セフレの女が死んだ。通り魔に刺されたらしい。この件について二番目に怖いことは、その犯人がまだ捕まっていないということだ。
そして一番目に怖いことは、死んだはずのその女がいま目の前にいること。それも超常現象じみて半透明の姿で。
彼女は何の前触れもなく俺の部屋に現れた。
「おっすA君。一週間ちょっとぶり」
「…………」
「え? おーい無視しないでよ。おーい」
俺は初め、彼女のことを無視しようとした。霊的なものは「見えている者」に取り憑き悪さをすると聞いたことがあったから。……が、良心の呵責が原因で、無視は十分ももたなかった。
女の名前はN子。生前は月一くらいで会う仲だった。お互い都合のいい肉体関係を結んでいるだけのつもりだった。少なくとも俺はそう思っている。
N子は自らを幽霊だと自称した。言われなくても見たままではあるが、彼女が本当に幽霊なら疑問が残る。
……執着する関係性ではなかったはずの俺の前になぜ現れたのか?
「あのさ、なんで俺なの?」
「え?」
「化けて出るなら、犯人を呪い殺すとか、もっと身近な人を頼るとか、いろいろあるでしょ。セフレの男とかじゃなくて」
「あーね。犯人はどこ居るのか分かんないし、家族とか友達はちょっとね……。今はほら、向こうが精神的にそれどころじゃないっていうか」
「あー……」
言われてみれば確かに、嘆き悲しむ身内の前に本人の姿は現しづらいものなのかもしれない。とはいえ、だからといって消去法で俺が選ばれるというのもおかしな話だと思うけれど。
N子自身は、自分が死んだことをさほど悲観していないようだった。ただそれは、死に納得しているということとは違うらしい。彼女は犯人探しを依頼してきた。あろうことか警察でも探偵でも何でもない俺に。
「頼むよA君、もどかしいんだよ」
「なにが?」
「私さ、犯人の顔がっつり見てるんだよね。背格好とかも覚えてるし、声も。だからって100%見つけられるって話じゃないのは分かるけど、でもなんか私だけがそれを知ってて、誰にも伝えられなくて、しかも犯人が捕まってないって……。嫌じゃんそういうの、気持ち的に」
「それはそうなのかもしれないけど……。俺にどうしろと?」
「A君、絵描くの得意じゃん。犯人の似顔絵描いてよ」
「はぁ?」
確かに趣味で絵は描く。一般人からすれば上手い寄りにカウントされる自信もある。だけど似顔絵捜査の真似事なんてしたことがないし、このプライベートな場でそれをやって何の意味があるのかも分からない。
「やったことないし、仮に描けたとしてどうする」
「警察に持っていってよ」
「俺が頭おかしいと思われるか、最悪犯人扱いされるだろ」
「じゃあそこは何か、上手くやって」
「上手くってなんだよ……。あとそもそもの話だけど」
「うん?」
「俺はまだN子が幽霊になったってことに半信半疑だから」
「えっ、話してるのに?」
「話せるから幽霊とは限らない」
「幽霊じゃなかったら何なの。半透明なんだよ?」
「俺の幻覚かもしれない」
「……なんで私の幻覚を見るの?」
「それは分からないけど……。幽霊が見えるのもよっぽど分からないだろ」
俺に執着していなかったはずのN子があれこれ理由を並べて俺の前に化けて出たなら、N子に執着していなかったはずの俺の脳があれこれ理由をつけて幻覚を見せている可能性も否定しきれない。ニュースを見たことが深層心理的には自覚よりも遥かにショックで……だとか。
何より、N子のことを幻覚だとより強く思っているのは俺ではなく、どちらかといえば社会の方だ。俺がN子の幽霊が見えると言い出せば、俺がそれを本気で証明したがるほどに、それを聞いた誰もが幻覚症状や精神疾患を疑う。逃亡中の犯人を警察に頼って捕まえるということは、そんな社会の中で生きていくということだ。社会がN子を幻覚だと思うなら、俺もそれに合わせて物を考えるしかない。社会常識的に考えて疑わしい以上、N子が幻覚である可能性を軽々しく捨てることはできない。
そして俺は、死んだ知人の無念の霊にならまだしも、幻覚なんかに生活を賭ける気はない。
俺とN子はその後しばらく押し問答の状態になった。彼女は彼女しか知らないはずの知識を披露して「幻覚ではあり得ない」と主張する。俺は「俺が知らないことなんだから嘘か本当か確かめようがない。俺の脳が勝手にでっち上げることもできる」と反論する。大体そんなことの繰り返しだった。
「大体、幽霊がそんなに簡単に見えるなら、とっくに社会に存在が知れ渡ってるはずだろ」
「簡単ってなによ、私殺されてるんだよ……!?」
「あぁ言い方が悪かったなら謝るよ。でも言っちゃなんだけど、理不尽に殺された人間なんて世の中もっと人数いるだろ」
「幽霊は最初に決めた誰か一人にしか見えないんだよ。私はA君にしか見えないし、他の幽霊もそう。幽霊を見た人は大勢いるけど自分にしか見えないから、みんなA君と同じで黙ってようとしてるだけ」
「またそうやって証明のしようがないことを言う。それじゃ結局、どのみち幻覚と同じだろ。俺にとっても社会にとっても」
「じゃあ私のこの心はどうなるの……?」
「知らない。その台詞も俺の脳がでっち上げた物かもしれないんだ。どうしてもっていうなら、幽霊だってことを俺にちゃんと証明してくれよ。ちゃんとだぞ?」
「……証明できたら犯人探しに協力してくれる?」
「犯人探しというか、まぁ似顔絵くらいは描いてもいい」
「分かった。……じゃあつかぬ事を聞くけど、A君ってアナルセックスしたことある?」
「はぁ?」
「私たちしなかったよね」
「まぁそうだけど」
「他の子とは?」
「してない」
「アナルに指を入れたことは?」
「ないよ。おい何だこの話は?」
「なら証明できる」
N子が俺の手をとる。驚いたことに、半透明の彼女にも普通の人間と変わらない触れた感触があった。何度も体を交えたから分かる、その感触は間違いなく本物のそれだった。けれどそれは本物であるがゆえに、「俺の脳が記憶から生成した物」である可能性を拭いきれない。何の証明にもならない。
「さわった感触あるでしょ?」
「ある。けどこれじゃ何にも……」
「手にさわれるってことは、アナルにもさわれる」
「……うん?」
「A君が私のアナルにさわって、そこに知らない感触があったら。そしてその感触が、生きてる人間のアナルをさわった感触と一致したら。それは私が幻覚じゃないことの証明にならない? A君の脳はアナルの感触を知らないんだから、現実とドンピシャのそれをでっち上げられるわけないでしょ?」
「そ……れは……、そう……なのか? え……? そう……そういうことになるのか……?」
アナルに触ると幽霊かどうかが分かる? 言葉の響きがバカバカしすぎて反射的に否定したくなる話だ。そんなわけねぇだろ! というツッコミがこの上なくお似合いに思えてしまう。
けれどどうにか冷静に考えてみると、彼女の主張を論理的に否定する方法はついぞ思いつかなかった。今の俺が知らないことで、今すぐ確認可能なことで、偶然の一致が起こるとは考えづらいこと。N子の主張する説なら、確かに要件を全て満たしている。
「そういうことになるんだよ。ということで、ちょっと今からアナルに指入れしてもらいます」
「マジかよ。正気か? しかもなんで入れるまでやるんだよ、百歩譲って触るだけでいいだろ」
「撫でるだけだと、お尻拭いた時の記憶から結びついてるかもって言わない?」
「……言われてみたら確かに言うかもだけど」
「でしょ? ていうか今さら恥ずかしがることなくない? 手マンは無限にしてくれたじゃん。ちょうどこの部屋誰もいないし」
「そういう問題なのか……?」
「じゃあ他に証明する方法ある?」
「うーん……」
……思いつかなかった。
それに正直、好奇心も刺激されている。アナルへのではない。幽霊の実在を証明できるかもしれないことに対してだ。その証明方法は社会に対しては通用しないけれど、しかし俺個人に対しては完璧に機能する。もしも本当にこの証明が成り立つなら……と思うと、純粋に確かめたい気持ちが沸いてくる。
「……えっとじゃあ、ローションとかいるの? よく分かんないんだけど俺」
「あ、幽霊は見えてる人には触れられるけど、他の物には触れられないから。ローションも」
「あ、そうなんだ」
「じゃなかったらそれこそ社会に幽霊が認知されてるでしょ」
「た、たしかに」
が、そうは言いつつもN子は現在服を着ている。服まで半透明だからそれも幽霊の一部ということなのだろうけど、「一部」を目の前で脱がれると、なんだかおかしなことが起きている感じがする。
彼女は下だけ脱いで尻をこちらに突き出し、どうぞと言った。壁に触れられれば壁に手をついていたのかもしれないような体勢だった。俺たちの仲でそれを今さら恥ずかしがることはない、恥ずかしがることはないのだけど……。
……俺は、幽霊の実在を確かめることにした。確認には二つのステップがある。まず一つ目を終えて、N子に脱いだものを履かせる。
「じゃあちょっと、トイレ行ってきます」
「はーい」
トイレの中で二つ目のステップを行う。一つ目はN子のアナルに指を入れてみることだった。であれば二つ目は当然、生きている人間のそれの感触を確かめることになる。この部屋には誰もいないから、生きている人間とはすなわち、俺自身のこと。
トイレから出た俺は、N子に告げる。
「似顔絵を描こう」
「よっしゃ!」
彼女いわく、まず犯人の目元は、不祥事を起こして表舞台から消えた某男性アイドルに似ていたらしい。ネットでそのアイドルの画像を探す資料調達から似顔絵作業は始まった。「最近見てないもんね」とN子は笑っていた。彼女が幽霊である以上、彼女の心も実際にある物だ。その心がいったいどんな構造をしているのか、今さらながら俺にはよく分からなくなってきた。
だけどパーツごとの指示が進み、似顔絵が少しずつ完成に向かううちに、俺は彼女の心の一部分を理解していく実感を持つことになる。「もどかしいんだよ」、犯人探しの動機を彼女はそう表現していた。今なら俺にもその気持ちがよく分かる。
完成した似顔絵を見て、N子はそっくりだと手を叩いた。その頃には俺も、この似顔絵をどうにか不自然ではない形で警察に持ち込む方法はないかと、人を納得させるための作り話を編むことに思考を張り巡らせていた。
殺されたN子が幻覚でない以上、この似顔絵を俺たち二人だけの物にしておくのは、確かにあまりにももどかしいことだから。