横須賀鎮守府の薄暗い地下司令室。その静寂に包まれた空間で、ヤン・ウェンリーはどうにも落ち着かない様子で、軍靴の音を響かせながらウロウロと歩き回っていた。
なにせ彼にとって、これがこのオカルトと狂気に満ちた世界における初の本格的な作戦なのだ。
加えて、彼を何よりも苛立たせ、胃の腑を締め付けているのは、かつてイゼルローン要塞や旗艦ヒューベリオンの艦橋で数万隻の宇宙艦隊を指揮していた時代とは異なり、現在の彼が『自分が最も忌み嫌っていた、安全な後方で、報告を待つだけの立場』に置かれているという、歴史の皮肉に対する居心地の悪さであった。
「全く、かつて安全な場所から兵士を死地に送り出す政治家どもをあれほど軽蔑していた私が、まさかその立場に収まるとはね。歴史の女神というのは、本当に性格が悪い。胃が痛むよ」
ヤンは自嘲気味にひとりごちると、デスクの上に置かれていた湯呑みを手に取り、温かい緑茶をゆっくりと煽った。彼が愛してやまないブランデーをたっぷりと注いだ紅茶は、残念ながらこの物資不足の鎮守府には存在しない。
代わりに大淀が淹れてくれた日本茶の渋みが、過熱しがちな彼の思考をほんの少しだけクールダウンさせてくれた。
「……ふむ、温かい緑茶というのも、悪くはないな」
ヤンは落ち着き払った様子を取り繕い、司令室の天井――その遥か上にあるはずの空を見上げた。
しかし、内心の焦燥は容易には消え去らない。彼の頭の中では、広大な海図と、そこを進む二つの艦隊の現在位置が秒単位でシミュレートされ続けていた。きっと今頃は、呉の護衛艦隊と加賀の部隊が紀伊水道付近で合流を果たしている頃だろう。そして金剛や神通たち第一艦隊は、その遥か海の向こう、太平洋の黒潮を避けた大外のルートを、完全な沈黙を守りながら突き進んでいるはずだ。
「……そう、相手の司令官の慎重さを考えれば、今は間違いなく無傷のはず。おそらく、敵と当たるのは、加賀は足摺岬を過ぎ、目を発艦させた後。金剛は……いや、グアムや沖ノ島があるのだから、そろそろ哨戒艇と当たっても違和感はない」
今の現状で出来うる限りの指示は出した。
だが、ヤンは自覚している。今回の作戦方針は、敵の目撃情報や散発的な交戦記録という、極めて不完全なパズルのピースから組み上げた、憶測からの作り話に過ぎないのだ。
戦場において、完全な情報が揃うことなどあり得ない。だからこそ指揮官は最前線に立ち、想定外の事態に対して臨機応変なアドリブで対応しなければならない。しかし、今のヤンは通信の届かない後方に縛り付けられている。一度艦隊が港を出てしまえば、彼は目隠しをされたまま『祈る』ことしかできないのだ。
と、その時である。司令室の通信機が低く唸りを上げ、近海を哨戒中の大淀からの入電を知らせた。
『提督。呉方面へ向かった加賀、天龍、龍田の部隊は、呉第一艦隊の阿武隈、五月雨、漣と無事に合流を果たしました。現在、作戦通りの航路を南下中です。なお、別働隊である第一艦隊は、予定通り完全な無線封止を維持しているため、現在位置は不明です』
「了解した。引き続き、近海の警戒を頼むよ、大淀さん」
ヤンは短く通信を切り、深く息を吐き出した。ひとまずは、第一段階クリアといったところか。ヤンは再び海図の前に立ち、自身の組み立てた戦術の意図を脳内で再確認し始めた。
「さて、これで加賀という巨大な囮(マグネット)に引き付けられて、敵の戦力が北航路に集中してくれれば御の字だ」
ヤンの眼差しが、海図上の沖縄周辺から東シナ海にかけての海域を鋭く睨む。彼が正規空母である加賀を、あえて目立つ形で本州沿いの北ルートへ先行させた最大の理由はここにあった。
巨大な航空戦力を持つ空母の接近は、深海棲艦にとって看過できない脅威である。理知的な敵指揮官であれば、当然その迎撃のために手持ちの戦力を割き、警戒網を北へ向けて偏らせるはずだ。
加えて、佐多岬であればその後ろには呉がある。深海棲艦とて、容易に主力は出せないだろう。せいぜい哨戒艇が警戒に来る程度のはずだ。
「そうして敵の視線が北へ向いたその隙を突いて、東の太平洋側から大回りしている金剛たちが、手薄になった敵の横腹を楽にすり抜けられるという寸法だが」
ヤンは湯呑みをデスクに置き、指先で沖縄本島の北西をトントンと叩いた。
「加賀か金剛か。どちらでもいい。誰も死なずに、情報の一つでも持って帰ってきてくれれば、まぁ、御の字、だろうか」
今回の作戦において、ヤンは敵拠点――深海棲艦の泊地の完全な撃破など、最初から望んでいなかった。圧倒的な物量差がある現状で、決戦を挑むのは愚か者のすることだ。彼が狙っているのは、戦術的勝利ではなく、戦略的な足場の崩壊であった。
「今回は、最悪敵の主力を撃破できずとも、連中の足元を崩せさえすればそれでいい。……『人類の艦隊が、哨戒網をすり抜けて沖縄周辺から東シナ海近辺まで到達した』。この事実を突きつけるだけで十分だ」
ヤンの唇の端が、不敵な弧を描いた。深海棲艦がいかに強大であろうと、彼らが兵站(ロジスティクス)を必要とする存在である以上、後方の安全が脅かされれば前線への進撃を止めざるを得ない。自分たちの本拠地に近い東シナ海に人類の戦力が入り込んだとなれば、敵は本土への侵攻を中断し、背後の防衛を固めるために戦力を引き戻すはずである。
敵の足を鈍らせ、人類が息を継ぐための時間と空間を確保する。
それが、不敗の魔術師が描いた、流血を最小限に抑えるための方程式であった。
「まぁ、すべては彼女たちが無事にこの罠を成立させてくれるかどうかにかかっているのだがね。………嗚呼、胃が痛い」
ヤンは再びウロウロと司令室を歩き始めながら、ひとりごちた。
歴史の傍観者たる彼にとって、サイコロはすでに投げられた後である。あとは、鋼鉄の魂を持つ少女たちが、その盤上でいかなる舞を見せるか。ヤン・ウェンリーの胃痛の種は、まだまだ尽きそうにない。
■
太陽が天頂に達し、容赦のない陽光が太平洋の青い海面を照らし出していた。
横須賀鎮守府を夜陰に乗じて出撃してから、すでに十時間以上。紀伊水道の沖合で呉の護衛艦隊と合流を果たしてからも、三時間の航海が経過していた。艦隊は現在、四国沖を南下し、足摺岬の沖合へと差し掛かろうとしている。
これより先は、深海棲艦の勢力圏――死と硝煙が支配する絶対防衛線の外側である。
ここで、護衛部隊の指揮を執る軽巡洋艦・阿武隈が、当初の作戦計画にはない独自の戦術的判断を下した。
「このまま、私たちも加賀さんの部隊についていきます。……五月雨は道後水道から呉に戻って。漣は私と一緒に来てちょうだい」
風を切る海の上で、阿武隈は毅然とした声で言い放った。その唐突な命令に、駆逐艦の五月雨が、
「えっ?」
と目を丸くして疑問を浮かべる。当初の予定では、呉の部隊は四国沿岸を抜けた時点で護衛を解き、帰還することになっていたからだ。指揮系統の逸脱は、軍隊において重大な軍律違反になり得る。
しかし、この瞬間の阿武隈の判断には、かつて幾多の死地を潜り抜けてきた歴戦故の、研ぎ澄まされた直感が光っていた。
「大丈夫、呉の防衛には北上さんが残っているわ。それに、この作戦の持つ意味の重さは、鎮守府の垣根を超えている。……今がきっと、人類にとっての『分水嶺』だから」
阿武隈の言葉には、有無を言わさぬ説得力があった。単なる陽動や哨戒ではない。ヤン・ウェンリーという異端の魔術師が仕掛けたこの罠が、停滞していた戦局を大きく動かす歴史的な転換点になると、彼女の魂が告げていたのだ。
その覚悟を見た加賀は、静かに目を伏せ、わずかに口元を綻ばせた。
「……感謝します、阿武隈さん。本来なら、あなたたちをこれ以上の危険に巻き込むべきではないのでしょうけれど」
「気にしないでください。この作戦が成功すれば、軍法会議にかけられることもないんですから」
阿武隈はどこか無理をしたような苦笑を浮かべたが、その瞳に迷いはなかった。そのやり取りを見ていた天龍が、頼もしい援軍にニヤリと好戦的な笑みを浮かべる。傍らの龍田は、手にした薙刀を肩に担ぎながら、妖しく、そして深く感心したように細く息を吐いた。
「ふふ……さぁ~すがね。伊達に『キスカの旗艦』は張っていないというわけかしら」
龍田の呟きは、かつて濃霧に包まれた絶望の海域から、無傷で味方を撤退させた奇跡の作戦――その陣頭指揮を執った第一水雷戦隊旗艦としての阿武隈の歴史的武勲に対する、最大級の賛辞であった。
「さあ、参りますよ、横須賀の方々!」
阿武隈が、艦隊全体に号令を響き渡らせた。彼女の声と同時に、機関が咆哮を上げ、艦隊の航行速度が一段階跳ね上がる。巡航速度から、戦闘速度への移行である。
「ここからは、私の航跡から絶対にはぐれないようにしてください!」
水しぶきを上げて阿武隈が先頭に躍り出る。その姿は、まさしく水雷戦隊を率いる誇り高き旗艦のそれであった。そして、その強固な護衛の壁の内側で、船団旗艦である加賀が静かに動いた。
彼女は和弓を天へと高く掲げ、万羽の鶴を思わせる流麗な所作で番えた矢を放つ。
ヒュッ、と空気を裂いて放たれた矢は、空中で眩い光を放ちながら分裂し、次々と濃緑色の零式艦上戦闘機や九七式艦上攻撃機の実体へと姿を変えていく。爆音を轟かせながら編隊を組んだ航空隊は、太陽を背にして、遥か彼方の水平線――東シナ海方面へと扇状に散開していった。
目視の限界を超えた、広域索敵網(レーダー・ネット)の展開である。
右手に足摺岬を望むこの海域から、ヤン・ウェンリーの放った布石が、深海棲艦の支配する暗黒の海へと打ち込まれようとしていた。