太陽が西の水平線に接し、海原が文字通り血のように赤く染まる逢魔が時。
空における人類と深海棲艦の、文字通り死力を尽くした制空権争いは、明確な決着を見ないまま終わりを迎えることとなった。
いかに妖精たちの練度が勝っていようと、未知の怪物たる「レ級」が放つ異常な艦載機の機動力と物量は、徐々に加賀と瑞鳳の戦闘機群を圧迫し始めていた。しかし、ヤン・ウェンリーの目論見通り、彼女たちは完全に空を制圧しきれなかったものの、第一艦隊の頭上に敵の爆撃をただの一発も許すことはなかった。
やがて太陽が完全に沈み、航空機の運用が物理的に不可能となる「夜」が訪れると、両陣営の戦闘機群は互いに睨み合いながら、それぞれの母艦へと撤退していった。
だが、空の脅威が去った後、第一艦隊の前に立ち塞がった水上の現実は、極めて絶望的なものであった。横須賀の反攻艦隊を完全に粉砕すべく、レ級は佐世保鎮守府の封じ込めに配置していた後詰め部隊までもこの海域へと呼び戻していたのである。
その結果、第一艦隊の眼前に展開した敵の陣容は、正規空母二隻、軽空母二隻、戦艦四隻、重巡洋艦一隻、軽巡洋艦三隻。そして、それらを統べる特異個体・レ級。加えて、その周囲を固める無数の駆逐艦群。
対する人類の第一艦隊は、戦艦・金剛、軽巡洋艦・神通、そして第六駆逐隊の四隻のみ。
純粋な海上打撃能力(砲雷撃の投射量)において、人類側は圧倒的な劣勢に立たされていた。第一艦隊は、金剛の三十五・六センチ砲の最大射程ギリギリのアウトレンジを保ちながら、執拗な遅滞戦闘と回避運動を強いられていた。
■
「……持ち堪えるのデス。空の時間が終われば、次は私たちの時間デース!」
金剛が汗に塗れながら叫ぶ。そして、水平線の彼方へと太陽の最後の光が吸い込まれ、海上が完全な漆黒の闇――月明かりすら雲に遮られた、真の「夜の帳(とばり)」に包まれた瞬間である。
パラダイムシフトは、劇的に起こった。大艦巨砲と航空機が支配する「昼」の物理法則が崩壊し、狂気と殺意、そして研ぎ澄まされた直感が支配する水雷戦隊の領域「夜戦」へと、戦場のルールが書き換えられたのだ。
その先陣を切ったのは、第六駆逐隊の長女・暁であった。
敵の巨艦群が暗闇の中で視界を失い、レーダーに頼ろうと砲塔を右往左往させたその刹那。暁は自らの位置を曝け出すという完全な自殺行為――探照灯(サーチライト)のスイッチを、最大出力で叩き込んだ。
強烈な光の帯が、暗黒の海を真っ二つに切り裂く。光芒の先に浮かび上がったのは、巨大な敵戦艦の威容と、その足元を固める敵駆逐艦の群れであった。
『……光源ヲ潰セ!』
レ級の機械的な命令を受信し、敵の駆逐艦群もまた、対抗するように一斉に探照灯を照射しようとした。自らの目を光らせ、暁の光を相殺しようというのだ。だが、暗黒の海において、夜戦の鬼たる「華の二水戦」旗艦が、敵に光を灯す隙を与えるはずがなかった。
「……甘いですね」
敵の駆逐艦が探照灯のシャッターを開こうとした、その文字通りゼロ距離の暗闇に、いつの間にか神通が滑り込んでいた。それは音すら殺した幽鬼のような姿だった。神通の放った無慈悲な酸素魚雷が、敵の探照灯が光を放つよりも早く、その腹部を正確に打ち砕く。凄まじい水柱が上がり、敵の「目」となるはずだった駆逐艦群は、瞬く間に海の底へと引きずり込まれた。
「いっけーっ!」
「ウラーッ!」
「なのです!」
神通の開いた血路に呼応し、響、雷、電の三隻が、一糸乱れぬ連携で残る敵の護衛艦群へ雷撃の扇を放つ。重厚な防衛線を形成していた敵の軽巡洋艦と駆逐艦が、次々と爆発を起こして陣形を崩していく。
しかし、その戦果の代償として、唯一光を放ち続ける暁へと、敵主力戦艦群の巨大な主砲が殺到していた。周囲の海面が数十メートルの水柱となって次々と爆発し、空気が悲鳴を上げる。飛び散る破片と衝撃波が、暁の小さな船体を容赦なく叩きつけた。
「きっついわ……! でも、一人前のレディは、これくらいで光を消したりしないのよ!」
暁は被弾によって装甲を焦がし、顔を煤だらけにしながらも、決して探照灯の光を外そうとはしなかった。彼女が光で敵を縛り付けている限り、敵の意識と砲口は完全に彼女一人へと固定される。それは、次なる「必殺の刃」を敵の喉元に突き立てるための、最も尊い囮の役割であった。
「あはは。一人で無茶しなさんな。あとはまかせなよー」
砲弾の雨を掻き分けて決死の回避運動を続ける暁の真横を、どこか間延びした、お気楽な声が通り抜けていった。暗闇の海を、まるで散歩でもするように悠然と滑り込んでくる影。
南方の海域を大きく迂回し、敵の視界の外から完全に戦場を包み込むようにして到着した、阿武隈率いる呉の第一水雷戦隊であった。
「さあ、お待たせしました! 横須賀の皆さん、ここからは私たちの独壇場ですよ!」
阿武隈の号令と共に、水雷戦隊が敵戦艦の懐深くへと雪崩れ込む。その中でも、ひときわ異彩を放つ、否、純粋な「殺意の塊」として海面を疾走する駆逐艦の姿があった。
特型駆逐艦・綾波である。
彼女は一切の言葉を発することなく、敵戦艦の副砲が火を噴く弾幕の隙間を、まるで縫い針のように正確にすり抜けていく。そして、戦艦の巨大な装甲に手が触れるほどのゼロ距離――近代海戦の常識ではあり得ない肉薄雷撃と、主砲の零距離射撃を連発した。
轟音。そして爆発。
敵の戦艦二隻が、たった一隻の駆逐艦の狂気じみた暴撃によって、その腹を完全に食い破られて轟沈していく。
「いやぁ、鬼神健在だねぇ。こっちもウカウカしてられないや」
その凄惨な光景を見ながら、北上は楽しそうに笑った。彼女の装備には、他の艦娘とは一線を画す、異様な数の魚雷発射管が積まれている。重雷装巡洋艦・北上。水上艦艇の常識を逸脱した、雷撃のためだけに造られた異形の艦だ。
北上は、暁の探照灯に照らし出されて暗闇で立ち往生している敵の航空母艦群――正規空母二隻、軽空母二隻の計四隻へと照準を合わせた。
「出し惜しみはなしだもんね。……それじゃ、沈みなよ」
北上の合図と共に、彼女の全身から二十門を超える酸素魚雷が一斉に海へと解き放たれた。それはもはや「攻撃」というよりも、海面を埋め尽くす「幾何学的な死の壁」であった。白波もなく、静かに進む無数の魚雷群は、回避する空間を完全に奪い去ったまま、敵空母群の巨大な船腹へと同時に吸い込まれていく。
そして次の瞬間、夜の東シナ海に、太陽が昇ったかのような巨大な閃光が四つ、同時に瞬いた。誘爆に次ぐ誘爆。敵の航空戦力の中核を担っていた四隻の空母が、北上ただ一隻の飽和雷撃によって、悲鳴を上げる間もなく完全に海の藻屑と化したのである。
『……ッ!?』
この瞬間、レ級の冷徹な演算回路は、完全に許容量を超え崩壊した。絶対的な優位を誇っていたはずの自陣の戦力が、気がつけば戦艦二隻、軽巡洋艦三隻、そして自分自身の計六隻にまで激減している。
ついにここに来てヤン・ウェンリーの作戦は、囮と包囲、そして時間の経過という要素を完璧に組み合わせ、この絶対防衛線を内側から完全に食い破ったのだ。
『……戦況、完全ニ逆転。本海域ノ維持、不可能。直チニ撤退――』
レ級は、感情を持たないが故に、己の敗北を即座に認め、暗黒の海へと逃れようと艦体を翻した。
その時である。
ヒュルルルルル……という、空気を切り裂くような重々しい飛翔音が、夜の空から降ってきた。
それは、水雷戦隊の放つ魚雷の音でも、巡洋艦の主砲の音でもない。
大艦巨砲の頂点に立つ者だけが放つことのできる、絶対的な暴力の調べだ。
『……!?』
暁が探照灯で照らし出していたレ級の頭上に、一発の巨大な砲弾が、文字通り「点」となって突き刺さった。
装甲を貫く甲高い金属音。そして、一拍遅れて、レ級の内部から巨大な爆炎が噴き上がった。
それは、四十センチ徹甲弾の直撃だった。いかなる怪物であろうと、戦艦の主砲を急所(バイタルパート)に受けて生き延びることはできない。レ級の青白い艦体(肢体)が、断末魔のような不気味な軋み音を立てながら、夜の海へと倒れ伏していく。
「……遅れちゃったかしら? でも、一番いいところは貰っていくわよ」
遥か西方の暗闇から、優雅で、そして長年の鬱憤を晴らすような心地よい笑い声が通信機を通じて響き渡った。
佐世保鎮守府からの決死の突撃を敢行した、戦艦・陸奥であった。
彼女は、レ級が佐世保の封鎖網を解いて部隊を呼び戻したその隙を突き、雪風の完璧なナビゲートによって東シナ海を横断。そして、暁の探照灯がレ級を照らし出したその一瞬の隙を逃さず、限界射程からの超長距離狙撃を見事に命中させたのである。
「ビンゴ、デース!! 流石は陸奥サン!」
金剛が歓喜の声を上げ、残された敵戦艦へとトドメの砲撃を放つ。もはや、そこに戦術的な駆け引きは存在しなかった。指揮官たるレ級を失い、陣形を完全に崩壊させた残存の深海棲艦たちにとって、この海域は単なる処刑場へと変わった。
あとは、一方的な掃討戦であった。金剛の砲火が、神通と阿武隈の雷撃が、そして佐世保から駆けつけた陸奥と雪風の刃が、逃げ惑う敵を次々と暗黒の海へと沈めていく。
■
日付が変わる頃。東シナ海の海上に浮かぶ深海棲艦の影は、ただの一つも存在しなくなっていた。
「……全敵艦の反応、消失。作戦終了。我々の、完全勝利です」
神通の静かな、しかし確かな震えを帯びた報告が、通信帯域に流れる。その瞬間、静まり返った夜の海に、少女たちの割れんばかりの歓声が響き渡った。暁が、金剛が、阿武隈が、そして陸奥が。鎮守府の垣根を超え、命を懸けてこの海を駆け抜けた彼女たちの声が、長く暗かった海原に新たな夜明けを告げていた。
はるか遠く、横須賀鎮守府の司令部。ヤン・ウェンリーは、通信機から聞こえる少女たちの歓声を聞きながら、冷めきった紅茶を静かに飲み干した。
後世の歴史家は、この戦いをこう評するだろう。
『人類が初めて、深海棲艦という絶対的な絶望に対し、戦術的な包囲網と心理的誘導を完璧に噛み合わせ、海を奪還した奇跡の戦い』と。
だが、ヤン自身にとって、それは奇跡でも魔法でもなかった。ただ、兵站を整え、確率を計算し、現場の少女たちの命を最も合理的に使い切った、血生臭い算数に過ぎない。
「……さて。これでようやく、佐世保への航路が開けた。次の兵站計画と、進軍計画を立てねばならないな」
ヤンは誰に言うともなくぼやき、ボサボサの黒髪を掻き回した。
東シナ海の制海権は、見事に人類の手に戻った。だが、不敗の魔術師の戦いは、この終わりの見えない狂気の世界において、まだほんの幕を開けたばかりであった。