒く塗り潰された顔も、そのまま残っている。
今度は、そこから目を逸らさなかった。
魔女にも、きっと何かがあった。それを知らないまま倒してしまうことが正しいのかどうかは、分からない。でも、ここで手を止めたら、ほむらちゃんがまた傷つくかもしれない。結界の外には、何も知らない人たちが暮らしている。
私は息を吐き、矢を放った。
桃色の光が額縁の隙間を抜け、魔女の身体へ突き刺さる。遅れて大きな音が響き、何枚もの写真立てが内側から砕け散った。
魔女が長い腕を振り上げるのを見て、私はもう一本、矢をつがえた。
「ほむらちゃん、下がって!」
「はい!」
ほむらちゃんの姿が消えたのを確かめてから、私は二射目を放った。
光が魔女を貫き、重なっていた額縁が次々に割れていく。最後に大きな音を立てて胴体が崩れると、床の上に散らばっていた写真や紙飾りまで、端から色を失い始めた。
私は弓を下ろさず、しばらくその様子を見つめていた。
◇
結界が崩れ、気がつくと、私たちは元の路地に戻っていた。
道路の向こうを車が通り、建物の窓には夕方の明かりが灯っている。少し前まであんな場所にいたのに、街は何も変わっていなかった。
「……終わったね」
私が言うと、ほむらちゃんも小さく頷いた。
「はい。倒せました」
足元で硬い音がした。
見下ろすと、小さなグリーフシードが転がっていた。ほむらちゃんがそれを拾い、しばらく手のひらで確かめてから、こちらへ差し出す。
「鹿目さん、先に使ってください」
「でも、ほむらちゃんの方が怪我してるよ」
「この傷は魔法で治していませんから。それに、鹿目さんも何度も矢を撃っていましたし……」
ほむらちゃんはそう言って、私の手へグリーフシードを渡した。
私はそれを受け取り、自分のソウルジェムへ近づける。すぐに使えばいい。それくらい分かっているのに、少しだけ指が止まった。
さっきまで目の前で動いていた魔女が、今はこんな小さなものを残して消えてしまった。
「……鹿目さん?」
ほむらちゃんの声で、私は顔を上げた。
「……ううん。大丈夫」
グリーフシードをソウルジェムへ当てると、濁りが少しずつ薄くなっていく。それを見てから、ほむらちゃんへ返した。
「ありがとう。ほむらちゃんも使って」
「はい」
ほむらちゃんも自分のソウルジェムを浄化した。終わると、グリーフシードを確かめてから、そっとしまう。
私は、さっきまでそれがあった場所を見つめていた。
「……あの魔女も、誰かだったんだよね」
思わず口から出た言葉に、ほむらちゃんはすぐには答えなかった。
「……はい。でも、どんな人だったのかまでは……」
「うん。分からないよね」
私は小さく頷いた。
知らない子だった。名前も、どこに住んでいたのかも、何を願ったのかも分からない。それでも、さっきの写真だけは覚えている。
「……帰ろうか」
そう言って歩き出すと、ほむらちゃんも隣へ並んでくれた。
◇
帰り道、ほむらちゃんは何度か左腕を気にしていた。
傷は深くなさそうだったけれど、袖が破れているせいで、動くたびに少し擦れるらしい。本人は大丈夫だと言っていたものの、私が見ると、何でもないように腕を下ろしてしまう。
「ほむらちゃん、本当に痛くない?」
「……少しだけです。でも、歩けますから」
「歩けるのと、痛くないのは違うよ」
「そ、それは……そうですけど」
ほむらちゃんは困ったように笑い、私もつられて少し笑った。
しばらく歩いてから、ほむらちゃんが口を開いた。
「……鹿目さん。さっきのことなんですけど」
「うん?」
「魔女を見た時、少し迷いましたよね」
私は足元へ目を落とした。
「……うん。ごめんね。ほむらちゃんが怪我したのも、私がちゃんと撃てなかったからだと思う」
「謝らないでください。私も、あの結界を見て……平気ではいられませんでした」
ほむらちゃんは少し言葉を切り、自分の袖へ目を向けた。
「それに、移動した先が危ないことに気づかなかったのは、私です。鹿目さんを守ろうとして、周りをきちんと見られていませんでした」
「……ほむらちゃん」
「だから、その……私も、もっと考えて動かないといけないと思います」
眼鏡を直し、ほむらちゃんは少しだけ顔を上げた。
「でも、最後は鹿目さんが決めてくれました。私は、あのままどうしたらいいのか分からなくなりそうだったので……一緒に戦えて、よかったです」
上手く言えなかったと思ったのか、ほむらちゃんは最後に少し俯いた。
私はその横顔を見つめてから、首を振った。
「私もだよ。ほむらちゃんがいてくれたから、最後まで戦えたんだと思う」
「……本当ですか?」
「うん。ありがとう」
ほむらちゃんが少しだけ笑ったので、私も笑い返した。
怖い気持ちがなくなったわけじゃない。それでも、さっき結界へ入った時とは少し違う気がした。
◇
――マギカ視点
ほむらの部屋に残ってから、何度時計を見たか分からない。
机に広げた地図には二人が向かった場所が記されているし、どの辺りを見回る予定なのかも聞いている。何かあれば戻ると約束もしていた。それでも、今どこで何をしているのかまでは分からなかった。
地図を見直しても、新しく分かることはない。窓の外を通る車の音や、廊下を歩く誰かの足音が聞こえるたびに顔を上げてしまい、違うと気づいてはまた机へ向き直る。
『……遅くないか?』
時計を確認してみるが、まだそんなに時間は経っていない。どうやら俺が落ち着いていないだけらしい。せっかく役に立てることを探そうと思ってノートを開いたのに、さっきから同じ場所ばかり読んでいる。ほむらの几帳面な字で書かれた巡回場所の一覧も、何度見たところで増えるわけじゃない。
椅子から立ち上がって窓際へ行き、外を眺めた。遠くの空が少しずつ暗くなっている。
今までは、あの時間になれば自分も外で戦っていた。魔女が見つからなければ少し寄り道をして、帰ってからマミさんに怒られることもあった。
待っている方が大変だなんて、考えたこともなかった。
やがて廊下から足音が聞こえ、俺は反射的に玄関へ顔を向けた。けれど、足音はそのまま通り過ぎていく。
「……違うか」
誰に聞かせるでもなく呟き、また椅子へ戻った。
その時だった。
玄関の方で、鍵が回る音がした。
◇
「……ただいま」
先に聞こえたのは、ほむらの声だった。
「マギカちゃん、戻ったよ」
続いて、まどかの声がする。
「おう。おかえり」
俺は椅子から立ち上がり、玄関へ向かった。
「どうだった?」
「倒せたよ。ちょっと大変だったけど……」
まどかが小さく笑い、ほむらも頷いた。
「グリーフシードも確保できました。予定していた場所も確認できたので、今日はこれで終わりにしようと思います」
「そっか。よかったな」
自分でも驚くくらい、息が抜けた。どうやら思っていた以上に心配していたらしい。
それなら、後はゆっくり話を聞けばいい。
そう思って二人を見た時、ほむらが左腕を少し背中へ回した。
「……ん?」
袖が破れている。
隠そうとしたのか、それとも無意識なのか。ほむらは平気そうな顔をしていたが、布の隙間から赤い傷が見えた。まどかも右手の甲を何度か擦っている。
「……おい」
二人が顔を上げる。
「怪我してんじゃん」
「あっ、これは……大したことありませんから」
ほむらが慌てて腕を下ろした。
「大したことあるかどうかは、見てから決める。ほむら、救急箱どこ?」
「えっ? あの、自分でも……」
「いいから。まどかも手、見せて」
「わ、私はほんとにちょっと擦っただけだよ」
「はいはい。二人とも後で確認するから」
言いながら棚へ目を向けると、ほむらが観念したように場所を教えてくれた。
「……そこの、下の段にあります」
「了解」
取り出した救急箱を机へ置き、二人へ座るように促す。ほむらは少し戸惑っていたが、まどかに「ちゃんと見てもらおう」と言われると、諦めたように椅子へ腰を下ろした。
◇
「ちょっと袖、上げるぞ」
「……はい」
ほむらの左腕を見せてもらうと、肘から少し下に細い傷ができていた。袖が裂けた割には深くないようだが、血が乾いて皮膚へ張りついている。
「結構派手にやったな。何に引っかけた?」
「魔女の攻撃で床が崩れてしまって……避けた時に、破片で少し」
「なるほど。じゃあ、まず洗うか」
用意した水で傷の周囲を洗い流すと、ほむらの肩が小さく跳ねた。
「痛い?」
「だ、大丈夫です」
「いや、今ちょっと動いたろ」
「……少しだけ、しみました」
「そりゃそうだろうな。もう少しだから我慢してくれ」
傷の具合を確かめてから、水気を取ってガーゼを当てる。テープを切ろうとしたところで、ほむらが右手を伸ばしてきた。
「あ、私が……」
「いいって。動かすとずれるから、そのままにしてて」
「……はい」
ほむらは手を引っ込め、何となく気まずくなったのか、視線を机の上に落としてしまった。
「こういうの、苦手?」
「え?」
「人に手当てされるの」
ほむらは少し考えてから、控えめに頷いた。
「……慣れていない、かもしれません。普段は自分で治してしまいますし、入院していた時も、こういう傷とは違いましたから」
「そりゃそうか」
最後のテープを留めると、ほむらが腕をゆっくり動かして確かめた。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。あんまり無茶するなよ」
「それは……マギカさんも、です」
小さく返されて、俺は口を閉じた。
横で見ていたまどかが笑う。
「ほむらちゃん、今のは言ってよかったと思う」
「おい、二対一はずるくないか?」
「でも、本当のことだよ?」
「……はい。私も、そう思います」
ほむらが少し困った顔で頷き、まどかも笑った。俺は二人を見て、仕方なく肩をすくめる。
とりあえず、無事に帰ってきたならそれでいい。
そう思えたのは、その時だけだった。
◇
「はい、次」
まどかを見る。
「私?」
「手、見せてみろ。さっきから気にしてるだろ」
「これくらい、本当に平気なんだけど……」
「ほむらも同じこと言ってたぞ」
そう返すと、まどかは少し笑って右手を差し出した。
「じゃあ、お願いします」
「任せろ。と言っても、こっちはすぐ終わりそうだな」
手の甲には軽い擦り傷ができていた。傷の周りについた汚れを洗い流し、必要なところだけ保護する。ほむらの腕ほど手間はかからなかった。
作業をしながら、俺は二人へ尋ねた。
「それで、どんな魔女だった?」
まどかの手が少し止まる。
「……変な結界だったよ」
「変?」
「写真立てとか、時計とか、普通の家にありそうなものがいっぱいあったの。写真には人が写ってたんだけど、顔だけ真っ黒になってて……」
俺はガーゼの位置を直しながら続きを待った。
「魔女の身体にも写真立てがついてたんだ。ほむらちゃんがそれをどけてくれたから倒せたんだけど……私、途中で一回、撃てなくなっちゃった」
「……そっか」
「うん。写真の中に、小さな女の子がいたの。それを見たら、何だか……」
まどかは言いかけて、視線を落とした。
「……あの魔女も、誰かだったんだよね」
手当てを終えた俺は、まどかの手を離した。
「そうだな」
「分かってるのに、倒した後ですごく嫌な気持ちになっちゃった。人を助けたはずなのに、変だよね」
「……別に、おかしくねえだろ」
まどかが顔を上げる。
「……そうかな」
「ああ。嫌だと思うことまで、無理にやめなくていいんじゃねえの」
言い終えてから、少し考えた。自分で言っておいて何だが、随分簡単な言葉だったかもしれない。
魔女を倒さなければ、生きていくことさえ難しい。かといって、倒した相手のことを考えずに済むほど、俺たちはもう何も知らないわけじゃない。
それでも、まどかは俺の言葉をしばらく考えたあと、小さく頷いた。
「……うん。ありがとう、マギカちゃん」
「いや、礼を言われるほどのことじゃないけどな」
ほむらも少し離れたところから、こちらを見ていた。その表情は穏やかだったが、傷をつくった左腕だけは、まだ膝の上で大事そうに抱えている。
◇
二人が休んでいる間、俺は救急箱を片づけた。
使い終わったガーゼや包装をまとめ、汚れたものを捨てる。机へ戻る途中、ほむらが傷を確かめるように腕を動かしているのが見えた。まどかも手の甲を眺めていたが、もう気にしていないらしい。
二人とも、大きな怪我ではない。明日にはほとんど気にならなくなっているだろう。それでも、俺は捨てる前のガーゼに残った赤い染みから、しばらく目を離せなかった。
『……俺がいれば、少しは違ったのか?』
そんな考えが浮かんだけれど、すぐに答えは出なかった。
俺が一緒にいたからといって、二人が無傷で帰ってこられた保証なんてない。むしろ、今日の自分を思い出せば、足を引っ張った可能性の方が高かった。
それは分かっている。それでも二人が危ない目に遭っている間、俺はここで時計ばかり見ていた。
帰ってきた二人の怪我を見て、慌てて救急箱を取り出し、傷を洗ってガーゼを貼った。それだけのことなのに、ほむらは礼を言ってくれたし、まどかも安心したように笑ってくれた。
嬉しくなかったわけじゃない。
でも、もし二人が帰ってこなかったら。その時、俺は何ができたんだろう。
机の上に置かれたノートへ目を向ける。ほむらが書いた決まりごとの最後には、俺が直接戦闘へ参加しないことが、はっきり記されていた。
自分で納得して決めたはずのことだった。
◇
夜になって、俺は一人で胸元へ手を当てた。
指先に触れるのは、淡い金色を帯びた宝石だった。以前の銀色とは違う、今の俺に残されているものだ。
キュゥべえの言葉を思い出す。普通なら説明できない因果があること。もう一度契約できるのかどうかも、まだ分からないということ。
あの時は、ただ奇妙な可能性を聞かされた程度にしか思っていなかった。けれど今は、どうしても気になってしまう。
ほむらの破れた袖と、まどかの手の傷が頭から離れない。
あの二人が戦う場所へ、もう一度戻れたら。刀を出して、魔法を使って、隣で戦うことができたら。
もちろん、そんな簡単な話じゃない。仮にもう一度契約できたとしても、何を願えばいいのか分からないし、キュゥべえの言うことをそのまま信じていいとも思えなかった。
それでも、宝石から指を離せなかった。
『……もう一回、戦えたらな』
窓の外で、遠くを走る車の音がした。俺はしばらくそのまま座っていた。
今日、二人は無事に帰ってきた。次もきっと大丈夫だと、そう思えればよかった。
けれど、次に扉が開く時も、二人が笑って帰ってくるとは限らない。
その時まで、何もできずに待っているだけなのは――どうしても嫌だった。