背の低い男が、家に招き入れた恋人から「ちっちゃくて可愛いね」と言われた。彼女の方からすれば、彼氏に男としてのプライドがないとは思わないが、少なくともそれは身長の話題には宿っていないと判断してのことだった。
「昔、仲良くなった女の子にも同じことを言われてさ」
特に不機嫌になる様子もなく語り始める彼氏。過去の女の話をわざわざするなと言いたいところだが、それを涼しい顔でいなすことが彼と付き合う隠し条件なのだと彼女は知っていた。
かつて彼に初めて出来た恋人はいわゆる依存体質で、付き合い始めの頃はちょっと人より嫉妬深いくらいで、あとは概ね普通の女の子だったらしい。が、その子が最終的には連絡先や仕事中の行動まで制限しようとする重度の束縛をし始めて、彼からそこに苦言を呈されたことをきっかけに目の前でカッターナイフを握り、自らの手首を切ったのだという。
命に別状はなかったが、それを機に彼女は精神病院に入院。二人の関係は破局。以来、彼は他の女の話をしても平気な顔をしてくれる女性としか恋愛ができなくなった。その条件を満たすことがメンヘラではないことの証明になるから。……そんな彼と付き合っている現在の彼女は、まぁ少なくとも、関係の終わった過去の女の話くらいは涼しい顔をして聞くことができる。
彼女は彼女で、男の弱みを受け入れてやることでしか自分を満たせない危うい女ではあるのだけど。
「へぇ、よく言われるんだ?」
「まぁ、たまに? でも当時はさ、褒めるところがない男にはとりあえず可愛いって言っとけばいいってテクニックの話を聞いたばかりで、言っちゃったんだよね。そういうテクニックがあるのを知ってるぞって」
「あら。どうなった?」
「めちゃくちゃ不機嫌になられた。じゃあもう二度と可愛いって言わない、ごめんね気悪くさせてって、明らかに自分の方が気悪そうに」
「そりゃそうなる」
「でも俺、社交辞令を真に受けるのコンプレックスなんだよ」
「あー」
彼女にも心当たりがあった。以前お揃いの食器を買った時、店員から二人の仲を褒められたことを明らかに真に受けていた。そういう性格がコンプレックスだとは知らなかったが。
「でも俺その時学んだんだよね。真に受けるのはダメだけど、話を合わせないのもダメだって」
「そうだね」
「で、その心得を端的に表す歌を見つけた」
「はぁ、歌? なんてやつ?」
「ゲスの極み乙女の、キラーボール」
「知らないかも。歌って」
「歌って??」
何言ってんだコイツと顔に書いてあったが、彼氏は従順にもその指示に従った。歌唱力としては普通に下手だったけど、その歌詞は確かに彼女にとっても印象的だった。
歌ったのはサビの一節だけだった。
「たった今 分かったんだ キラーボールが回る最中に 踊ることをやめなければ 誰も傷つかないんだって」
社交辞令を真に受けるということは、背が低いことを可愛いと評されるのは彼にとって嬉しいことなのだろう。かつて急速に不機嫌になった相手を見て正しい立ち回りを悟った彼にとって、「たった今 分かったんだ」というサビの歌い出しはよく噛み合っていた。
……彼が浮気をしていることが発覚したのは、それから三ヶ月後のことだった。
「それだけはしないって約束だったよね?」
他の女の話をするのはいい、それが過去の話でも現在の話でも。なんなら自分とあれこれ比較したっていい。でも浮気だけは絶対にしない。……そういう約束のはずだった。
彼氏は言い訳しなかった。悪びれなかったわけではなくむしろその逆、罪悪感が「自分には発言権がない」という方向に出ているのは見るも明らかだった。その証拠に、彼女から聞かれたことには全て答えた。
いつから浮気してた? ……半年前から。
なんで浮気した? ……向こうから言い寄られて断れなくて。知り合ったのは大学で。
向こうはアンタが彼女持ちなの知ってた? ……知ってた、それでもいいと言われた。二番目でいいとまで言われて断れなかった。
最終的にどうするつもりだった? 一生二股続けるつもりだった? ……それが出来ないことは分かってたけど、どうすることも出来なかった。
今後どうするつもり? ……きみと別れたくない。
じゃあ結局その子捨てるんだ? 断らなければ救えるつもりだった? 余計傷つけてるんじゃない? ……その通りです。
そうなることが分かってて浮気したんだ? 私が傷つくことも分かってたよね? ……はい。
私とその子、どっちかしか選べなかったら、どっちを選ぶの? ……君の方。
あの子があんたに捨てられたことで自殺するとしても? ……うん。
クズだね。 ……うん。
……彼女は、彼氏を許すつもりは毛頭なかった。ただその一方で、彼氏を捨てるつもりにもなれなかった。どうしようもない男に愛想が尽きる感覚と、自分に生殺与奪を握られた男が自分を選ぶことの優越感が両方あった。男の弱みを受け入れてやる自分に酔うのだとすれば、その行き着くところが今、目の前にあった。
保留。それが彼女選んだ答えだった。浮気相手は精神を病んで引きこもりになったらしい。相手の友人が彼氏に抗議しに家までやって来たが、それを追い返す彼女は浮気を糾弾した時よりもずっと冷たかった。
浮気の発覚を境に、彼氏の一挙手一投足に弱味が漂うようになった。日常の一つ一つに「間違えたら捨てられる」が付きまとうようになった。実際、彼女が満足しきるよりも先にその弱味が薄れてしまえば、彼女はいよいよ彼への興味を失っていただろう。その緊張は優越感を刺激する一方で、かつての信頼を取り戻すことはおよそ叶わないことの寂しさを毒のように含んでいた。
かつて彼の目の前で手首を切ったという女は、はたして理由なく束縛癖を発症したのだろうか。彼は何か、自分に都合の悪い部分を隠しているのではないか。ばっさりと愛想が尽きるのではなく、そんな疑惑がじわじわと彼女の心を蝕んでいった。
そしてある日なんとなく思い出して、彼が座右の銘のように語っていたキラーボールを聴いた。一曲通してちゃんと聴いたのはそれが初めてだった。
あのサビには続きがあった。
たった今 分かったんだ キラーボールが回る最中に 踊ることをやめなければ 誰も傷つかないんだって
何回でも繰り返す キラーボールが鳴らすサイレンと 冷めた奴らの目を気にしながら踊れ 今夜もランランラン
浮気がバレたことで浮気を続けられなくなったから、「踊ること」を止めざるを得なくなったから、彼は自分に関わる女性を傷つけることになったのだ。
その後に続く歌詞を見た彼女はそれを鼻で笑おうとして、失敗した。