艦これ♯1
風にざわめく夏の雑木林を抜けて、私は小高い丘の先に大きな雲を見た。水平線から飛び出し、その濃淡が青く澄み切った空にぽっかりと穴を開けている。背を逸らさないと見えない堂々たる雲だ。
見事なものだ。青春映画の一コマの清涼感と熱気をそのまま切り取ったような景色だった。青い空、白い雲。そして、容赦なく照りつける夏の太陽。見上げているうちにも、こめかみを汗が伝った。
しかし、なんて暑さだ。手のひらで額を拭えば、びっしょりと汗が手を濡らした。この猛暑さえなければ、ゆっくりと雄大な自然を眺めていたかった。
もう何度目か、紙の地図と辞令を見比べる。
辞令には、当方の都合と彼方の配慮をさっぱり抜き去って、残った命令を堅苦しい役所言葉で包み直したような文章。要するに「ここへ行け」の一言だけが書いてある。
そして、そこに記された「横須賀鎮守府伊豆方面第七艦装管理所」なる物々しい目的地は、いくら地図を睨んでも見当たらない。詳しい説明もない。いい加減な仕事である。
どうしたものか。
道端には、錆の浮いた「白浜海水浴場」とやらの案内板が傾いている。草に埋もれたバス停にも、横須賀何某の文字はない。
こうなるのであれば、あの婆さんに色々と聞けば良かった。立ち寄った小さな町でサイダーを買う際に行き先を尋ねられた。「軍の倉庫みたいなところです」と答えれば妙な顔をされた。何やら知っていそうであったが、「そうかい」と一言残して背を向けられてはとりつく島もない。
ああ、困った。
随分と海に近づいたので、通行人はおろか人家もない。スマホの地図アプリは白い画面で止まりうんともすんとも。この辺りの基地局は死んでいるようで、電波の一本も立ちやしない。辺りを見渡しても、もちろん人の気配はない。鳥の一羽でも飛んでいれば良かったが、動物の気配すら感じられなかった。
名残惜しさを感じながら端末をしまい、途方に暮れて、バス停のベンチに腰を下ろす。
キィ、キィ、と金具が頼りなく軋んだ。時刻表はなかった。正確には、時刻表があったらしい四角い跡だけが残っていた。日に焼けた板の中で、そこだけ妙に白い。
バスを待つという選択肢はないようだった。
当てをなくして半ば呆然と、バス停の日差し避けから青空を見る。視界の隅にある、あの案内板の掠れた文字を疲れた脳が勝手に拾い上げる。
海水浴場は夏になると、海で泳ぐために多くの人が集まる場所だったらしい。泳ぐためだけに海に近づくなんて、今では考えられない事だ。けれど、たくさんの人で賑わう海岸は確かに楽しそうだ。
矢印の方向に目を向ける。海は見えない。丘の向こうから、潮の匂いがした。雲は少しだけ形を変えていた。
ぬるくなったサイダーを一口含んで、さびれた案内板に従うことにする。どうせ昔の海水浴場なんて海の下だろうが、一目見るのも悪くない。死んだら死んだで、それはそれだ。それに、バスが来ないのだから仕方ない。道中に宿なりなんなり、何かしらあると信じよう。
再び、雑木林に向かって歩く。
地図はもうポケットの中だ。道なりに、まっすぐ海へと向かう。
蝉の声を聞きながら、木々の隙間を抜けていく。しばらくすると、少し開けた場所に避難民の慰霊碑があった。岩の一面を切り取り、磨かれた表面に被災者達が彫られている。
足は止めなかった。冥福を祈ることも、そこに刻まれた名前も読まなかった。そのまま、雑木林を抜けていく。
そうして、私は雲の麓にある一軒の古い保養施設を訪ねることになった。
やはり、それは古い建物のようだった。
白塗りの二階建て。横に長く同じ形の窓が規則正しく並び、片側だけが途中から一階建てに段下がりになっている。屋上を囲う転落防止の手すりの茶色が、ここからでもよく見えた。
もっとも、廃墟というわけではない。
庭の雑草は刈られているし、屋上には白いシーツがいくつか、風に煽られている。その生活感が、暮らしの気配が、砂漠の旅人のようであった私をとても安心させた。
呼び鈴が見当たらないので、「すいませーん」と声をあげる。ガラス戸の向こうには、受付らしきカウンターと壁掛けの時計が見えた。人影はない。暫く待ってみても反応はない。仕方なく、恐る恐るガラス戸を開けて中へ入り、もう一度声をあげる。
「すいませーん!」返事はない。声だけががらんとしたエントランスに響いた。壁掛けの時計が、やけに大きな音を立てて秒針を刻んでいる。外ではあれほどうるさかった蝉の声が、ここではずいぶん遠くに感じられた。
やはり、手入れがされている。床は綺麗にされているし、カウンターには埃っぽさはない。確かに人がいるらしかった。私はとにかく人影を探して、カウンターの奥や廊下の先を覗き込んだ。そして、すぐにそれは見つかった。
エントランスから続く廊下の先。半開きになったドアから、光が漏れている。駆け出しそうになるのを必死に堪えて、努めてゆっくりとその部屋へ足を運んだ。カチ、カチ、と秒針とは違う音が聞こえ始める。一定の間隔かと思えば、時折それはせわしなく連続する。
扉の前に着いた時、歩幅が大きくなっていたことに気づいた。
一息つく。息を吸い込む。それから、そっと、隙間から部屋を覗き込んだ。
青を切り取る窓、首を振る扇風機。そして、少女が一人。畳の上に寝そべり、こちらに背を向けている。両手には小さな携帯端末。親指が動くたび、聞こえていた音が鳴った。
子供だ。中学生くらいだろう、艶のある黒髪をだらしなく畳に広げて、溶けるようにゲームをしている。
どうして、沿岸部の寂れた保養施設に子供がいるのか。なぜ、軍の施設付近に一般人が暮らしているのか。そんな事は、この際どうでも良かった。
人恋しさが勝ったのだ。怖がらせることがないように、極力、極力申し訳なさそうな声を出した。
「…あのぉ」
少女の親指が止まった。
あの音も止まる。
少女は寝そべったまま、首だけこちらへ転がした。半ば瞼で隠れた黒い瞳が、じっとこちらを見据えている。その視線に、思わず体が縮こまった。こちらは絶賛不法侵入中である。そして、大の大人と少女が一人。私は犯罪者になりかけているのだ。
しかし、逃げ出すわけにもいかない。やっと巡り会えたこの機会をみすみす見逃したくはない。私は必死に思考を巡らせ、次の言葉を見繕った。
今、この場の空気は間違いなく彼女が支配していた。そして、沈黙を破ったのもやはり彼女であった。彼女の小さな口が、最小限の言葉をこぼした。
「…だれ」
ごもっともであった。