江湖に一つ大きな話題が流れた。
各門派同士の交換留学である。
事の発端は数か月前の
この宴の中、南宮家の長老である南宮
ただ、このような話は南溪にとって無関係の話でもある。
南溪が修める
ましてや、南溪は宝剣『
推薦状一枚も用意できない彼女がどこに行けるのか?
唐門の
今の彼女が身一つで安心できる場所は、
とは言え、趙活からの紹介で役人の
ただ、取消すことができたのは(無論、南溪本人の賊徒撲滅の功もあるが)噂を広めていた嶺南剣派の門人らの悪行が
さて、南溪からしてみれば対岸の火事ならぬ宴である。
月夜の下、南溪が明日の仕事は何をしようか。指名手配犯の情報がどこかにないかと、外堡の屋根の上で酒を片手に物思いにふけっていたところ、とある男が呼びかけた。
「南溪、今いいか?」
「趙活か。ちょうどいい、隣に来い」
趙活だ。月夜に照らされた彼の顔を見れば、十人中十人が妖怪が出たと慌てふためくだろう。
ただ、南溪は趙活の顔を見ても少しも動じなかった。
酒が少し入っていたし、そもそも彼の顔はもう見慣れている。
事前に声もかけられたのに、どうして驚く必要があるものか。
寧ろ、話し相手が来たと彼女は喜んだ。
「え? 何だよ、今日は酒も食い物もないぞ」
「お前は私を何だと思っているんだ。
「君こそ湘姉を何だと……いや、この場合だと合っているのか」
どういう意味よ弟! と。心の中の龍湘は
趙活は心の中の龍湘へ鶏ももを渡し、黙らせる。
「実は日雇いの仕事で良さそうなのがなくてな。唐門のほうで何か仕事がないか、紹介してほしいんだ」
「宿屋で給仕の仕事があったろ」
「あったが、龍湘が客を斬って、クビになった」
「本当に何やってんだよ、湘姉……」
まぁ多分無礼な酔っ払いだったんだろう。龍湘は意味もなく人を斬らない、よな? と趙活は納得(?)した。
「まぁ、注文もせず、私にしつこく言い寄ってきた奴だったからな。湘姉がやらずとも、遅かれ早かれ私が斬っていた」
「畜生! そこに俺がいたら、そいつに唐門の毒の恐ろしさを嫌というほど教えてやったものを!」
趙活はすかさず激怒した。そして相手を見事切り伏せた龍湘に喝采を送った。
今度龍湘が帰ってきたら、鶏もも料理をご馳走しようと決めると、心の中の龍湘は大いに喜んだ。
「それは心強い。今度給仕の仕事を受ける時はお前を呼ぼう。で、仕事はあるか?」
「まぁ、仕事ならある。今度、別門派から留学しに来るからな。その準備で今、唐門は大忙しだ」
「あぁ、そういやそんな話があったな。分かった、手伝おう。明日でいいか?」
「まだ内容も、賃金の話もしていないぞ?」
「普段世話になっている家を手助けするのは当然だろう? 賃金もいらん。幸い、少し余裕もある」
「……なら、その分の料理を用意しておこう。勿論、酒もつけるさ」
趙活はそのように言いながら、当日どのようにして賃金を彼女に受け取ってもらおうか考えていた。心の中の龍湘は堂々と渡せばいいじゃないとお気楽だ。
「ふふっ、お前の料理は楽しみだ。たくさん働いて腹をよく空かさないとな。……ところで趙活、私に用事があったんじゃないか」
「おぉそうだった。南溪。その、君も唐門へ留学してみないか?」
「留学? 私が?」
南溪は突然の提案に驚いた。考えてもみないことだった。
「あぁ。賊と斬り合ってはいるものの、ちゃんとした鍛錬はあまりできていないだろう? いい息抜きにもなると思うし、どうだ?」
「ううん……」
南溪は考えながら、酒を一口くいっと
彼女の顔をよく見れば、柔らかそうな頬が
しかしながら趙活は、月夜に照らされた南溪の横顔に見とれ、ただ返事を待つばかりの石像となっていた。
「うん、面白そうだな」
南溪はそう返事したが、実のところ特に深く考えずに言っていた。
ただ、唐門の医学には前から興味があり、酒が入っていたこともあって、聞かれたことに対してどんな気分かどうかで返答してしまったのだ。
しかし、趙活にとってみれば望んでいた肯定の返事に聞こえたため、そうした彼女の心の機微にも、酔っていた彼女の目が少し泳いでいたことにも一切気が付かなかった。
「そ、そうか! 良かった! じゃあ明日、掌門に話を通してくるからな! 遠出とかしないでくれよ!」
「ん? あぁ勿論。頼んだぞ、趙活」
「応!」
趙活は南溪からとても前向きな返事ばかりか、念押しまでされたことで発奮し、床に穴をあける勢いで頼み込もうとしていた。
一方南溪は、どうして趙活は明日の手伝いにあそこまで張り切っているのか分からず、首をかしげたが、流石に寒くなってきたため、部屋の中で飲みなおすことを決め、疑問を頭の中から弾いてしまった。
翌日、定例の唐門会儀で南溪の留学を願い届けると、意外にも掌門は快諾した。
掌門は趙活の下心を見抜いていたが、南溪は良く働き、唐門にも礼を尽くしていたため、好感をもっており、そうした女侠と交流を深めるならば、寧ろ老婆心ながらに応援したくもなっていたからだ。
この様子を見て、大師兄はこの身の程知らずの恋にほくそ笑み、どのようにからかってやろうか考えていた。
二師兄は未だに彼女を警戒していたため、師弟の浅薄な行動に不機嫌になり、静かに舌打ちした。
三師兄は礼儀正しい、かの女侠であれば、大きな問題は起こさないだろうと安心した。
四師兄は美貌確かな彼女を利用して、どうにか金儲けできないか思考を巡らせている。
小姉妹は師兄がかまってくれないばかりか、他の女性の話をしたので、面白くなくなり不機嫌になった。
なお、これを知った唐門門人大いに喜び、趙活を(一日だけ)厚く
そうした反応を
「南溪! 聞いてくれ! 掌門が君の留学を許してくれたぞ!」
「そうか。じゃあ早速……ん? 留学?」
「あぁ! 留学だ!」
南溪は思った。あれ? なんでそんな話になっているんだ。と。
しかし、趙活があまりにも喜色満面の笑みで語るため、彼を気落ちさせないように、南溪は渾身の演技で喜ぶフリをした。
「お、おお、ありがとう趙少侠。この南溪、感謝の極み」
「……もしかして、何か早とちりしていたか、俺」
「そ、そんなことはない。ただ、えぇと、そう、あまり期待をしていなかった。何せほら、私の名声はアレだからな」
「南溪。遠方ならともかく、この辺りで君を下に見ている者はもう誰もいない。今回の留学だって、掌門も喜んで賛同してくれた。『南女侠ならば推薦状なぞ必要ない』ってな」
「唐掌門が?」
南溪は本当に驚いた。唐門の掌門である唐中翎と言えば、武功も武名も遥か高みにあり、彼女にとっては雲上の人である。
また、かの大侠
その大侠が自分を評価しているということに、南溪へ何か熱い想いを抱かせた。
「君はもう淫賊の汚名に縛られることはない。留学中も堂々としていればいい。他所の門派に何か言われたら俺に言え。例えこの身が擦り減ろうが、そいつを地の底まで追ってやる!」
「趙活……」
南溪は趙活の激励に胸が高まっていくことを感じ、改めて彼に向き合い、
「趙少侠、私を唐門へ留学させるため、尽力いたしましたこと、深く感謝を示します」
趙活は彼女の礼に一瞬驚くも、すぐに応えた。
「あぁ、唐門は君を歓迎する。よろしくな、南溪」
「はい、趙少侠」
二人の顔はこの日のようにとても晴れやかだった。
一人は美しく、一人は醜いが、彼らの心はそれ以上に明るく、同じように前を向いていた。
「ところで趙活、準備の手伝いはどうした?」
「……あ!」
結局、趙活は唐門大院の長い石階段を駆け上り、許可を得てから、また石階段を駆け下り、南溪と一緒に再度登っていった。
普段鍛えているとはいえ、何度も昇り降りするのに
こうして、南溪の唐門留学は決まった。
しかし、この留学は彼らには思ってもみない、だが当然とも言える状況へと至った。
趙活は江湖の男たちの厚かましさを、南溪は自分の美貌を、それぞれ甘く見ていた。
独り身の若く美しい女性が、若く貪欲な武侠達の前に出てきたとして、どうして何も起きないと思ったのか。
つまり、南溪に男たちが群がり始めたのである。