氷菓くん短編集   作:氷菓くん

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2023 09/24 サキュバスはありがとうが言える

「世の中には、「ありがとう」が言えない人間を排斥しようという風潮があるじゃないですか」

「あー、まぁね。あるかも」

「ぼくはそれが苦手なんですよ」

「それって風潮が?」

「いや、ありがとうを言うことが」

「なんでー? 簡単だよ言うの、アリガトウ」

「そりゃ音読することは簡単ですけどね。こう、自然に口から出てこないんですよ」

「ふむ」

「たぶん、人に対して「ありがとう」と思うこと自体が、ほとんどないからなんだと思います。ありがとうって心から思えば、ぼくだってさすがに言いますし」

「なるほど? つまり君は、他人からしてもらえる大抵のことを、してもらって当然だと思っている……?」

「当然とまでは言いませんけど……。なんというか、「あ、どうも」ってくらいじゃないですか? 大抵のことって」

「その「あ、どうも」をアリガトウにすればいいんじゃないの」

「いやいや、「あ、どうも」は「あ、どうも」じゃないですか。「ごめんごめん」が訳もなく「すみませんでした」にはならないみたいに、「あ、どうも」だって訳もなく「ありがとう」にはならないでしょう」

「はぁ、なるほど」

「でも世の中の風潮として、ありがとうが言えない人間は排斥されがちなんですよ。あ、どうも、を言えてもダメなんですよ。これっておかしくないですか?」

「う〜ん……。まぁ確かに、あいつありがとうを言わないぜ、村八分にしてやろう! って流れがあったらそれはおかしいと思うけど、たぶん君の言う「排斥」っていうのは、そういう感じではないんじゃないかなぁ」

「というと?」

「いじめで無視されることと、単に嫌われていて邪険に扱われることは別だと思わない?」

「どうでしょう? 邪険の程度にもよると思いますけど」

「じゃあさっき言ってた「排斥」は、明確ないじめだけを指す言葉?」

「いや、うーん……。……薄ら嫌われることとかもわりと排斥に当たる気がしますね」

「でしょ? だから、ありがとうが言えない人っていうのはさ、いじめられて排斥されるわけじゃないんだよ。シンプルに嫌われちゃうんだよ」

「はぁ、なるほど。……そんなに嫌われるほどのことですか? ありがとうが言えないって」

「う〜ん、まぁそれは人によるけど……。……私が思うにはね?」

「はい」

「ありがとうが言えない人っていうのは、相手を喜ばせようっていう気がない人だと思うんだよね。っていうのは、ありがとうって言われると、やっぱり基本的には嬉しいでしょ?」

「まぁ、基本的には」

「でしょ? ありがとうが言えない人もそこまではなんとなく分かってると思うんだよね。……で、そういう人はそういうことが分かった上で、相手を喜ばせようという気がないような振る舞いをするわけだから、そこが不愉快に映るんじゃないかなぁ。なんかこう、ものすごくケチに見えるっていうかさ。ありがとうを言うことってそんなに大変なことではないわけでしょ? だから例えるなら、ありがとうを言わないことは、ジュース一本たりともお前には奢らない! みたいな態度と同じに見えるみたいな」

「……相手を喜ばせようとしないことはアウトで、アウトな人をディスることはセーフなんですか?」

「いや、一般論だよ一般論。私はべつに、君がありがとうを言えても言えなくてもどっちでもいいと思ってるよ。けど君の言う排斥をしている人たちとしては、そういう気持ちがあるんじゃないかなぁって、私はそう考えてみてるの。考えたあとどうするかっていうのはまた別の話」

「なるほど……。でもやっぱり、仮にありがとうを言わないことが相対的に不愉快なのだとしても、それをディスったり、言外なディスである排斥を行ったりする人たちっていうのは、不愉快さという点では同じ穴のムジナなんじゃないですかね? 片方だけがもう片方を排斥することに正しさなんてあります?」

「いや、まぁそうかもしれないけどね。でもそのムジナは、君がありがとうを言うだけで穴から出てこなくなると思うよ?」

「あくまでもぼくが悪いと……?」

「う〜ん……。でも、だってそうじゃない……? もし君がありがとうを言うことで、他人を「嫌な奴」じゃなくできるなら、逆に君はありがとうを言わないことで、他人を嫌な奴にしてしまっているんじゃないのかな……。だとしたらそれっていうのは、なんというか、こう……」

「ありがとうを言えないやつをこの世から消し去ることこそが、理想の社会を作る方法だと。そのための排斥だと」

「いやそうは言ってないでしょ」

「言ってますよ。……でもまぁ一理ありますね」

「お、じゃあこれからはありがとうを言えるように頑張れそう……?」

「……いや、あんまり」

「え〜、なんで……?」

「なんでだと思います?」

「…………そもそもこの世に嫌な奴じゃない他人なんて一人もいないと思ってるから?」

「ありがとうを言ってもどのみち無駄ってことですか? ……客観視点すぎません? 他人事というか無責任というか」

「どゆこと?」

「あのですね、「ありがとう」を言おうと言うまいと、ぼくは内心では大してありがとうとは思ってないんですよ。「あ、どうも」くらいなんですよ、さっきも言いましたけど」

「うん」

「でも、ありがとうとはさほど思ってない人間に、それでもありがとうを言わせたいわけでしょう? 言われた相手を喜ばせるために、それくらいするのは人として当然だっていうんでしょう?」

「なるほど。それが不道徳だと」

「違いますか?」

「……まぁ確かに、一理あるかも。本当はつらい人に「つらいなんて口に出したら人に心配かけるだけでしょ!」なんて言う人がいたら見下げ果てるし、他人のために本心ではないことを言わせようとするって行い自体には、議論の余地があるよね」

「そう! そうなんですよ! だからぼくはやっぱり、思ってもないありがとうは言いたくないんですよ」

「なるほどね、よく分かった。…………でもねぇ、人間関係っていうのは時々だけど、見下げ果てるようなクズっぷりを前提にして回っていることがあるような気が私はするんだよね」

「そんな前提で回っている関係性なんてぶち壊した方がいいのでは……?」

「う〜ん、まぁ場合によってはそうだと思うよ? でも、そうじゃない時もあると思う」

「というと?」

「たとえば君が風俗に行って、適当にサキュバスの子を買ったとするでしょ?」

「……うん? はい」

「すると君は当然、サキュバスっていうのは性のプロフェッショナルで、よほどの難題をふっかけない限りは、自分のことをそれなりに満足させてくれるはずだと考える。……普通の人間はありがとうが言えるはずだ、と考える多くの人と同じように、君は「普通のサキュバス」を信頼しているはず。……そうじゃない?」

「それはまぁ、少なからずそうだとは思います」

「でしょ? それで部屋に来たサキュバスにフェラさせて飲ませた時にさ、「おいしい♡」の一言も言えない子が来たらどう思う? あぁ次があるなら別の子を指名しようかなぁって思わない?」

「……いや、まぁ、それ一つだけを切り取られてもなんとも言えませんけど……。でもまぁ確かに、そういうリップサービスをしてくれる子を抱いたあとにそうじゃない子と当たったら、うーんって思う可能性はありますね」

「でしょ? 要するにそういうことだと思う」

「え、なにが……?」

「だから、私たちサキュバスからしたって、べつに精液がおいしいとは思ってないんだよ。でも喜んでもらえると思って、おいしい♡って言ってるの。君だって大きな声じゃ言えないかもしれないけど、そういうサービスの良い子が好きでしょ? それともありがとうを言いたくないことと同じで、そういうサービスだってなくなってしまった方がいいって思う?」

「……いや、それはだって、おかしいでしょ」

「どこが……?」

「だってぼくはサキュバスでもなければ風俗嬢でもないし、ぼくが想定している「ありがとうを言うべき場面」がある場所は、断じて風俗店ではないですよ。風俗の倫理を外の社会に持ち込むなよって話でしょう」

「じゃあ外の社会で君に愛想良くありがとうを言ってくれる女の子は、内心では全然感謝なんてしてないかもしれないけど、そういう時はそれなりに冷たく振る舞ってくれた方が君としては嬉しい? 愛想いい女の子は絶滅するべき?」

「……いや、それは、ちょっとなぁ……」

「でしょ……? なら、他人からもらえる物は喜んで受け取るのに、自分から同じ物を返すのは嫌だっていうのは、やっぱりちょっとおかしいんじゃないかな……?」

「……一理ある」

「うん、分かってくれてよかった」

「…………でも、じゃあ、今みたいに自分の醜さに気がついた時って、それとどう向き合っていけばいいと思います……? ぼくはいったいどうすればいい……?」

「いやだから「ありがとう」を言えばいいんだって」

「でも、思ってないことを言わなければならないことには議論の余地があるって、さっき言ってたじゃないですか」

「言ったけどさぁ。……けど実際問題、ありがとうが言えない男となんてきっと誰もエッチしてくれないよ? お金を払えば別だろうけど」

「……分かってますよ」

「なら、もう少し考えてみてもいいと思うな。あくまでも私はだけどね」

「うん」

「…………そろそろ時間だ。延長は?」

「いや、いいです」

「そう。じゃあ、お疲れさま。ありがとうね」

「いや、こっちこそありがとうございました」

「……言えてるじゃん」

 

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