横須賀鎮守府から送り出された長大な輸送船団が、東シナ海の血路を切り拓き、長らく飢餓と孤立の淵に沈んでいた佐世保鎮守府へと滑り込んだその瞬間、九州西岸の冷たい空気は、まるで沸騰したかのような熱気へと塗り替えられた。
「……ホンマに、ホンマに来よった! ついに、ついに物資が届いたでぇ!!」
佐世保の桟橋にうず高く積み上げられていく重油のドラム缶と、コンテナに満載されたボーキサイト、鋼材、そして何ヶ月ぶりかも定かではない生鮮食料品や医薬品の山を前にして、軽空母・龍驤は艤装を放り出す勢いで小躍りしていた。その平坦な胸を上下させ、文字通り涙を浮かべて歓喜の声を上げる姿は、歴戦の空母というよりは、干天の慈雨に打たれた幼子そのものであった。
「これで……これで、ドックで動けなくなっとったあの子たちを直せる! 皆を叩き起こして、また海に出られるんや!」
佐世保の修復ドックには、度重なる深海棲艦の猛攻に耐えかね、大破のまま放置せざるを得なかった無数の艦娘たちが横たわっていた。彼女たちを救う手立てが、今、横須賀という遠方の「怠け者の提督」の手によってもたらされたのだ。
同時に、豊後水道を挟んだ呉鎮守府からも、安堵と感嘆が入り混じった報告電文が横須賀へと届けられていた。
呉の司令部にとっても、この成果は戦略上の劇的な転換点であった。佐世保と呉の大破艦が順次修復され、戦線へと復帰を果たせば、疲弊しきっていたシーレーン防衛部隊の負担は大幅に軽減される。何より、東シナ海を完全に掌握したことで、九州から台湾北端へと連なる強固な「防衛線(絶対国防圏)」を再構築することが可能となるのだ。
これまで本土周辺の海を這い回ることしかできなかった人類が、数年ぶりに呼吸をするための空間を押し広げた瞬間であった。
■
「……大戦果、と言っていいのだろうね。人類の絶滅を、少なくとも数ヶ月は先延ばしにできた」
横須賀鎮守府の執務室。ヤン・ウェンリーは、大淀から手渡された佐世保および呉からの礼状と被害報告書を読み終えると、デスクの上に書類を放り出し、深い長息を漏らした。机上には、湯気を立てる温かい緑茶。ブランデーの代用品は見当たらないが、過熱した頭脳を冷やすには十分な渋みを持っている。
「はい、ヤン提督。各鎮守府ともに士気は最高潮に達しています。佐世保の復旧が進めば、我が軍の展開能力は以前の数倍に跳ね上がるでしょう」
大淀が誇らしげに胸を張り、眼鏡のブリッジを指先で押し上げる。しかし、ヤンは手放しで喜ぶ様子もなく、視線をデスクの脇に広げられた東アジア全体の海図へと落とした。
「だが、問題はここからだ」
ヤンは人差し指の先で、奪還したばかりの東シナ海を軽くなぞり、そのまま南へと滑らせた。台湾の島影を通り過ぎ、その先に横たわる広大な海峡――バシー海峡の文字の上で、彼の指はピタリと止まった。
「東シナ海の中枢拠点を叩き潰し、敵の戦力の大半を海の底へ沈めた。それは結構なことだ。だが、そうなると歴史家としても軍人としても、極めて単純で、かつ不気味な疑問が湧き上がってくる」
「……疑問、ですか?」
「ああ。『連中は、一体どこから湧き出してきているのか?』という点だよ」
ヤンは背もたれに深く身を沈め、天井の一点を見つめた。
「前回の戦闘で、敵の泊地には正規空母や戦艦を含む大艦隊が集結していた。だが、あれだけの巨大な戦力を維持し、絶え間なく日本近海へと送り込むためには、当然ながら背後に広大な『生産拠点』と『兵站の結節点』が存在していなければならない。東シナ海が前線基地に過ぎなかったのだとすれば、その親玉たる巨大な巣窟はどこにある?」
ヤンの問いかけに、大淀も表情を引き締め、海図の南方海域を注視した。
「……地理的条件から逆算すれば、台湾の南、フィリピン群島しか考えられませんね」
「その通りだ」
ヤンは頷き、デスクの上の指示棒を取り上げた。
「あの海域は無数の島々が入り組み、複雑な浅瀬と海峡が天然の防壁を形成している。艦隊を隠蔽し、補給拠点を構築するには、地球上でこれほど適した地形はない。ルソン島周辺か、あるいはスールー海、レイテの湾内……どこを突いても、深海棲艦の巨大な根拠地が口を開けて待っていると考えるのが自然だ」
東シナ海を制圧したことで、人類は図らずも、敵の真の心臓部へと通じる門(チョークポイント)――バシー海峡の前に立たされることとなったのだ。門を開ければ、そこには東シナ海での戦闘など前哨戦に過ぎなかったと思わせるほどの、底知れぬ暗黒が広がっている可能性がある。
「佐世保は現在、傷ついた艦娘たちの修復と物資の分配で手一杯だ。呉の部隊も、東シナ海から台湾にかけての防衛ラインを固めるのに手を取られている。……となれば、この不気味な海峡の向こう側を覗き見に行く役回りは、我が鎮守府が引き受けるしかないな」
ヤンは頭を掻きながら、次なる作戦の骨子を淡々と口にした。
「今回は決戦ではない。敵の規模と拠点の位置を探るための『威力偵察』だ。機動力と隠密性を最優先とする。……出撃部隊は、神通を旗艦とし、夜戦と索敵の練度が極めて高い第六駆逐隊(暁、響、雷、電)、そして上空からの警戒と防空を担う軽空母・瑞鳳。この六隻による高速偵察艦隊を編成する」
「了解いたしました。加賀さんと天龍、龍田はどうなさいますか?」
「加賀は先の戦闘で航空隊の再編が必要だし、なにより消費するボーキサイトの量が今の我が鎮守府には重すぎる。天龍と龍田の二人と共に、横須賀および近海の絶対防衛に回ってもらおう。……そして、金剛だが」
ヤンはそこで言葉を切り、苦笑いを浮かべた。
「あの暴れ馬には、しばしの休養が必要だ。敵の戦艦群や謎の新造艦の猛砲撃を真正面から浴び続けたのだからね。報告によれば、装甲の歪みや機関部の煤払いで、完全な修復には数日から一週間程度を要するとか」
「はい。戦艦のドック入りとなれば、通常はその程度の時間を要します。彼女の頑丈な船体と艤装を癒やすには、相応の資源と時間が必要です」
「まあ、仕方がないさ」
ヤンは緑茶を一口啜った。
「かつて私のいた軍隊でも、戦艦のオーバーホールには月単位のドック入りが必要だったものだ。それに比べれば、一週間で治るというのは十分に奇跡的だよ。本人は『ワタシはまだまだ戦えまーす!』などと騒ぐだろうが、指揮官の仕事は部下に無理な延命を強いることではないからね。たまには湯船にでも浸かって、のんびりと骨休めをしてもらうとしよう」
戦艦という巨大な兵器を維持することの泥臭さと、その代償。ヤンは極めて現実的な用兵家として、金剛の離脱を当然のコストとして受け入れていた。
――その時までは。
■
コン、コン、コン。
執務室のドアが、やけに低い位置から遠慮がちに叩かれた。大淀が訝しげに眉をひそめて扉を開けると、そこには人間の背丈の半分にも満たない、作業服を着た小さな影が数人、ちょこなんと立っていた。
「……おや?」
ヤンがデスクから身を乗り出す。建造ドックでハンマーを振るっていた、あの妖精たちであった。しかも彼らは、どこから調達してきたのか、金属製の小さな『緑色のバケツ』を誇らしげに両手で抱えている。中には、何やら青白く発光する粘性のある液体がタプタプと波打っていた。
「これはこれは、工廠の小さな主たちじゃないか。どうしたんだい? その……いつぞやの物資回収で見かけた謎のバケツを持って。お茶のおかわりでも注いでくれるのかい?」
ヤンが冗談めかして微笑みかけると、妖精たちは真面目な顔で首を横に振り、クイックイッと手招きをして見せた。「ついて来い」と、全身で語っている。
「……大淀さん、これはどういう儀式かな?」
「さあ……私にも見当がつきません。ですが、彼女たちが執務室まで直接提督を呼びに来るなど、前例のないことです」
「やれやれ、紅茶を飲む暇も惜しんで働けという無言の圧力かね」
ヤンは自嘲気味に肩を竦めると、軍帽を軽く被り直し、デスクを離れた。小さな妖精たちがテケテケと短い足で廊下を進んでいく。その後を、ヤンと大淀が靴音を響かせながら追従する。しかし、薄暗い地下連絡通路を進むにつれ、ヤンの表情に徐々に警戒の色が混じり始めた。彼らが向かっている方角、その先にある重厚な防爆扉の上のプレートには、見慣れた、そしてヤンにとって極めて危険な文字が刻まれていたからだ。
『第一入渠ドック(使用中)』
ヤンは扉の五歩手前で、ピタリと足を止めた。
「……おいおい、妖精さんたち。待ってくれたまえ」
ヤンは引きつった笑みを浮かべ、両手を胸の前に掲げた。
「ここは以前、大淀さんから説明を受けたぞ。戦い傷ついたうら若き乙女たちが、その身を清め、傷を癒やすための……端的に言えば『風呂場』だろう? 現在、ドックを使用しているのは、先ほど話に出た金剛のはずだ。いくらオカルトが支配する軍隊とはいえ、私にも歴史と文明の育んだ最小限の羞恥心と社会的良識というものがある。他人の湯浴みの場に足を踏み入れるような真似は、軍法会議以前に人間としてお断りだ」
ヤンの極めて真っ当な抗議に対し、先頭の妖精は、
「何を言っているんだこの男は」
とでも言いたげな呆れ顔をし、揃って大きく首を横に振った。そして、ヤンが制止の声をかける間もなく、妖精の一人が小さな手を伸ばし、入渠ドックの重いスライドドアの開閉レバーを勢いよく引き下げてしまったのである。
プシューッ!と、高圧の蒸気が抜ける音と共に、分厚い扉がガラガラと無慈悲に左右へと開け放たれた。
「あっ、こら――!」
ヤンが慌てて目を逸らそうとしたが、時すでに遅かった。白く立ち込める温かな湯気の向こう側。タイル張りの広大な浴室の中央、なみなみと張られた薬湯の湯船の中に、一人の茶髪の少女が浸かっていた。
戦闘用の重厚な艤装はすべて取り外され、瑞々しい柔肌が湯煙の中に露わになっている。濡れた長い茶髪が白磁のような肩に張り付き、胸元には前回の激戦を物語る生々しい打撲痕や火傷の跡が痛々しく残されていた。
そして、その少女――金剛は、突然開いた扉と、そこに立ち尽くす青年提督の姿を視界に捉えるなり、琥珀色の瞳を限界まで見開いた。
「…………て、テイトクーーーーーーッ!?!?」
甲高い悲鳴が、反響の良いドック内に響き渡った。金剛は両腕で慌てて自らの豊かな胸元を隠し、湯船の中でバシャバシャと激しく波を立てた。その顔は、湯の熱気とは比較にならないほど真っ赤に染まり上がっている。
「す、すまない! 決して覗き見の趣味があるわけではないんだ、妖精さんたちが勝手に――」
ヤンが視線を天井の排気ダクトへと固定し、冷や汗を流しながら後退しようとした、まさにその時。湯船の中でパニックに陥った金剛の口から、英国生まれの思考回路が完全にショートしたことを示す、世にも頓珍漢な叫びが飛び出した。
「あ、ええ、あの、その、ノープロブレムデース! ワ、ワタシの……ワタシの『準備』はモウ、いつでもデキテマース!!」
「待て待て待て! 何の準備だね!? 君は何を言っているんだ!?」
ヤンの理性が猛烈な勢いで警鐘を乱打する。準備とは何だ。一体いかなる文脈でその単語が飛び出してきたのか。歴史家としてのあらゆる知見を総動員しても、この状況における金剛の言語的意図を解読することは不可能であった。
ドックの入り口で、完全に機能不全に陥った不敗の魔術師と、羞恥心で沸騰しかけている戦艦。その緊迫した(あるいは極めて間抜けな)空間の空気を切り裂いたのは、妖精たちの実務的な行動であった。
「「「せーのっ!」」」
声なき掛け声と共に、緑のバケツを抱えた三人の妖精が、湯船の縁へと飛び乗った。そして、ヤンが制止するよりも、金剛が身構えるよりも早く、彼女たちはバケツを両手で高々と掲げると、その中に溜まっていた青白く発光する謎の液体を、金剛の頭上めがけて豪快にぶちまけたのである。
バッシャァァァァァンッ!!
「フブッ!?!?」
大量の液体を頭から直撃された金剛が、派手にむせて湯の中に倒れ込みそうになった。髪はびしょ濡れになり、顔面から青白い液体が滴り落ちる。あまりにも乱暴極まりない扱いに、金剛は目を白黒させながら、湯船の縁に立つ妖精たちへと猛抗議の声を上げた。
「な、何するんデスか妖精さんたちーっ! いくらなんでもレディに対するデリカシーがなさすぎ――」
文句をまくし立てようとした金剛の言葉が、唐突に止まった。彼女の足元に立つ妖精たちが、腰に手を当てて満足げに「ドヤ顔」を決めているのを横目に、金剛は自身の両手を、そして胸元を信じられないものを見るような目で見つめ始めた。
「……あれ?」
金剛が、恐る恐る自らの肩を回す。先ほどまで彼女の白い肌を覆っていた無数の火傷や打撲痕が、まるで最初から存在しなかったかのように、完全に消滅していた。それだけではない。敵の四十センチ砲の余波によって軋みを上げていたはずの背骨の奥、機関部の重苦しい疲労感が、跡形もなく霧散している。
「……あれれ? どこも、体が痛くないデース……? というか、信じられないくらい体が軽いデス!?」
「…………」
その劇的な、あまりにも非科学的な回復の光景を、天井を見上げたまま視界の端で捉えていたヤンは、ゆっくりと視線を落とし、空になった緑のバケツを見つめた。そして、自らのこめかみを指先でトントンと叩きながら、足元の妖精たちへと静かに問いかけた。
「……妖精さん。ひとつ、極めて初歩的な事実確認をさせてもらいたいのだが」
妖精たちが小首を傾げる。
「そのバケツに入っていた液体は……被弾によって歪んだ戦艦の分厚い装甲も、焼き付いた高圧ボイラーも、少女の肌の傷も、ぶっかけるだけで瞬時に『新品同様』に復元してしまう……いわゆるひとつの、超常的な瞬間修復材(マジック・アイテム)……という解釈で、よろしいのかな?」
ヤンの問いに、妖精たちは満面の笑みを浮かべ、首がもげんばかりの勢いで全力で縦に頷いた。大淀が横から、
「あ、はい……通称『高速修復材』、現場では『バケツ』と呼ばれている資材です。報告を失念しておりました」
と申し訳なさそうに付け足す。
「…………」
ヤン・ウェンリーは、深々とした、魂の抜けるようなため息を吐き出した。数日から一週間のドック入り。戦艦の維持にかかる膨大な時間とコスト。それらを前提として先ほどまで頭の中で組み立てていた、緻密で合理的な兵站スケジュールが、たった一杯のバケツの水によって木っ端微塵に粉砕された瞬間であった。
「……いや、もうここまで来ては、歴史の法則がどうの、物理法則の保存がどうのなどと野暮な文句は言うまい。神話の世界に迷い込んだ歴史家にできるのは、その奇跡の存在を受け入れることだけだからな」
ヤンは諦めたように苦笑し、しかし用兵家としての冷徹な計算を即座にアップデートさせた。
「しかし……これは、実に良いことを聞いた。これだけの即応性があるならば、戦力の運用計画を根本から見直すことができる。金剛を一週間も遊ばせておく必要がなくなったわけだ。戦略的には、これ以上ない朗報だよ」
「ア、アノー……テイトクー」
ヤンが一人で納得して頷いていると、湯船の奥から、消え入りそうな、しかし切実極まりない声が飛んできた。見れば、全快を果たした金剛が、相変わらず真っ赤な顔で湯の中に小さく丸まり、恨めしげな瞳でヤンを見上げていた。
「怪我は綺麗さっぱり治りマシタけど……その、ワタシ、まだ服を着てまセンので……非常に恥ずかしいノデ、早くお外に出ていってほしいのデース……!」
「おっと。……これは失敬」
ヤンは咳払いを一つすると、軍帽の鍔を指先でクイと押し上げた。
「敵の機密情報を覗き見したわけではないが司令官としての名誉を守るためにも、ここは全速力で戦略的撤退を敢行させてもらうよ」
言うが早いか、ヤン・ウェンリーは軍隊の模範行進のような完璧な回れ右を決め、脱兎の如き勢いでドックの通路へと足早に退却していった。背後でガラガラと扉が閉まり、湯気の向こうから金剛の小さく安堵する息が漏れるのが聞こえた。
■
執務室へと逃げ帰り、冷めた緑茶を一気に呷ったヤンは、ソファに倒れ込むように腰を下ろした。
「……まったく。敵の空母機動部隊と対峙するよりも、よほど寿命が縮む思いをしたよ」
「ふふっ。お疲れ様でした、ヤン提督。ですが、これで金剛さんの戦線復帰の目処が立ちましたね」
大淀が楽しげに笑いながら、新しいお茶を淹れてヤンの前に置く。ヤンは苦笑しながら頭を掻いた。オカルトと狂気、そして少女たちの人間臭さが入り混じったこの奇妙な鎮守府。だが、不思議と居心地の悪さは感じていなかった。
やがて廊下の向こうから、いつもの元気を取り戻し、足音高くこちらへと向かってくる戦艦の足音が響いてくる。
―――バシー海峡の向こう側に潜むであろう、未知なる巨大な敵。その脅威は依然として人類の首元に刃を突きつけているが、この理不尽な世界で足掻くための手札は、確実に、そして少しずつ揃い始めている。
不敗の魔術師は、温かい湯呑みを両手で包み込みながら、海図の南の端――暗黒の海峡を見据え、静かに次なるチェスの駒を、指先で弾くのであった。
元々はここまでの予定でございました。
が、まだまだ筆が進めそうなので、行けるところまで。
お付き合いいただけますと、幸いに思います。