夜の海は、すべてを飲み込むような闇に包まれていた。
星明かりすらも分厚い雲に遮られた太平洋の沿岸部を、三つの影が波音ひとつ立てずに高速で滑走していく。横須賀鎮守府から先行して出撃した哨戒・
彼女たちの進行ルートは、本州の沿岸を伝って呉、そして九州は佐多岬方面へと向かう西回り航路である。しかし、その航行の様は通常の艦隊行動とはいささか趣が異なっていた。先頭を走る天龍の背後には、何本もの太いロープが繋がれ、その先で大量の重油や物資が詰め込まれたドラム缶が数珠繋ぎになって曳航されていたのである。
「……何が『呉への手土産』だ。輸送船じゃあるまいし、ふざけた提督だよなー、まったく」
夜風に吹かれながら、天龍は忌々しげに舌打ちをしてぼやいた。彼女の機動力をもってすれば造作もない重さではあるが、武闘派を自認する彼女にとって、物資の牽引などという地味な任務は到底納得のいくものではない。
「ふふっ。でも天龍ちゃん、文句を言いながらも、すごく気持ち良く哨戒任務にあたっているじゃない? 本当は、ああいう飄々とした司令官、お気に入りでしょ?」
「う、うるっせぇ! 誰があんな昼寝ばかりしてる怠け者を!」
横に並走する龍田のからかいに、天龍は顔を赤くして吠える。歴戦の記憶を持つが故に生意気な態度をとる軽巡洋艦の姉妹であったが、その実、ヤン・ウェンリーという男の理にかなった、それでいて艦娘の命を絶対に使い捨てにしない采配の数々に、すでに強い信頼を寄せ始めているのは事実であった。
二人の他愛のない、しかし周囲への警戒を微塵も怠っていない会話を背後で聞きながら、艦隊旗艦を務める加賀は、冷たい海風の中でひとり静かな思索に沈んでいた。
出撃前、提督執務室でのヤンとのやり取りが、彼女の脳裏に鮮明に蘇る。
「先行して、なぜ空母である私が行くのでしょうか?」
加賀のその問いは、近代海戦の戦術ドクトリンに照らし合わせれば、極めて真っ当な疑問であった。
航空母艦の最大の武器は、遥か彼方から敵をアウトレンジで叩く艦載機である。しかし、夜間において航空機の発着艦は事実上不可能に等しい(夜間作戦用の特殊な練度と装備が揃っていない限りは)。目隠しをされたも同然の夜の海に、防御力に不安のある空母を先行させるなど、常軌を逸している。普通に考えれば、水雷戦隊と戦艦を中心とした第一艦隊こそが、夜間の警戒と攻撃にあたるべきなのだ。
だが、あのボサボサ頭の青年提督は、紅茶のカップを片手に、まるでピクニックの行き先を決めるような気軽さでこう言ってのけた。
「誤解を恐れずに言うがね、加賀。君のその身体……艦娘としての記憶の根底は、もともと戦艦として設計されたものだろう?」
「……!」
「君は加賀型戦艦の一番艦として起工され、その後に空母へと改装された歴史を持つ。ならば、内部構造や基本的な装甲の厚さは、並の空母とは比較にならない。多少の駆逐艦や軽巡洋艦の砲撃程度なら、十分に耐えきれるはずだ。艦娘というオカルトシステムであっても、その歴史的背景は肉体(スペック)に反映されているのだろう?」
加賀は息を呑んだ。彼女自身でさえ普段は意識することのない、自らの魂の来歴。それを、着任したばかりの男が完璧に把握し、戦術の前提条件として組み込んでいる。
「近くの索敵と護衛は、夜戦に長けた天龍と龍田のベテランコンビに任せておけばいい。そして夜が明け次第、君の直掩機を飛ばせば、長距離の索敵など造作もないことだ。目視範囲外は君の航空機が支配する」
ヤンはそこで言葉を区切り、ひどく人の悪い、しかし敵に回せばこれほど恐ろしいものはないと思わせる笑みを浮かべた。
「まぁ、それにだ。『正規空母が夜の海をほとんど単独で、南方へ向け航行している』……この事実だけでも、理知的な敵指揮官であればあるほど、裏を掻かれたと勘違いして十二分に混乱させられる。もし想定外の大型艦と遭遇して不味いと判断したら、戦わずに直ぐに帰ってくればいい。生き残ることが最優先の任務だ。ま、あとは呉にも連絡は入れている。諸々は紀伊水道まで行ってからのお楽しみだよ、加賀」
常識外れと言わざるを得ない強行偵察。空母の中でも比較的高い耐久値を持つ加賀を中心にするという大胆さ。
加賀は、ヤン・ウェンリーという男の戦術的思考の柔軟さに、静かな戦慄すら覚えていた。彼は艦娘を単なる記号としてではなく、個々の歴史的背景まで含めた「唯一無二の駒」として完全に使いこなしている。
そして、ヤンの采配の周到さが発揮されたのは、夜が明け、彼女たちが全力航行で呉の手前――潮岬の沖合に差し掛かった時であった。
朝靄の向こうから、複数の艦影が現れたのである。一瞬、深海棲艦の待ち伏せかと加賀たちは緊張したが、相手から送られてきた発光信号を見て警戒を解いた。それは、通常の人間たちが運用する従来型の艦船と、数名の艦娘たちの姿であった。
「こちらは呉鎮守府所属、阿武隈です! それに五月雨、漣! 間宮さんも一緒ですよ!」
元気な声と共に水上を滑走して近づいてきたのは、軽巡洋艦の阿武隈を筆頭とする護衛艦隊であった。その後方には、給糧艦として補給を担う間宮の姿もある。
「今回は、横須賀の『英雄さん』の艦隊が、物資を持って来ると聞きました! その代わりに、ここから先、昼間の間は我々がエスコートして、四国沿岸を抜けるまで護衛させていただきます!」
阿武隈の弾むような声を聞き、加賀は静かに目を見張った。天龍が愚痴をこぼしながら曳航してきた、大量の重油が入ったドラム缶。あれは単なる物資の輸送ではなく、呉鎮守府への明確な『政治的取引(ディール)』であったのだ。
(……なるほど。あの人が紀伊水道に着いてからのお楽しみ、といっていたのはこの事だったのね)
常に「物資が足りない」と悲鳴を上げている呉に対し、横須賀から貴重な重油を手土産として差し出す。その代償として、危険な昼間の哨戒海域において、呉の艦隊から確実な護衛と物資の補給を引き出す。戦術の奇手だけでなく、戦略的・政治的な兵站の構築までを、あの怠け者のような提督は執務室の椅子から一歩も動かずにやってのけたのである。
加賀は、ヤンの采配への感心を胸に抱きながら、間宮へと物資の詰まったドラム缶を引き渡した。そして、十分な補給と休息を得た三人は、呉の護衛艦隊と共に、改めて南の作戦海域へと鋭い航跡を描いていく。
■
一方、その頃。
加賀の哨戒艦隊よりも少し遅れて横須賀を出撃した、戦艦・金剛と軽巡洋艦・神通、そして第六駆逐隊(暁、響、雷、電)からなる主力艦隊は、加賀たちのルートよりもはるかに太平洋側へと大きく膨らんだ、大外の航路を爆走していた。
彼女たちが進んでいるのは、日本近海を流れる巨大な海流「黒潮」を意図的に避けた、遥か南のルートである。通常の航海であれば、海流に乗るか、あるいは最短距離を突っ切るのが常識である。しかし、出撃前にヤンが彼女たちに下した指示は極めて明朗かつ、意表を突くものであった。
「連中の補給線と進軍ルートは、おそらく黒潮の流れに乗って設定されている」
ヤンは海図に引かれた黒潮のラインを指先でなぞりながら、金剛たちにそう語っていた。
「水上を時速数十キロで滑走する深海棲艦にとって、巨大な海流は天然の高速道路であり、同時に物資を運ぶためのベルトコンベアだ。連中はそれを利用して、西から東へ、南西諸島から日本近海へと戦力を送り込んでいる。だから、佐世保や呉付近でのシーレーン襲撃も多いわけだ。……そして、連中が最も警戒しているのは、自分たちの進行ルートの正面、すなわち『黒潮ないし沿岸沿い』からの反撃だろう。」
ヤンの指摘は、軍事心理学の基本を正確に突いていた。人間であれ化け物であれ、自らの進軍ルートの正面と、最も距離の短い最短ルートを警戒するのは当然の帰結である。
「故に、君たち主力部隊は、一度伊豆七島方面に向かうことになる。そして、敵の警戒網の完全な死角となる『南』の海域へと大きく迂回してもらう。黒潮の流れから外れ、敵の視界の『影』となりながら、太平洋を進んでいき、沖縄を超えて敵拠点の側面へと回り込む。あと付け加えるとしたら、そうだな。もし、大型艦と遭遇したら無理せず撤退してくれていい」
そのヤンの予想は、もはや予言と言っていいほどに見事に的中していた。
「……信じられないわ」
波を切って進む駆逐艦・暁が、周囲の静まり返った海面を見渡し、呆然とした声で呟いた。
南西諸島へ向かうこの海域は、本来であれば敵の哨戒網が最も厚く敷かれているはずの激戦区である。しかし、ヤンの指示通りに太平洋を迂回し続けている現在に至るまで、彼女たちはただの一度も敵影と遭遇していなかったのだ。まるで、敵のレーダー網の隙間に敷かれた、透明な絨毯の上を歩いているかのようであった。
「すごいわね、司令官って……。本当に、敵がどこにもいないじゃない」
暁の言葉に、周囲を警戒していた他の艦娘たちも深く頷いた。無駄な戦闘を避け、味方の損耗をゼロに抑えたまま、決戦の地へと確実に戦力を送り届ける。これこそが、ヤン・ウェンリーと言う魔術師の采配である。
「ザッツラーイ!」
艦隊の中央を進む戦艦・金剛が、その豊かな髪を潮風に靡かせながら、誇らしげに、そして心の底から嬉しそうに叫んだ。
「提督の頭脳は、世界一の高性能レーダーよりも正確デース! やっぱり、私たちの提督は最強なんデース!」
金剛の明るい声が、青く澄み渡った太平洋の空に響き渡る。
ヤン・ウェンリーという希代の魔術師が描いた、二つの艦隊による壮大な挟撃の布陣。オカルトと物理法則が交錯するこの狂気の世界にあって、彼の紡ぎ出す理詰めの戦術は、深海棲艦という得体の知れない怪物たちの喉元へ静かに、しかし確実にその冷たい刃を突きつけようとしていた。