だから書いた。
君は
秦嶺・淮河以南、俗に「嶺南」と呼ばれる地に栄えた名高い門派である。
武林における一大宗派であり、七大派の一角に並べても不思議はない。
だが、いまや赫々たる名声も地に落ち、門人は虚言によって貶めることを至上としている。
その中でも今江湖で特に有名なのが、
噂によれば南溪は―――
―――眉目清秀の紅顔の女侠である。だが、その美貌に騙されてはならない。
彼女がどうして七星剣を得たか知っていれば、得心するだろう。
嶺南を追われ、傷心の七星剣主を褥に呼び、淫蕩の限りを尽くし、遂には己の体を虜にさせたからだ!
南渓はかつて周の文王を堕落させた妲己にも比肩する。
嶺南が堕落したのも全ては宝剣たる七星剣を女怪南溪が掠め取ったからに他ならない。
また、情けをかけた青臉天王を背中から非情にも刺し殺す冷血非道の魔人でもある!
幸いにも嶺南は南溪を捕まえるため、方々に追っ手を放ち、懸賞金も出すという。
何度でも言おう! 南溪はその美貌を使い、多くの武侠を貶めてきた。
君も用心するように。噂では、極楽教の術すら操り、夜な夜な男の精を搾り取ってしまうだろう。
(うるせえなぁ。飯が不味くなるよ)
趙活は辟易していた。
二師兄の怒声と共に下された命により、毒薬を盗んだと思われる晁和捜索のついでに寄った茶屋にて叫ぶ嶺南の門人のせいだ。
三師兄の教育や葉兄の件もあり、出所不明の噂話を好まなくなっていたところに、人に聞かせるためだけのガナリ声が聞こえてくればどんな料理が出てこようとも心は曇っていく。
茶屋の主人も同じ想いなのだろう。眉間のシワは注文した時より増えている。
(しかも間違えている。妲己が籠絡したのは殷の紂王だ。周の文王は紂王を討伐した側だろう。)
どんな名文も一文字の誤りで駄作になる。故に名人は最後まで気を抜くことはない。胡乱な知識で話を盛っている以上、噂の真相も怪しいところだ。
さらに言えば、嶺南が堕落したのは小人の現掌門が策謀に耽っているからだと、趙活は三師兄より学んでいる。
頭に覚えるべき内容ではない。趙活はそう判断した。
趙活は茶屋に入る前には少しばかり休もうとしていたが、嶺南の門人が後からしつこく迫ってきたため、結局無理を押して茶屋を後にする。
料理は温かったが心は冷えた。
「はぁっ、はぁっ……クソっ、あの野人、ぐっ……!」
一辰後には日が落ちるという頃、街の外れにある森の中を1人の女侠が追われていた。
嶺南派の衣服を纏い、手には七星剣を握る彼女こそ、嶺南剣派の直系伝承者、南溪である。
「どっちに行きやがった?」
「こっちだ。枝が折れてる」
対して、彼女を追うのは数人程度の徒党を組んだ賊である。
南溪は決して噂通りの人間ではなく、むしろ江湖でも指折りの武功の持ち主だ。彼女であれば、たかだか数人程度なら油断さえしなければ瞬きの間に斬り伏せることができただろう。
ただ、それも正面から立ち向かえばの話であり、そして弱者を虐めることを厭わない賊が正面から襲うはずがない。
ましてや毒薬を持っていればなおのこと。
「しかし、あの野郎が持ってた毒がここまでとはな」
「ちげぇねぇ。本当に唐門の毒薬だったかもしれん」
「なら少し残すんだったな。少量でも高く売れたろうに」
「全くだ! もったいないことをしたな」
南溪や趙活は知ることができないだろうが、賊に毒薬を渡したのは晁和である。
彼はくすねた毒薬を売ろうとするも怪しさから売れずにいたところ、偶然にも南溪を見つけてしまったのだ。
懸賞金や七星剣、あわよくば南溪そのものを手に入れようと、毒薬を賊に渡して襲わせたのだ。
晁和は折を見て南溪を匿い、解毒薬と偽って麻痺毒を飲ませ、彼女の全てを手に入れようと画策していた。
ただ、晁和程度の策は賊風情にも見破られ、晁和が指定した方向とは逆方向に南溪は追い立てられていた。賊の狙いも懸賞金ではなく、南溪の全てなのだから。
「噂は当てにならないもんだが、たまには当たる。愛想のなさが玉に瑕だが、それでも上等の女だぜ」
「いかに武功が高くとも、手足の腱を断ってしまえば赤子当然。しばらくぶりに楽しめそうだなぁ」
「全くだ。おっ、こっちだ! そろそろ近そうだ」
賊の下衆な声が次第に近づいてくるにあたり、南溪はそれでも力を振り絞って逃げていく。それでも時間が経つにつれ、疲労と毒によって身体が鉛のように重くなっていくことを感じていった。
いつか追いつかれ、捕まってしまえばどうなるのか。あらゆる恐怖がゆっくりと彼女の心を侵していった。
それでも南溪は何とか内功を練り、体を動かす。諦めるべき時などない。七星剣をこの手に握ったその日から、彼女はそう誓ったのだ。
ただ、どれだけ強い誓いであっても、身体を襲う風雨を防ぐことはできない。
南溪に天運はない。
彼女のこれまでの生涯は、それを如実に示していた。
小人に貶められた七星剣主を助け、剣さえ与えられるも教えは受けられず、運よく教えを授けてくれた青臉天王も策によって無残に殺された。
それから彼女は追われる身となり、淫魔の類と噂を流され、男からは襲われ、女からは蔑まれた。
数多くの武侠が、彼女と同じように大侠に憧れ、儚く散っていった。
南溪の身体を襲う毒は、その時が今であることを示していた。ただ、その末路がより無残に尊厳を奪うだけである。
南溪に天運はない。
今や誰も彼女を助けない。
人は言う。土や泥で汚れ、所々ほつれた服が何よりの証左だと。
人は言う。お前の今までの所業が返ってきのだと。
―――ならばその手を取るのは天に捨てられた
「おい、大丈夫か」
「え……?」
苦痛の中唐突にかけられた柔らかい声に、南溪は顔を上げた。
声の主の顔は夕日による逆行で隠れて見えないが、敵意がないことを読み取れる。
「あなたは……?」
「これは、毒か!? 待ってろ、今解毒薬を―――」
「いた! 南溪だ!」
夕日を背にした侠客に、賊の怒声が響いてきた。
南溪は緩んだ頬を引き締め、七星剣を構える。
「隣にいるのは誰だ?」
「毒の野郎だ! 裏切りやがった!」
「!? き、貴様!?」
「はぁっ!? でたらめ言うな!」
南溪は山賊たちの声に心が引き裂かれそうになった。
裏切りと絶望の中、ようやく会えた義侠の輩ではないのか。
澱んだ思考しかできず、言葉の正誤を確かめられない南溪は、目尻から涙が溢れそうになりながら、七星剣を趙活に向ける。
剣を向きを変えたのは、距離の遠近だからではない。
地獄の中に差し伸ばされた菩薩の手が、妖怪の舌であることに怒りと絶望を覚えない者はいない。憎悪とは愛の深さで決まるのだ。
しかしその心の揺らぎが、必死に抑えていた毒が一気に回ってしまう。
「がはっ! あ、あぁ……」
「女侠っ!」
南溪の口から毒によって黒ずんだ血がとめどなく溢れてくる。
臓腑は焼け付くように熱いのに、手足は氷雪のように冷たく感じた。
どれだけ内功を練ろうとも、崩れた砂城は戻らず、南溪は地面に倒れ伏す。
南溪の心は諦めで埋め尽くされ、心身の目を閉じるほかない。
差し出された手を振り払った彼女に、どうして救いの道があるのか。
薄れゆく意識の中、彼女は虚ろな目をした嶺南掌門の声を聞いた。
―――七星剣を掘り出したら、売ってしまえ。江湖は君が思うような場所ではない。
(ごめん、掌門……私は、なにもできなかった……)