宇宙暦八〇〇年、新帝国暦二年、六月一日。
「不敗の魔術師」と謳われたヤン・ウェンリーの生涯は、地球教徒の凶弾によって三十三歳で幕を閉じた――はずであった。
左腿の大動脈を撃ち抜かれ、薄れゆく意識の中で彼が最後に思い描いたのは、妻であるフレデリカ・グリーンヒル・ヤンの姿であり、後継者たるユリアン・ミンツの未来であり、そして何より「ついに手に入れた、永遠の甘美なる眠り」に対するかすかな安堵であったかもしれない。
しかし、運命という名の三流劇作家は、この偉大なる無精者に安らかな年金生活(あるいは永遠の休息)を与えるつもりは毛頭なかったらしい。
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「……妙だな。死後の世界というのは、もっとこう、静かで、無機質で、血の匂いなどしないものだと思っていたが」
ヤン・ウェンリーが再び意識を取り戻したとき、最初に感じたのは冷たいアスファルトの感触と、鼻腔を突く潮風の匂い、そして遠くから聞こえる内燃機関の喧騒であった。
彼はゆっくりと身を起こし、自身の体を見下ろした。軍服ではなく、見覚えのない簡素なシャツとスラックスを身に纏っている。致命傷であったはずの左腿に傷はなく、出血もしていない。さらに言えば、長年の軍隊生活と心労で刻まれていたはずの微かな皺も消え、鏡を見るまでもなく、自分の肉体が二十代半ばの、エル・ファシルの逃避行を指揮した頃の若さを取り戻していることに気がついた。
そして、彼が寝かされていたのは、レンガ造りの古びた倉庫と倉庫の間に挟まれた、薄暗い路地裏だった。見上げれば、イゼルローン要塞の人工的な天蓋でも、ハイネセンのくすんだ空でもない。どこまでも高く、青く、そして自然の雲が流れる「本物の空」が広がっていた。
「なるほど。どうやら私は、まだ歴史の舞台から退場することを許されていないらしい」
ボサボサの黒髪を掻き毯りながら、ヤンは深く、ひどく長いため息をついた。
狂信者のテロリズムによって命を落とし、気がつけば見知らぬ土地で若返っている。三流の通俗小説でももう少しマシな筋書きを用意するだろうと彼は毒づいた。しかし、現実として彼は生きており、生きている以上は思考を続けねばならない。
路地を抜け、大通りに出たヤンは、行き交う人々の服装や、街を走る四輪車、電柱に張り巡らされた送電線といった光景から、ここが自分の生きた時代よりも遥かに過去の――おそらくは人類が恒星間飛行技術を確立するよりずっと前、西暦と呼ばれる時代の地球であることを看破する。
「西暦二千年代の初頭……といったところか? 建築様式や人種構成から見て、極東の島国、かつて日本と呼ばれた国家の港町だろうな」
歴史家を志し、士官学校の戦史科で古今東西の歴史を漁るように読んでいたヤンの知識は、伊達ではなかった。街の景観だけで、おおよその時代と地域を特定するに至る。しかし、同時に彼はある種の違和感を覚えていた。
すれ違う人々の顔に浮かぶ、特有の緊張感。時折、街のスピーカーから流れる重苦しいサイレンの音。そして何より、港の方角から漂ってくる、重油と鉄、そして微かな硝煙の匂いである。
ヤンはまず、自分の置かれた状況を正確に把握するため、彼にとって最も馴染み深く、かつ安全な場所――すなわち「図書館」を探し出した。
幸い、街の中心部には古びた市立図書館があり、誰でも自由に出入りすることができた。ヤンはそこで新聞の縮刷版や歴史書、近代史の資料を次々と机に積み上げ、猛烈な勢いで活字を追い始めた。
数時間が経過した頃、ヤンは再び大きなため息をつき、背もたれに深く体を預けた。
「やれやれ……。どうやらここは、私の知る歴史をそのままなぞっている世界ではないらしい」
彼が士官学校で学んだ西暦の歴史によれば、二〇世紀半ばに起きた「第二次世界大戦」を経て、人類は冷戦と呼ばれるイデオロギーの対立時代を迎え、やがて統一地球政府(地球統一政府)の樹立へと向かうはずであった。
しかし、この世界の歴史は異なっていた。
書物の記述によれば、かつての第二次世界大戦に酷似した大戦は存在したものの、その時期や陣営の構成が微妙にずれている。さらに、現在の新聞の一面を飾っているのは、政治家の汚職や経済危機ではなく、「正体不明の敵対勢力による海上封鎖」と「防衛戦線の後退」という、生々しい軍事報道ばかりであった。
突如として海洋に現れたという未知の敵。それによって人類は制海権を完全に喪失し、国家間の物流は分断され、長きにわたる泥沼の消耗戦を強いられているという。
「人類というのは、宇宙の果てに行こうが、過去の地球にいようが、結局は何かと戦い続ける運命にあるらしい。ルドルフ・フォン・ゴールデンバウムのような誇大妄想狂がいないだけマシかもしれないが……さて、どうしたものか」
ヤンは現状を冷静に分析した。
第一に、ここは自分の知る宇宙とは別の歴史を歩む並行世界(パラレルワールド)である可能性が高い。
第二に、現在この世界は未知の敵との総力戦の最中にある。
第三に、そしてこれが最も重要なことだが――今の彼には身分を証明するものが何一つなく、所持金はゼロであり、このままでは数日中に餓死するという、極めて即物的な危機に瀕していることであった。
「腹が減っては歴史の傍観者にもなれない。まずは糊口を凌ぐ手段を見つけなくては」
ヤンは図書館を後にすると、そのまま港湾部にある海軍の鎮守府(軍事基地)へと向かった。戦時下における最大の就職先は、いつの時代も軍隊である。とはいえ、彼に最前線で銃を握る気など毛頭なかった。彼が狙いを定めたのは「後方支援部門」である。
いつの時代、いかなる世界であっても、総力戦を泥沼化させている軍事組織というものは、慢性的な人員不足と、官僚主義的な書類の山に喘いでいるものだ。特に「兵站・物資管理」の部門は、地味で激務であるにもかかわらず正当な評価を受けにくいため、常に人手不足に陥っている。ヤンはそこを突いた。
基地の末端にある臨時雇用者の採用窓口に足を運ぶと、そこには予想通り、目の下に濃い隈を作り、書類の山に埋もれて発狂寸前になっている中尉の姿があった。
「身分証ですか? そんなものはないですよ。戦火で故郷を焼かれ、すべて失ったのでね。だが、文字は読めるし、計算は人並み以上にできる。何より、私は今ひどく腹を空かせている。寝床と三食を与えてくれるなら、その机の上の書類の山を、明日の朝までに半分にして見せよう」
ヤンの言葉に、中尉は訝しげな視線を向けたが、ヤンが机の上に広げられていた「第三艦隊・次期作戦に伴う燃料および弾薬の消費予測試算表」を一瞥し、
「中尉殿、この計算式では駆逐艦の夜間航行時の燃費係数が考慮されていない。結果として、帰還時の燃料が三パーセント不足するはずだ。一度、試算なさってください」
と指摘した瞬間、中尉の目の色が露骨に変わった。
戦時下の混乱というものは、時に厳格な規則を容易く飛び越える。身元不明の怪しい青年であっても、目の前の絶望的な業務を片付けてくれる「使える頭脳」であるならば、背に腹は代えられない。かくしてヤンは、厳しい身辺調査を受けることもなく、なし崩し的に「兵站局・第四倉庫管理部の臨時文官」という、極めて地味で目立たない職を手に入れることに成功したのだった。
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彼にあてがわれたのは、油と埃の匂いが染み付いた薄暗い倉庫の一角にある、小さな事務机だった。ヤンは支給されたばかりの安い軍用茶、まぁ、彼にとってはブランデーが入っていないことが最大の不満であったが、をすすりながら、山積みになった物資搬入の伝票をパラパラと捲る。
「燃料、弾薬、鋼材、ボーキサイト……。なるほど、未知の敵とやらを相手にするにしては、随分と前時代的な物資に頼っているのだな」
彼は万年筆を手に取ると、驚くべき速度で書類を処理し始めた。
最前線の指揮官たちが陥りがちな精神論や、無謀な作戦計画によって生じる兵站の無駄を、彼は書類上で静かに、そして徹底的に修正していった。それは、かつて同盟軍の統合作戦本部で、無能な上層部が立てた杜撰な計画を、現場の被害が最小限になるよう裏から書き直していた頃の作業に酷似していた。昔取った杵柄だ。
「まあいい。私がやるべきことは、与えられた仕事を適当にこなし、給料をもらい、安全な後方で戦乱が過ぎ去るのを待つことだけだ。……まぁ正直、事務作業は苦手な部類だが、英雄ごっこはもうたくさんだからな。今度こそ、誰にも邪魔されない平穏な年金生活――いや、文官生活を手に入れてみせるさ」
ヤン・ウェンリーは、書類の山に囲まれながら、ふたたび長いため息をついた。
彼自身のささやかな願いとは裏腹に、彼が修正した兵站計画や、物資の動きから逆算して導き出された「最適解の戦術メモ」が、やがて軍上層部や、最前線で傷つき疲弊する「彼女たち」の目に留まることになるなど、この時のヤンは知る由もなかった。
歴史の迷子となった不敗の魔術師は、こうして再び、戦乱の舞台へとその第一歩を踏み出したのである。
極めて、不本意な形で。