「君は、恩返しをしたいとかは思わないの?」
「思いませんね」
「そっか。……しよう、じゃなくて、したい……とも思えない?」
「思えません」
「そうか〜。……ふむ、でも不思議だね。私から見た君は、少なくとも薄情な人間には見えないし、恩その物が分からない風にも見えない。他の人から見た君もそんな感じじゃないかな? だから不思議な感じがする」
「……一つ心当たりがあるんです。恩返しをしたくならない理由の」
「お、話してくれるの?」
「まぁ」
「へへ、やった。……それでどんな理由?」
「……先生は、人に喜んでもらうと自分も嬉しくなったりしますか?」
「うーん? そうだなぁ……。……まぁ、それなりにはなるかもね。お礼とか言われたりするとさ、単純だけどちょっと、ふふって良い気持ちになったりね」
「ぼくは、それがないんです」
「そうなの?」
「他人のために何かをした時に、それを感謝されたり、褒められたりっていうのが、いまいち嬉しくないんですよ」
「そうなのかな……? 私が見る限りだと、君、よく照れた顔をしてるけどなぁ。君のそういう素直なところが好きだよ、私は」
「そりゃ照れますよ、少しも嬉しくないわけじゃない。……けど、またしたいなぁとは思えないんです」
「ふむ」
「乗り切った……って感じがするんですよ、人に喜んでもらえた時って。料理を作っておいしいって言ってもらえた時とか、掃除を手伝って助かるって言われた時とか、乗り切った……って感じがするんです。わかります? 乗り切ったって感じのこと」
「いや、あまりピンとは来ないかも。なにかに例えられる?」
「例えか……。……たとえば遅刻の反省文を書かされて、それを提出した時、目の前で生徒指導の先生にそれを黙読されたとしますよね。で、顔を上げた先生が反省文の出来を認めて、ついでに一言二言ぼくの文章を褒めたとする。でもそこで「嬉しい!」とはならなくないですか? 乗り切った……って感じでしょう?」
「んー、なるほど……? ……でもそれは、人のために何かをすることではなくない? それに、褒められて然るべきことかどうかも、若干怪しい。反省文なわけだから」
「そこが問題なんですよ」
「ほほう」
「人のためになること、褒められて然るべきことをしても、反省文の時みたいな乗り切った感が出てくるんですよ、ぼくは。それっておかしいじゃないですか」
「あ、なるほど」
「だからなんだかこう、またやろうって気持ちにはなれないんです」
「なるほどね。……うん、よくわかった。たしかにそれは難儀だ。……で、だから恩返しをしたい気持ちも湧かないと」
「そうです。恩返しって前向きなものでしょう? 贖罪とは違うんだから。ということは、やった恩返しが好感触なら嬉しくなるはず。……だから喜ばしくなれないぼくは、おかしい」
「好感触なら嬉しいか、まぁ確かにね。……でもそうすると矛盾してないかな?」
「どこがです?」
「恩返しが前向きなことなのは、反省文みたいにマイナスをゼロに戻すものじゃなくて、相手を嬉しくさせるってプラスのためにあるものだからだよね? 恩返しが人のためにするものなら、君がどう思うかより、相手がどう思うかの方が大事なんじゃないかな。モチベが上がらない君の気持ちは少し分かったけど、それでも相手が喜んでくれるなら、恩返しをする価値っていうのは十分あると思うよ」
「それはダメです」
「ダメ?」
「ダメです。それをすると、ぼくは不幸になる」
「モチベがないのに無理やり頑張るから? それがつらい?」
「正確には違いますけど、大体そうです。ぼくは常に幸せでいたいから」
「ふむ」
「先生は人の喜びを喜べるタイプだから分からないかもですけど、人の喜んでる姿を見て「乗り切った……」と思うのは、結構しんどいんですよ。なんでかって、喜ばされた人は、自分の喜ぶ姿が相手への感謝の印……報酬になると信じている風に振る舞うからです。そういう風に見えるんですよ、マジで。それがまぁ気に食わない」
「ん……? どういうこと? 感謝する側の人たちの態度がデカいとか、そういうこと?」
「態度がデカいとは言いませんけど……。ありがとうと言われたら嬉しくなるのが人として当然のことである……みたいな驕りを感じるんですよ」
「そんなこと、思ってる人いるかな……?」
「実際に思ってるかどうかはどうでもいい、そう見えるって話です。……それに、先生はさっきぼくの照れる顔が好きだとか言いましたけど、……言いましたよね?」
「うん」
「先生がぼくになにかお礼を言う時、照れるだろうなぁって期待を本当に一ミリもしてないって言い切れるんですか?」
「あー……」
「なんかね、大体の人がそうなんです。純粋に悪いと思ってるから謝るというより、許されたい気持ちが多分に混じった結果ごめんなさいを言うみたいなことと同じで、ありがとうもそういう感じなんですよ。それでぼくが実際嬉しくなれるならいいですよ? ウィンウィンなんだから。またやろうって思えるならいいけど、思えないからムカつくんですよね」
「なるほどなぁ。それは一理あるかもしれない。……ということはつまり、ムカつくから不幸になるっていうこと?」
「そうなんですよ、本当に。「ムカつく」と「不幸になる」はイコールなんです。一緒なんですよ、分かりますか? 不幸とムカつくもイコールなんです」
「ふむふむ。ということは、ムカつきたくないから、恩返しもしたくないっていうことになるのかな」
「それは少し違います。ワンステップ足りてません」
「ワンステップ」
「ムカつくと、人のことを嫌いになるじゃないですか」
「そう……かな? それは必ずしも……じゃない?」
「いや、一般論的な話です。たとえばどうしようもなく不幸な星のもとに生まれた人は、世の中の全てを恨むと思いませんか。生まれてこの方、不幸な目にしか遭ったことがない人がいたら……」
「うん。そういう人がいたら、確かに世界を恨むかもね」
「で、なぜ恨むかといったら、ムカつくからですよね? 自分を助けてくれない全て、自分を不幸にする全て、自分のような不幸な人間を生み得てしまうこの世の中を形作る全てに、ムカつくはずです。その場合はムカつくという言葉では軽すぎるでしょうけど」
「君も、ムカつくとそうなるってこと? 世の中の全部をって」
「ほぼそうです。全部とは言いませんけど、ぼくがぼくを生んだ親や、ぼくと関わった人たちの出来るだけ多くへポジティブな感情を向けるには、ぼくが幸せじゃなきゃいけないんです。ぼくが不幸になると、よくも不幸にしやがって……と思っちゃうんですよ、どうしても。生んでもらえてありがたい、関わってもらえてありがたいって思うために、生まれてきてよかった、出会えてよかったと思わなきゃいけないんです。その方がウィンウィンでしょう」
「なるほど。……恩返しをすることで、それが出来なくなる?」
「丸っきりとは言いませんよ。でも瞬間的にはそうなりますよね。そういうのは良くないんですよ。恩返しっていうのは、そういう物じゃないじゃないですか」
「ふむ……。そっか、うん、たしかに。なるほど今ので納得した。……もう私個人としては、今の話を聞いてまで君に「恩返しはした方がいいぞ!」とは言う気になれないね」
「そうですか」
「うん。だからじゃあこれで、私も君との良い距離感が分かってウィンウィンだね、よかったよかっためでたし。……ってことでいいのかな?」
「それが、そうでもないんですよね……」
「だろうね。……そういう顔してるよ」
「先生は今「もう恩返しはしなくてもいい」って言いましたけど、それはぼくの言い分を聞いての、仕方なくの結論ですよね」
「んー、仕方なく……なのかな。まぁでも、そういう言い方もできるね」
「たぶん、ぼくの言い分を聞き入れてくれる人がいたとしても、その人たちは全員そんな感じなんですよ。仕方ない……って我慢してくれてるだけであって、心の底から「君が正しい」って思ってるわけじゃない。むしろ結構不服に思ってる」
「不服には思ってないよ」
「思ってるんですよ。そうでなかったらこんな話にはならないんです。恩を返さない人間のことを良く思えない人間だらけの世の中だから困ってるんです。お土産にお返しをするのが当たり前の世の中ですよ? イかれたことに……」
「……君はそのことで困ってるんだ?」
「困ってますよ。恩返しをしようとすると、ぼくは色々な人が嫌いになりかけます。でも恩返しをしないと、それはそれで、今度は色々な人がぼくのことを嫌いになっていくんです。ダブルスタンダードってやつじゃないですか?」
「あー、なるほど、言ってることは分かる。……でも君に恩をくれた人たちは、それを返してくれなかったからって、君のことを嫌いになったりはしないんじゃない? 君がどこかの金持ちだったら話は別だけどさ。ただのちっぽけな家族だとか友達に何かしてあげようって考える人は、そんな損得勘定では生きてないと思うけどなぁ」
「いや、人間にそれは無理ですよ。愛想って尽きるものですから」
「そうかなぁ」
「試してみたらそうでした……じゃ洒落にならないでしょ」
「まぁたしかに」
「でしょう? ……まぁそんな感じですよ」
「ふむふむ、なるほど。……ちなみに普段は困った時どうしてるの?」
「困った時って?」
「ダブルスタンダードを迫られた時」
「あー、まぁ基本はなんとか回避しようとしますけど……。どうしてもお膳立てされちゃった時は、ため息吐きながらなんとか頑張りますかね」
「えらいじゃん」
「あぁ、そういう褒め方してくれる人もよくいますね、喜ぶ以外にも。問題は偉いかどうかじゃないんですけど」
「あ、そうか、ごめんごめん。…………ねぇあのさ、これは私が興味本位で聞きたいことなんだけど」
「はい」
「今まで恩返しを放棄したことで、愛想を尽かされる予感がしたことはあったの?」
「予感?」
「いや、もしかして過去の体験とかを理由に、愛想は尽きるものだって言ってるのかなーと思って」
「いやそこは一般論ですよ。それか恋愛みたいに、恩とかとはまた別な物が絡んで尽きる愛想なら見てきましたけど。……あーでもそうだな、言われてみると、そういう場合って尽きる尽きない以前の問題だったな」
「ん? そういう場合って?」
「昔、中学の担任だった先生が結婚することになったから、同窓会的に集まったクラスメイトでお祝いのメッセージを撮ろうって企画が立ち上がったことがあったんです」
「おぉ」
「でも初日の打ち合わせで、なんかぼくが入るような雰囲気じゃないな……と思って、二回目以降の集まりはばっくれたんです。…………いや違うか、ダルい、面倒くさいと思ったからばっくれたんですね。学校と違って、別に「来い」って連絡が来るわけでもないですし」
「ほうほう」
「お祝いのメッセージが最終的にどうなったのか、ぼくは知りません。でも完成して送られたのだとしたら、そこにぼくは映ってないわけですし、どこかで計画が頓挫していたのだとしても、ぼくがばっくれたこと自体には変わりありません。……それって恩知らずなことでしょう? たぶん、というか間違いなく、担任の先生に一番お世話になったのはぼくなんです。「半、不登校児」なんだから。……もしメッセージが送られていたなら、ぼくがいないそれを見た先生はどう思ったかな……」
「なるほど。……そのことをずっと気にしてる?」
「いや、今の今まで忘れてましたけど」
「そっかそっか。……「ぼくが入るような雰囲気じゃない」っていうのはどんな感じだったんだろう? 陽キャうぇーいみたいな?」
「まぁざっくり言ってそうです。……ただ、そもそもお祝いとか感謝とか、そういうメッセージを撮って送ること自体が向いてない節があるんですよ……。恩知らずなので」
「嫌いになっちゃうからってこと?」
「いや、それとはまた別にです。恩知らずなことがバレるとでも言うんですかね。昔、小学校を卒業する頃、担任の先生に感謝のメッセージを送ろうってことで、班ごとに分かれてビデオを撮ったことがあったんですよ。音楽室で、音楽の先生に撮ってもらって。で、ぼくはリコーダーでいい感じの曲を吹く係だったんです。他の班員はそれをBGMに感謝の言葉を読み上げたりしてね。……それでその撮れたビデオをあとで確認してみたら、リコーダーを咥えたぼくはまぁ〜あからさまにカンペ……もとい楽譜の方だけを凝視していて…………」
「……って感じだったんだけど、どう思う?」
「どうって、どクズじゃないですかそいつ。いつも思いますけど」
「そうかなぁ」
「程度にもよりますけど、恩知らずは全員もれなくクズですよ。特にそいつは完全にアウトなタイプです」
「ははぁなるほど、彼は君みたいなタイプが怖いんだな。言ってたよ、世の中には、話しかけたら殺されるタイプがいるって」
「わたしだってそいつみたいなタイプは怖いですよ……。そういう人間がそのうち人を刺すんじゃないんですか?」
「こらこら、滅多なこと言わない。……で、まぁ彼がクズかどうかはさておき、今の話を聞いて君はどう感じた?」
「どうってなんですか……? クズだなぁってくらいですよ」
「そう? ……私は、彼はたしかに恩返しをしたくないようだけど、それと同時に罪悪感の人なんじゃないかと思ってるんだけど」
「罪悪感の人?」
「だって彼は、恩が何なのかは理解してるんだよ?」
「担任の話ですか? まぁ確かに、世話になったと感じているのは幸いなことですね」
「それもある。けど彼は他にも、生んでくれてありがとうだとか、そういう話もしていた。……おかしいと思わない?」
「おかしい? どこがですか? ……たしかに生むことや生まれることがはたして善いことなのか……って点には諸説ある、というか、それが善いという説はほとんどあり得ない……とわたしも思います。でも恩知らずな男が、それを善いことだと考えていても何も不思議はなくないですか? 結局のところ、彼には恩の本質が分からないんですよ。分からないからなんとなくで空気を読んでいるだけなんでしょう。だから恩返しなんてクソ喰らえと思っているし、小学校の道徳の教科書みたいなレベルで恩の定義が止まってるんです」
「いやいやそうじゃなくてさ。私が言いたいのは、彼が本当に恩知らずの人間なら、もっと気持ちよく他人を恨めるだろうってこと。恩返しどころか、家族や友達にクソ喰らえと思ったっていい。でも彼は他人から嫌われることを悪いこととして……悲しいこととして語っていた。変だと思わない?」
「むぅ……。……まぁでも、ありがちな話じゃないですか? 自己中な人間ほど、他人から愛されることを望んだりするものでは?」
「そうかもしれない。けど吹っ切れてそういうことを考える人間のする話には聞こえなかったんだよね……」
「それは、先生が彼のことを気に入ってるだけでは?」
「否定はしきれないね。けどまぁ、だからこそ君に聞いてみてるわけだよ。彼の話についてどう思う? って」
「あぁなるほど、そういう。……まぁ先生の言うことに一理ないわけではないですよ。クズはクズでも、小難しいタイプのクズかなとは思います」
「小難しいか……」
「吹っ切れてないことだけが、吹っ切れてるタイプとは違うってことです。それ以上でもそれ以下でもありませんよ。……吹っ切れてないことを罪悪感と呼ぶのは、わたしは言葉遊びだと思いますけど」
「それはあれ、行動を改めない反省は反省ではないみたいな話? 反省をしない後悔は後悔ではないみたいな?」
「そうです。出す結論がクズである人間が罪悪感を語るなんて、ちゃんちゃらおかしいことだとわたしは思いますね」
「……彼自身もそう考えているからこその、罪悪感の人だと思うんだけどなぁ」
「先生は彼のことを気に入りすぎですよ。……いっそセックスでもさせてやったらどうですか? それで前向きになるかも」
「それがダメなんだよね……」
「……は!? 試したんですか!?」
「いや試したってわけじゃないけど。話してたら分かるんだよ。彼、性欲はかなり旺盛な方なのに、前向きになることと天秤にかけるとそれがスッ……と、氷が溶けるみたいにどっかへ流れて行って一瞬で消えちゃうの。ぶっちゃけ重症だよ」
「EDとか患ってそうですね」
「それは私の知るところじゃないけど……。……ねぇそれでさ、私は彼をどうしてあげたらいいと思う? このままじゃ彼、ほぼ確実に不幸になる。現に今も社会に出られてないし……」
「本人はそれを望んでないんですか?」
「今は引きこもりでいいけど、いつまでもそれが出来るとは思ってないみたい。だからタイムリミットが来て苦しむ前に楽しいところだけ味わって、そこで死ねたらベストだって、そう言ってたけど……。……でも自殺するのは怖くて出来るわけないから、それが悩みなんだって」
「……へぇ」
「私も彼に自殺は無理だと思うから、その点は安心ではあるんだけどね。でも実際問題、十年後二十年後をどうするのかって話でしょ? 君は私が彼のことを気に入ってるっていうけどさ、さすがにそんなに先の彼の面倒まで見続ける余裕は……」
「……物騒なことを言ってもいいですか? あくまでも思考実験的な話なんですけど」
「うん、なんだろう? 聞きたい」
「彼は、自分が本気で苦労する前に死ぬのがベストだと言ったんですよね? でも自殺は怖いと」
「うん」
「わたしたちが殺してあげたらいいんじゃないですか?」
「えっ」
「前向きになることができないなら、後ろを向いて死に向かえばいい。そう思いません? 彼が誰かを刺す前に、わたしたちが彼を刺してしまえばいい。本人だって望んでることですし」
「本気で言ってる?」
「わたしや先生が犯罪者になってしまうことさえなければ、本気で言ってたんですけどね」
「……ふむ。そっか、なるほどね。……でもね、仮に私たちが法の許可を得て、欠片の苦しみもなく彼を殺せる方法を持っていたとしても、その案を採用することは出来ないよ」
「どうしてですか」
「そういう、結果だけを求めることはしちゃいけないんだよ。だからせっかちで乱暴で、先に続かないようなアプローチは絶対ダメ」
「どうして結果を求めちゃいけないんですか? そんなこと言っている間に彼の親は死んで、彼は」
「楽しめるところまで生きてあとは死んじゃいたい……なんて考え方は、誰より結果だけを求めてる考え方だと思わない?」
「え?」
「結果だけ求めて物を考えるとね、誰でも彼のようになっちゃうんだよ。君が言うところの、どクズにね」
「…………じゃあどうするんです?」
「それが分からないから君に相談してるんじゃない」
「それ、先生に縋りついてくる彼と丸っきり同じことをしてませんか?」
「あれ? あー、そっかぁ。はは、まずいね」
「笑えませんよ……」