ほのかに甘い香りに鼻をくすぐられ、南溪はゆっくりと
「……ここは?」
パチパチという焚き火の音に安らぎながら身体を起こす。
建物の造りから、どこかの廃寺だろうと、南溪はアタリをつけた。
外はすっかり日が落ち、屋根を叩く雨音が聞こえてくる。
「おっ、目を覚ましたな」
そんな中、不意に聞こえた男の声に南溪は悪寒を覚え、音とは逆方向に飛び退く。
「っ!? 誰だ!」
飛び退いた先には瓦礫もあるが、崩すことも音を立てることもなく、瓦礫の上に両の足で立つと、すかさず声の主を問いただす。
南溪は七星剣を手にしようとして空を切り、始めて自分が今武器を取り上げられている事に気が付く。
そればかりか嶺南の外衣を脱がされていることに気付き、南溪の怒りは烈火の如く燃え上がる。
「男女授受不親」の教えがある以上、彼女の怒りは当然のものだ。
「……殺す!」
「待て、話せば分か、危ねぇっ!」
南溪は男が言い終わる前に、足刀を顔へと放つ。
「黙って死ね!」
洗練されたその動きから、素人が見たとしても拳掌の覚えがあることは分かるだろう。
とはいえ、距離があったため躱されてしまい、右足が風化した壁をぶち破る。
南溪は決して男を逃がしてなるものかと、すかさず拳を放ち、肘に膝、技を次々と続けるも、これまたスルリと避けられてしまう。
「ハァ、ハァ、ネズミのように煩わしい……!」
急に動いたせいだろうか。ほんの数回技を出しただけで、南溪は息を荒げ、動きが止まる。
好機とみて、男は叫んだ。
「落ち着いてくれ! 脱がせたのは外衣だけだ! 仕方ないだろう? 君の外衣は血とゲロと毒薬塗れだったんだ。川で洗い流さなければ、もう二度と着れなくなるぞ」
「……」
「外衣ならそこにある。決して邪な想いはない。もしあるなら、今ごろ君の手足には縄で縛っていただろうに」
「……」
「剣なら君が寝ていたゴザの下だ。こうなるだろうから、隠していたんだ。だから……女侠?」
「………………気持ち悪い」
南溪は口を手で抑えながら腰を下ろす。
理路整然とした状況説明と、敵意や悪意を認められず、男が悪人ではないと分かった途端、喉の奥から迫る焼け付くような痛みと嘔吐感に襲われたからだ。
「君は毒を受けたんだ。解毒薬は飲ませたが、おそらく喉のあたりがやられてるな。覚えてるか? 君は血も吐いたんだ。しばらく横になったほうがいい」
「横になれば楽になるのか?」
「ならない。だが俺は唐門の者だ。医術の心得もあるし、準備もある。今痛みを和らげる薬を調合するから、それまで身体を休めてくれ」
「……分かった」
南溪は男の言葉に従い、先ほどまで横になっていたゴザへと向かう。
よく見ればゴザには不自然な膨らみがあり、ゴザを少しめくるだけで七星剣を見つかった。
外衣も水をたっぷりと含んだ状態で、縄に吊るされ干されていた。
例え衣類を脱がされていたとはいえ、性急過ぎたか? 南溪はバツが悪そうになりながら横になる。
いや、誤解を招くようなことをしたほうが悪いのだし、そもそも賊共も彼を裏切り者と
そう思考を切り替えた南溪は、ゴリゴリと薬の調合をしている男へ視線を送る。
彼の第一印象は何かと問えば、道行く百人全員が『醜い』と答えるだろう。
そしてそれは南溪も同じだった。
心身が弱ると人は卑屈になるものだ。
彼の醜さに対し、南溪は失意のため息を吐く。
――もし彼が少しでも
不意に南溪はそのような考えが頭をよぎり、衝動的に奥歯を噛み締めた。
(私は何と失礼なことを考えたのだろうか。どのような理由があるにせよ、3人の賊を相手にしながら、毒を受け動けぬ私を彼は助けた! 礼を言うのが何よりも先のはずだろう!)
「……その、小侠」
「ん?」
「礼をまだ言っていなかった。ありがとう」
「いいんだ。実を言うと君が受けた毒の責任の半分はこちらにあるんだ」
そう言うと男――趙活は事のあらましを語った。
唐門から毒が盗まれたこと。自分は毒を盗んだであろう晁和を追ってきたこと。晁和は自分に似ていて、さっきの賊はそれで勘違いしたんじゃないかということ。そうそう賊はいざという時の煙玉を投げながら、毒だ! 猛毒だぞ! と叫んだら尻尾を巻いて逃げていったこと。
趙活は話している間にも手を止めず、時に淡々と、時に堂々と、時に仰々に、話のタネは尽きることなしと言わんばかりに語り続け、遂には全く関係のない話まで始める始末だ。
南溪は自分を苦しめた毒の
(こうして人と話すのは、人の声を聞くのはいつ以来だろう)
嶺南に狙われ、噂に
声が聞こえるのすら
趙活の話は正直に言って、そこまで上手くはない。
時々話が止まったり、明後日の方に行ってしまうこともある。
講談師がここにいれば、苦虫を潰したような顔をしただろう。
しかし、趙活は南溪を和ませようと誠実であった。
彼は決して南溪のことを聞こうとしない。喉をやられている彼女が喋らなくてもいいからだ。
彼は決して鬱々とした話もしない。傷つき弱っている彼女には、そうした話こそが毒になりえると知っているからだ。
南溪はそのことに気がつくと、趙活を容姿で見下していた己を
改めて見ても、やはり彼は醜い。
例え新月の闇の中だろうと、晴天の下であろうとも、趙活の醜さは少しも
しかし、肌に刻まれた無数の傷が、両手に残る柄の跡が、間違いなく彼が江湖に生きる1人の武侠であることを証明していた。
趙活の話はどんどん盛り上がっていく。そんな彼を見ながらいつの間にか、南溪は大冒険をしてきた我が子の冒険譚を聞く慈母のように、愛おしそうに趙活の話に耳を傾けていた。
「さぁ話も上々。女侠、薬が出来たぞ〜」
「あぁ、ありが、と……?」
南溪は趙活から渡された
少なくとも、彼女の記憶にある薬の中に、濁った緑黄色の液体というものはない。
見るだけで正気を疑いたくなるようなソレに、彼女は怯まざるを得なかった。
「……これを、飲む?」
「飲むんだ。恐ろしく苦いが、痛みがかなり和らぐぞ」
「…………薬効はあるのか?」
「あぁ、保証する。死ぬほど苦いが」
「……………………本当に?」
「女侠、この薬は見ていても身体に効かないぞ。飲まないと意味がない。コツは薬湯を飲むとは思わないこと。蛇が卵を吞むように臓腑へ届けることだ。コイツの味を知ると二口目は絶対拒絶するからな」
南溪は薬を飲むことを決意し、しかし寸前で止めるという動きを四度ほどした後、意を決し、一気に薬を飲み干し――飲んだことを心の底から後悔した。
「〜〜っ!?!?」
南溪は確信した。吐く。絶対吐く。吐かねばならない、と。
「おおっ! ちゃんと飲んだな。ほら、口直しの
「んっ!? んっ!! くっ、はっ、はぁ、はぁ、こ、これ、毒じゃないか!?」
「女侠、いい機会だから教えるが、唐門の毒は無味無臭が多い。味があるのは薬だけだ。
趙活は穏やかに笑いながら、南溪から椀を受け取った。
「俺は道具を片付けてくる。女侠は寝て、少しでも体を癒すんだ」
白湯で
(これで痛みが取れないならどうしてやろうか。威風が出るとでも言って、薄皮一枚分、顔に傷をつけてやる)
すっかりへそを曲げた南溪は少しでも気を和らげようと
ふと、趙活が自分の名前を言わなかったことに気付いた。
(そういえば、名乗っていなかったな)
南溪は何度目かも分からない自省の念を覚える。
(趙侠が戻ってきたら、きちんと名乗らなければ)
そう考えると、ちくりと彼女の心が痛んだ。不思議に思うがすぐに分かった。
「南溪」の名はすっかり汚れてしまっている。
彼が自分を「南溪」だと知ったならば、どうなるだろうか。
今まであった
しかし、彼は違うかもしれない。
そう信じたい。人を
だが、彼も他と同じだ。
そう決めてしまいたい。人を信じるのも、疲れてしまった。
(あの醜くも輝かしい男に、どうしてこんなにも心を乱されてしまうのか。……あぁ、本当に疲れた。気の迷いだ。いっそ、このまま……)
南溪は何かを決意しようとして、しかしそれはスルリと零れ、彼女はゆっくりと夢の世界へ
結局、南溪が何を決意しようとしたのかはもう分からない。
彼女自身も忘れてしまったからだ。
雨の中戻ってきた趙活は、すぅすぅと子犬のような南溪の寝息を邪魔しないように、彼女へ布をかけてやると、そのまま朝まで寝ずの番を務めた。