※ サキュバスとは、不死身で性に寛容な異種族である。見た目が人間女性にそっくりだし社会性もあるから、普通に地球で人間社会に参加して暮らしている。
ただしサキュバスは人間と違って魔法を使える。少し便利な程度の魔法しか扱えない者から、その気になれば世界を滅ぼせそうな魔法を扱う者まで、才覚によってその魔法の性質は様々である。
これは、サキュバスであるSと、彼女と同棲している人間男性Aが、ふとした拍子に口論になった時の話。
「いつもいつも辛気臭い顔して、何が不満なの? 言ってよ! ……きゃっ!?」
自分の振りかぶった拳が、次の瞬間には張り手のようになって、華奢な肩を狙った。
口論の末、俺は思わず、Sのことを突き飛ばしてしまった。食後に皿を片付けながらした何気ない会話が発端だった。
また暗い顔してる、最近ずっとそうだよ、大丈夫? ……Sがそう言って俺の顔を覗き込んできたから。俺は大丈夫だと答えた、だって自分の生活はいつもと何も変わらなかったから。「最近暗い」ということは「以前は今ほど暗くなかった」ということだから、以前と何ら変わらない生活をしている自分は、大丈夫に決まっているとしか答えられなかった。
だけどSはそれを嘘だと言った、何か隠してるでしょと詰めてきた。何も隠してない俺はそれに苛立って、俺の苛立ちに当てられたSも連鎖的に苛立って、すぐに口論の様相になってしまった。そして俺はついに自身の苛立ちに耐えきれず、Sを突き飛ばしてしまったのだ。
思ったより強くよろめいたSが体勢を崩して尻餅をつきそうになり…………実際はもっとまずいことになった。
後ろに転んだ彼女の後頭部が、テーブルの角に思いきりぶつかった。鈍い……嫌な音がした。
「っ……!」
「……あ」
頭を押さえて無言でうずくまった彼女に駆け寄ることも出来なければ、謝罪の一言すら咄嗟に出せなかった。
頭の中で思考が回る。サキュバスは不死身だ、痛覚を遮断する力だってある。その力は任意で使う物だから不意の痛みまでは防げないこともあるらしいけど、何にしたって人間ほど致命傷になることは絶対にない……はずだ。だから大丈夫、大丈夫に決まってる、そのはずなんだ……と。
己に言い聞かせるような思考の中から見れば数十秒が経過したようにも思えたけれど、客観的に見ればきっとSはすぐに起き上がっていた。そして俺の目を見て微笑み、ドロンと煙になって消えた。
背後から、細い指に両肩を掴まれる。
「大丈夫?」
耳元にかけられたのはSの声だった。
Sは、ある条件下でのみ因果を改変する魔法を使える。その条件とは「自身が身体的負荷あるいは身体的不自由を負った瞬間」で、「負荷や不自由を負ったのは分身であり、本体は別にある……ということにする」という形で因果の改変を行う。これによって彼女は自身の身体に起こるあらゆる不幸を回避する……もとい「実は回避していた」ということにする。
俺が突き飛ばしたのはSの分身で、頭を打ったのも一瞬痛がっていたのも分身。唯一自我を持っているオリジナルの個体は無事である……ということに、世界の方が改変された。そしてその改変を行った張本人が、元々そこにいたかのように背後から現れては俺に言ったのだ。「大丈夫?」と。暴力を振るわれた側が、振るった側を心配するようなことを。
「…………ごめん」
「いいよ? 分身だもん、私はなんともなかったから」
「でも」
「そんなことより、私の方こそごめんね? 嫌な言い方しちゃったよね。A君のことが心配で、焦っちゃって、あんな言い方しちゃったの。許してくれる……?」
「……許すもなにも」
俺は怒れる立場にない。理不尽な暴力の加害者だから……というだけでなく、たとえば俺たち二人の生活費を賄っているのはS一人の稼ぎで俺は引きこもりだからだとか、とにかく理由を挙げればキリがないほどに、俺はそういう立場にない。
正面に回り込んだSが俺の顔を覗き込んで、やるせなさそうに微笑む。俺の思考はワンパターンだから、よく起きる感情はすぐに彼女に読まれてしまう。だからこそ読み切れない部分に関して、彼女は焦りを感じるものなのかもしれない。
そこまで想像できても、俺は彼女の焦燥をケアできない。
「そんなに気にしなくていいのに。分身だってA君にも分かってるでしょ?」
優しい声で、彼女は俺をケアしようとする。俺が彼女に暴力を振るったことはこれが初めてではないからだ。そこに自分本位な罪悪感が伴っていることを、彼女は経験で知っているから、読み切っているから、俺に対してフォローの言葉も扱って見せられる。
だけど俺には自信がない。はたして自分は、Sがもし分身能力を持たなかったなら、暴力を思いとどまることが出来ただろうか? ……そのあたりの分別に全く自信がないのだ。
「……分身でも嫌でしょ」
「え? なんで?」
「痛くなかったとしても。自分と同じ姿の人が、目の前で理不尽に殴られてたら、それを見るのは嫌でしょ……」
「殴られてないよ」
「一緒だよ」
殴ったか、突き飛ばしたか。よろめかせることが故意だったか、過失だったか。そんなことはどうでもいい。された側がたとえ分身を眺める本体だったとしても嫌な気持ちになるだろうことは、どれでも同じだから。
Sは斜め上に視線を泳がせて、どこか遠くの虚空を見つめた。考え事をしている。次に口にする言葉を考えている。それが悪意の言葉ではないことをこの期に及んで期待している自分がいることが醜かった。
「……恵まれた家庭に生まれて、何不自由なく育って、夢だった俳優業に就いて、何の苦労もなくトントン拍子で売れた人がいたとするじゃん?」
「……え、うん」
「そしたらその俳優は、自分がドラマの中で理不尽に殴られるところを見て、嫌な気持ちになるものなのかな……?」
「…………そんなのは分からない」
Sが言おうとしている意図は分かった。順風満帆な俳優はドラマの中で虐げられる自分を見ても苦しまない、むしろ誇らしく思う、私はその俳優と同じだ……と、そう言いたいのだろう。
でも、俳優は時々自殺する。傍から見ていれば順風満帆に見えていた俳優が、時々突然に……。
「俳優になる人の気持ちなんて分からない。Sだってそうでしょ? 実際のところがどうかなんて、本人にしか分からない」
「そうだね。でも私は、本人だから。俳優の気持ちは分からなくても、サキュバスの気持ちは分かる。サキュバスはね……特に私みたいに強いサキュバスは、A君が言うようなことで嫌な気持ちになったりしないの」
「……そう言ってくれるのは嬉しいけど」
「けど?」
「…………」
「言って?」
俺が飲み込もうとした一言は、彼女の善意を無下にする物だ。だから口にしたくなかった。けれど、言いたいことがあるなら言えというきっかけで始まった口論から今に至っている以上、「言って」と言われれば、もはや言うしかなかった。俺だって口論がしたかったわけではないのだから。
「……俳優は、つらそうな役をやるのはつらくないんですか? と人から聞かれたら、つらいこともあるけどやりがいの方が大きいとか、とにかくポジティブな答え方をするものだと思う。本心でどう思ってるのかに関わらず、必ずそうするものだと思う」
「うん」
「だからサキュバス本人のSが大丈夫って言ってても、本当に大丈夫かなんて分からない。……と、思ってしまう」
「……うん、そっか。なるほどね。分かるよ、その気持ち」
「分かる?」
「だって、A君から大丈夫って言われた時の私も、同じ気持ちだから」
またやるせなさそうに、Sは複雑で優しい笑みを浮かべた。
彼女の分身は、精神的負荷からは生まれない。