ヤン・ウェンリーという男の美徳の一つは、自己の限界を正確に把握していることであり、最大の悪徳は、その限界を超える努力をあっさりと放棄することであった。
■
彼が「明日の朝までに書類を半分にする」という公約を守り、猛烈な事務処理能力を発揮したのは、雇い入れられた最初の三日間だけであった。元より彼は、整理整頓や単調な事務作業を極端に嫌う性質である。山積みの書類を前にペンを走らせるうち、彼の持ち前の「怠惰への情熱」が首をもたげた。
結果として何が起きたか。数日もすると、ヤンは自ら計算式を解くことをやめ、正規の軍人や若い事務員たちを「顎で使う」ようになっていた。
「この海域の潮流データと、第三艦隊の過去の交戦記録を照らし合わせてみてくれ。おそらく、敵の出没確率は北西のポイントCに偏っている。そこに到達するまでの航行ルートを第二種から第三種へ変更した場合の、重油と弾薬の消費量を弾き出してほしい。計算自体は君たちの方が正確だろう?」
ヤンはハンモック代わりの簡易ベッドに寝転がりながら、あるいは不味い配給茶をすすりながら、数字の羅列から直感的に「戦術的な最適解」を読み取り、それを導き出すための計算作業のみを周囲に丸投げしたのである。
当初は「どこの馬の骨とも知れない臨時雇いの文官」に指示されることに反発を覚えた軍人たちも、ヤンの言う通りに計算し、その通りに物資を配分すると、驚くほど前線部隊の継戦能力が向上し、しかも未帰還率が劇的に低下するという事実を突きつけられ、沈黙せざるを得なかった。
やがて彼らは、ヤンが示す大まかな戦術的方針に従って嬉々として計算尺を動かすようになり、ヤン自身は「何もしないでハンモックで昼寝をする権利」と「横須賀鎮守府における確固たる信頼」を同時に勝ち取ることに成功したのである。
「人間、適材適所というものがある。私がやるより、彼らの方が計算が早いのだから仕方がない」
そう嘯きながら、ようやく日々の糊口を凌ぐだけの精神的・肉体的余裕を取り戻したヤンであったが、鎮守府での生活に慣れるにつれ、一つの巨大な違和感が彼の歴史家としての知的好奇心を刺激し始めていた。
それは、この横須賀鎮守府という最前線の軍事基地において、「異様に女、子供の姿が多い」という事実である。
ヤンの生きた時代、あるいは未来の宇宙空間における総力戦であれば、女性が軍務に就き、最前線で戦うことは決して珍しいことではなかった。彼の最愛の妻もまた、優秀な軍人であったのだから。
しかし、彼が図書館で調べた限り、この世界――西暦の二千年代初頭に近い文化レベルを持つこの時代においては、女性、ましてや十代半ばからそれ以下の幼い少女たちを、戦闘員として最前線に立たせるような社会基盤は存在しないはずであった。ところが現実として、セーラー服や古風な着物をアレンジしたような衣服を纏った少女たちが、基地内を我が物顔で闊歩している。のみならず、ヤンが処理する書類の中で、最も大量の「重油」と「弾薬」を消費しているのが、どうやら彼女たちらしいのだ。
「わけがわからんな。育ち盛りの少女がドラム缶百本分の重油をどうやって消費するというんだ。ま、今の私も得体の知れない臨時雇いなのだから、他人のことは言えないが」
ヤンは首を傾げながら、書類に決裁のサイン、今はそれだけが彼の主な仕事になっている、を書き込んだ。
■
その日の夜、ヤンは基地の近くにある古びた大衆酒場にいた。向かいの席に座っているのは、彼が配属された兵站局で顧問のような立場にいる、白髪の老軍人である。顔に刻まれた深い皺と、鋭くも温和な眼差しは、ヤンにかつての恩師であり敬愛すべき同盟軍の老提督、アレクサンドル・ビュコックを強く連想させた。
老軍人は、ヤンの非凡な戦術眼にいち早く気づきながらも、あえてそれを軍上層部に密告することなく、ただ「有能で怠惰な若き友人」として酒を奢ってくれる、得難い人物であった。
「……というわけで、どうにも腑に落ちないのですよ」
ヤンは、粗悪な合成酒に比べれば遥かに美味な日本酒を舐めながら、昼間から抱えていた疑問を老軍人にぶつけた。
「軍隊とはいえ、あの少女たちの数は異常だ。それに、彼女たちの生活物資の請求よりも、重油と徹甲弾の請求書の方が遥かに多い。私の若い頃……といっても数年前のことですが、少なくとも私の知る軍隊の常識からは大きく逸脱しています」
老軍人は、手元の杯をゆっくりと干すと、白髪の混じった顎髭を撫でながら苦笑した。
「君の言う通りだ、ヤン。私の若い頃も、こんな異常な光景は見たことがなかった。だがね、時代と、我々が戦う相手が根本的に違うのだよ」
「そういえば、その『戦う相手』についてですが」
ヤンは姿勢を少しだけ正した。
「軍の広報も、新聞も、イマイチ情報を開示していないせいで、後方で書類を捲っているだけの私にはよくわからないのですよ。海上を封鎖している未知の敵……。つまり、人では無いんですよね?」
「ああ。まぁ、君になら教えても良いだろう」
老軍人は再び杯に酒を注ぎ、その表面を揺らした。
「『深海棲艦』と呼ばれている」
その名を聞いて、ヤンの脳裏にいくつかの推論が走ったが、彼は黙って先を促した。
「深海から湧き出してくる、未知の生物群だ。言葉も通じなければ、目的もわからない。ただ、人類を海から駆逐することだけを行動原理としているらしい。話が通じない分、政治的な駆け引きが不要なのだから、ある意味でやり易い相手だとも言えるな」
老軍人は自嘲気味に笑った。それ見たヤンは小さくため息をつき、頭を掻いた。
「……しかし、書類上の物資の損耗率を見る限り、どうやら人類側は現状、圧倒的に劣勢に見えますが。やり易い相手なら、もう少しマシな戦局になっていても良いはずです」
「君は相変わらず数字から真実を読み取るのが得意だな」
老軍人はニヤリと笑ったが、その目には深い疲労が滲んでいた。
「『精神的にやり易い』ことと、『戦術的に有利』であることは違うのだよ。圧倒的な物量と再生能力を持つ化け物相手に、旧来の兵器はほとんど通用しない。だからこそ、あの少女たち……『艦娘』と呼ばれる存在が必要不可欠なのだ」
「艦娘、ですか」
「そうだ。これ以上は……私から安易に教えるわけにはいかんな。もし君が、その頭脳を活かして前線の指揮官に出世するつもりがあるならば話は別だがね」
老軍人は、試すような視線をヤンに向けた。しかし、不敗の魔術師の返答は、あまりにも明白で、かつ徹頭徹尾、彼らしいものであった。
「はぁ……。では、私は一生その真実を知ることは無さそうですね」
ヤンは大げさに肩をすくめ、残っていた酒を飲み干した。
「私はただの兵站局の臨時文官です。給料分は働きますし、計算違いで味方が死ぬのは寝覚めが悪いので多少の口出しはしますが、それ以上の責任を負うつもりは毛頭ありません。歴史の謎は、未来の歴史家が解き明かしてくれれば十分ですよ」
老軍人は呆れたように、しかしどこか嬉しそうに声を上げて笑った。
「君という男は、本当に軍人には向いていないな」
「最高の褒め言葉として受け取っておきましょう」
時代も世界も違う。
戦う相手も、味方の姿すらも常軌を逸している。
だが、権力者の無能や戦場の不条理、そして美酒の味は、どこへ行っても変わらないらしい。ヤン・ウェンリーは、次のお代わりを注文しながら、そんな結論と共に、見知らぬ世界での長い夜をやり過ごしていくのだった。
■
休日のヤン・ウェンリーがどこにいるかを探すのは、彼が怠け者であることを証明するよりも容易い。彼は日の出から日没まで、市立図書館の片隅に陣取り、活字の海に深く潜り込んでいた。
歴史家を志しながらも不本意な形で軍人となった彼にとって、この時代の図書館はまさに至宝の山であった。ヤンの生きた時代――、遥か未来の銀河においては、地球時代の記録は幾度もの戦乱や狂信的なテロリズム、あるいは銀河帝国による恣意的な歴史改竄によって、その大部分が永遠に失われていた。
しかし、この世界はどうだ。彼がかつて喉から手が出るほど欲した「古代地球の真実の記録」が、ごく当たり前のように本棚に並んでいるのである。しかも、数千年前の神話から、わずか数十年前に起きたばかりの生々しい現代史に至るまで、一切の欠落なく繋がっているのだ。
「素晴らしい。人類の愚行と進歩が、これほど克明に保存されているとは」
彼は分厚い歴史書を何冊も机に積み上げ、至福のため息を漏らした。
特に彼の目を惹きつけて離さなかったのは、自身のルーツでもある古代中国の歴史書であった。漢、三国時代、唐、宋、明といった王朝の興亡史は、ヤンにとって知的好奇心の尽きない泉であった。幾度も権力が腐敗し、民衆が立ち上がり、また新たな権力が腐敗していくという人類の普遍的なサイクルを指でなぞりながら、彼は遠い大陸の情景に思いを馳せた。
「うん、一度私のルーツを見に、大陸を旅するというのもいいな。長江を下り、古い遺跡を巡りながら、美味い茶と酒を嗜む……。軍隊の厄介な書類仕事から解放されたら、ぜひとも計画を立てるとしよう」
現実には、未知の敵である「深海棲艦」によって制海権が奪われ、大陸への渡航など夢のまた夢であることなど百も承知であった。それでも、本を開いている間だけは、彼はしがない臨時文官ではなく、自由な一人の歴史家でいられるのだ。
そんな妄想に心地よく浸っていた時だった。
「あの、隣、失礼しますね」
静かな、しかし凛とした涼やかな声が、ヤンの鼓膜を揺らした。
顔を上げると、いつの間にか彼の隣の席に、数冊の分厚い専門書を抱えた女性が立っていた。軍港の街には似つかわしくない、清潔感のある白いブラウスに身を包み、知的な縁の眼鏡の奥から、穏やかだが芯の強そうな瞳がヤンを見下ろしている。
ヤンは即座に自分の積み上げた本が彼女のスペースをわずかに侵食していることに気づき、慌てて本を自身の側に引き寄せた。
「ああ、これは失礼しました。どうぞ」
ヤンは軽く頭を下げ、彼女が座りやすいように隣の椅子をわずかに引いてみせた。無精者ではあるが、生来の人の良さと、かつてフレデリカやユリアンに見せていたような自然な気遣いが、無意識に行動に表れたのだ。
女性はほんの少しだけ驚いたように目を丸くした後、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべた。
「ご丁寧にありがとうございます」
彼女が席に腰を下ろすと同時に、ふわりと柑橘系に似た微かな香りが漂った。それは火薬や重油の匂いが染み付いた鎮守府のそれとは全く異なる、平穏な日常を象徴するような香りであった。
女性は静かに本を開き、ヤンもまた自身の歴史書へと視線を戻す。言葉を交わしたのはほんの数秒。しかし、その静寂を共有する空間には、互いの読書を妨げない心地よい距離感が生まれていた。