ある大学の登山部(サークル)には、通例的に必ず最低一人のサキュバスが入部している。登山には野生の熊と遭遇するリスクが付き物である一方、サキュバスは生身でも熊より強いためである。
その登山サークルは登山ガチ勢とは程遠いゆるい雰囲気の集まりだった。もっと言うのであれば、そこのメンバーたちが最も力を入れて取り組んでいた事は、高難度の登頂を成功させることなどではなく、サキュバスの部員をどのように確保するかの算段についてだった。
たまたま登山に関心のあるサキュバスが大学内に居た場合は楽で良い。しかし常にそんな好都合が必ずしも叶うわけもなく、何年かに一度、いつの間にか生えてきていた類の伝統を持つ由緒正しき登山サークルの面々は「登山に毛ほども興味がないサキュバス」をどうにかこうにか勧誘する必要に迫られる。
金銭で釣ることは出来ない、普通に揉め事になるから。セックスで釣ることも難しい。大抵のサキュバスは男に飢えていない。しかしそれでも、どうにかして誰かしらサキュバスの心を掴まなければ安全な登山ができない……。
「ほら見てくださいよこれ、森山の撮った写真。上手いでしょ。こいつ写真家目指してるんですよ。なんか高っけぇカメラも持ってるし」
「へぇ〜。たしかに綺麗に撮れてるね」
「ユライニさんも写真好きですよね?」
「いや、私は撮られるのが好きなだけ」
「だから! 上手く撮れる森山をレンタルできるんですよ、ウチなら!」
「……ははーん。そういうこと?」
……というわけで、ユライニという名のサキュバスが入部したのが今から二年前の話。
彼女が在籍し始めてからの二年の間に一度だけ、登山部メンバーは山で熊に遭遇した。警戒を顕に20mほど先で立ち止まった熊めがけてユライニは自ら突撃し、
「私に任せて! みんな逃げて!」
と叫びながら背負い投げを決めて見せた光景は伝説として語り継がれている。
そんな彼女の在籍三年目。新入部員から「これが伝説のサキュバスか……!」と憧れとも好奇ともとれない視線を注がれながら、ユライニはその日も山に登っていた。新入生向けに初心者向けの山の簡単なコースを登り、お弁当を食べて帰ってくる。ただそれだけの和やかな日になるはずだった。
その日現れた熊は、気づいた時にはもう、部員のすぐ後ろに迫っていた。
「あぶないッ!」
振り下ろされる爪よりも速く、咄嗟に全力を出したユライニが残像と化す。
魔力によって底上げされた「見た目に反する質量」が肉眼で捉えられない速度で衝突したことで、熊は一撃で撃破された。……ただしそれはオーバーキルだった。
衝突の瞬間、熊の体は爆発四散。血肉に臓物、ちぎれた毛皮がその場に飛び散り、何人かの部員とユライニ本人がそれを頭から被った。
その場にいて、その光景を見逃した者はいるはずもない。見た光景を忘れられた者もいない。
「みんな大丈夫……!?」
振り返ったユライニの目に映ったのは、血しぶきを受けたことにすら気づかないような呆然とした様子で、しかし恐怖だけははっきりと貼り付けた部員たちの顔。そこに「助かった」という安堵の色はなかった。「ユライニがいてよかった」という感謝の色はなかった。
その日の登山はそれで中止になった。各員は警察に事情聴取を受けることになったし、「カメラについた血がとれない」という言葉を残して、森山は部に姿を見せなくなった。
潮時か……と、ユライニは諦念を抱く。彼女は元々登山部への参加に積極的ではなかった。力仕事ならまだしも「戦い」を求められることは、サキュバスにとって懸念の払えないことだった。なぜならあまりにも強すぎる「女の形をした生き物」を見た時、大抵の男性は引いてしまうから。ただセフレとして関わればWinWinの関係を築けたはずの男とも、畏怖でもって引かれてしまってはその後どうしようもない。
サキュバスの力の源は魔力で、魔力の源は他人の性欲である。実際、ユライニと肉体関係を持った登山部員は多い。そこには彼女を繋ぎ止めるという大義名分……もとい免罪符があった。彼女自身もその関係を気に入っていた。けれど今となってはその免罪符も、滅んだ国の紙幣が如く紙切れ同然である。
血の海事件以降、登山部員の中にユライニを性的な目で見る者はほとんどいなくなった。それどころか噂話に尾ヒレがついて、現場を見ていない者の中にも彼女のことを無闇やたらに恐れる輩が現れ始めた。するとユライニは次第に、三年前の自らの選択を後悔せざるを得なくなっていく。登山部なんか続けるんじゃなかった、と。
……が、部員から彼女を性的な目で見る者がいなくなったという話は、くれぐれも「ほとんど」の話である。つまり決してゼロ人になったわけではなかった。
新山という新入部員一人だけが、依然として彼女に性的な視線を向け続けていた。
サキュバスには近くにいる他人の性欲が察知できる。新山のいやらしい目つきが気のせいでないことは明らかだった。
後悔することに疲れた彼女は、彼をホテルに誘う。「みんな私のことを化け物でも見るみたいな目で見るの。もう新山くんしか頼れる人がいないんだよ」と、それっぽい台詞も付け加えてみた。本当は大学の外に数人セフレを確保しているし、卒業して社会に出れば自分の評判もリセットされるだろうと、現状を過剰に悲観することとは縁遠い彼女だったけれど、サキュバスとはしばしばそういうリップサービスだってするものなのだ。
新山は彼女からの誘いを素直に喜んだ。
彼は登山部の裏側を知った上で、これまた素直すぎる心情を口にする。
「おれ、ユライニさんとそういうことするの、憧れだったんです」
「私が、化け物みたいな女でも……?」
「そんな言い方しないでほしいけど。でも正直、だからこそなんですよ」
「……ふーん?」
だからこそとは、どういう意味だろう? ユライニは少し、彼の物言いに興味を持った。「憧れの女性とセックス」→「憧れかつ命の恩人である女性とセックス」にレベルアップしたとか、そういう意味だろうか? なんて想像をしながらホテルに入る。
その数十分後、ユライニは驚愕することになる。新山は生粋のサディストだったのだ。彼の望むプレイは、それまでの登山部の誰よりも頭抜けて悪辣な物だった。
元々ユライニは登山部のVIPだ。関係を持った部員の中にもいくらか過激な性癖の持ち主はいたけれど、彼らには「自分のせいでユライニが部を抜けたら困る」という枷がかかっていた。けれど新山にはそれがない。ユライニの退部が秒読みである今の状況だからこそそうなのか、それとも元々彼がそういう人間だったのか、もはや確かめる術もなく、欲望の限りが尽くされる。
ハードなSMプレイ自体は、ユライニは好きでも嫌いでもなかった。それゆえに彼女の興味は、新山のあの不可解な言葉にのみ向かう。
「新山くん、私にこういうことしたいってずっと思ってたの?」
「いや……、ずっと……っていうか。最初の頃はぼくも、出来るとしてももっと普通のエッチなんだろうなって思ってましたけど」
「……じゃあ、あの「だからこそ良い」って言ってくれたやつ。あれはどういう意味だったの?」
「だからこそ?」
「私が化け物だってことが分かったあとの方が良いみたいなこと、言ってたじゃん」
「あー……」
気まずそうに視線をそらす新山に、ユライニはなおさら興味を持つ。裸の女に首輪を付け引きずり回しておいてなお躊躇う話とはいったい何なのだろうと。
「……言っても怒らないって約束してくれます?」
「うん。神に誓う」
「じゃあ言いますけど……。……どう考えても自分より強い女性が、諸事情によって自分に逆らえなくなった状態って、めちゃくちゃエロいって思っちゃうんですよね」
「……え、私って新山くんに逆らえなかったの?」
「え、実質そうじゃないですか? ユライニさん孤立してたし、頼れる人いないって」
「……えっ、それを「逆らえない」って捉えたの?? わっは〜、どクズじゃん」
「ごめんなさい」
「いや全然いいけどさ〜。あっはっはっ」
新山のあまりに性格の悪い物言いに、ユライニはわりと腹の底から笑った。大学内の人物と関わっていて彼女がそれだけ屈託なく笑ったのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
彼女が新山に逆らえないだなんてことは、間違っても実際にはあり得ないのだけれど。しかし彼女はなんだか、もう少し新山にサービスしてやりたいような気持ちになった。
「ねぇ新山くんってさ、どういう女の子が自分より強いって思う?」
「え? 難しい質問ですね」
「カースト高そうな子とかはどう?」
「あ、それは間違いなく強いです」
「やっぱり? じゃあこれ見てよ、高校時代の私なんだけど」
「……えっ、めっちゃギャルっていうか、もうヤンキーじゃないですか。大学デビューみたいなこと……?」
「そう〜。だから新山くんは今、潜在的には、こういう女を抱いてるってことでもあるんだよ」
「おぉー……」
「え、いやめっちゃ勃ってるのウケる。今度この頃の格好して来てあげようか?」
「いいんですか!?」
……ユライニと新山の関係は、大学卒業後もしばらく続いていくことになる。