ヤン・ウェンリーが自室で一時の安息――すなわち、熱い紅茶と読書の時間を楽しむための前提条件として、まず彼はデスクに積み上げられた報告書の山を処理し、大局的な戦況を頭の中の海図に描き出さねばならなかった。
横須賀鎮守府の司令室。オカルトと魔法に支配されたこの軍事拠点にあって、唯一、近代的な事務処理能力と理知的な精神を保っている秘書艦・大淀が、手元のバインダーをめくりながら最新の戦況報告を読み上げていた。
「まず南方ですが……東シナ海の制海権は、我々が確保した状態を維持しています。そして、シーレーン護衛艦隊に動きがありました。旗艦を務める利根さんから、暗号電文が入っております」
「ほう。あの威勢のいい重巡洋艦のお嬢さんは、なんと?」
「『バシー海峡にて敵の襲撃に遭ったわ! だが、吾輩と川内たちの敵ではない。見事蹴散らしてやったがな! はっはっは!』……とのことです」
大淀が、利根の快活な口調をどこか真面目くさったトーンで代読するものだから、ヤンは思わず口元をほころばせた。
「まったく、頼もしいことだ。それで、輸送船団の無事は?」
「はい。損害は軽微です。彼女たちの護衛部隊は、そのまま台湾海域にて、中国海軍の残存勢力、彼の地の艦娘部隊へとシーレーン護衛の任を引き継いだとのことです。現在、利根さんたちは反転し、我々が奪還した東シナ海の哨戒任務に当たっています」
「……なるほど」
ヤンは深く頷き、海図の台湾からフィリピンに至る海域を見つめた。人類の生存圏は、国家という枠組みを超えて、細く、しかし強靭な糸で結ばれようとしている。深海棲艦によって海を奪われ、各大陸や島嶼部が孤立無援の兵糧攻めに遭っていた状況からすれば、これは劇的な戦略的改善であった。
「頭が下がるね」
と、ヤンは純粋な敬意を込めて肩を竦めた。
「今までも、彼女たちのような前線の兵士たちが血の滲むような努力で、その細い糸を繋ぎ止めていてくれたわけだ。そして今、日本近海だけでもその補給ライン(シーレーン)が物理的に強固になったことは、素直に喜ばしい」
戦争において、華々しい艦隊決戦は歴史の教科書を飾るかもしれないが、国家を真に存続させるのは地味で過酷な兵站(ロジスティクス)である。ヤンは歴史家として、その真理を誰よりも重んじていた。
「で、そういえば……南方は良しとして、北はどうなっているんだい?」
ヤンが視線を海図の北端へと移すと、大淀は表情を和らげて答えた。
「幸いにして、北方に大きな動きはありません。加えて青森の大湊(おおみなと)警備府へは、太平洋を北上する黒潮のルートを使って、細々とながら物資の輸送が継続できております」
「それは吉報だね。ちなみに、その先のオホーツク海やベーリング海の状況は?」
「大湊の部隊が定期的に哨戒を行っておりますが、現時点では、深海棲艦の敵影はごく少数が確認されるに留まっています。大規模な集結や、南下侵攻の兆候は見られません」
「そいつは良い」
ヤンは、今日一番の安堵の笑みを浮かべた。古来より、二正面作戦を強いられた軍隊に輝かしい未来が待っていた例はない。北方の安全が曲がりなりにも担保されているということは、すなわち、限りある手持ちの戦力をすべて「南方」――東シナ海からバシー海峡方面へと集中できるということを意味していた。
「油断はできないが、今は南方に集中できる。用兵家にとって、これほどありがたい状況はないよ」
ヤンが残りの紅茶を飲み干そうとした、まさにその時である。
「テイトクー! グッドモーニングデース!」
司令室の重厚な扉がバーンと勢いよく開き、太陽のような明るさを纏った戦艦・金剛が飛び込んできた。先ほどまで入渠ドックで真っ赤になっていた姿はどこへやら、今の彼女は戦闘用の艤装こそ身につけていないものの、アイロンの行き届いた制服に身を包み、いっそ晴れ晴れとした満面の笑みを浮かべていた。
「やけに機嫌がいいね、金剛。一時間前の君は、この世の終わりみたいな顔をしてお湯に沈んでいたはずだが」
ヤンがからかうように問いかけると、金剛は悪びれる様子もなく、むしろイタズラっぽく目を細めてヤンのデスクへと身を乗り出してきた。
「オフコース! だって、頭の先からつま先まで、隅から隅までテイトクに見られちゃいましたからネー! レディとして、これはもう責任をとってもらうしかないカナー、なんて!」
冗談めかしてウインクを放つ金剛に対し、ヤンは「やれやれ」と肩を竦め、ボサボサの黒髪をガリガリと掻き回した。
「私のささやかな紳士としての名誉は、どうやら東シナ海の波間に沈んでしまったらしい。歴史の女神は、私に英雄の称号の代わりに、セクハラ提督という不名誉なレッテルを貼るおつもりのようだ」
「ふふっ、冗談デースよ! テイトクがそんな人じゃないのは、艦隊の皆が知ってマース!」
金剛はカラカラと笑い、自らの身体を軽く叩いて見せた。
「船体も装備もバッチリデース! あの緑色の不思議なバケツのおかげで、装甲の歪みも主砲の煤も、すっかり綺麗サッパリ治りマシタ! いつでも出撃できマス!」
「……いやはや」
ヤンは、目の前で元気いっぱいに飛び跳ねる戦艦を見つめながら、どこか他人事のように感心した。
(あれほどの激戦による損傷を、たった一杯の液体で文字通り『無かったこと』にしてしまう。バケツすごいなぁ。近代兵器の工廠長や整備兵が見たら、泡を吹いて卒倒するだろうな)
だが、ヤンは用兵家であると同時に、物事の根源的な仕組みを解き明かそうとする歴史家でもあった。オカルトにはオカルトの『法則』があるはずだ。彼女たち艦娘が、かつて実在した鋼鉄の軍艦たちの「記憶」や「魂」をベースに顕現しているのだとすれば、一つの重大な疑問が浮かび上がってくる。
「……なあ、金剛」
「ナンデス? ついに結婚のお話ですカ?」
金剛が両手を頬に当てて身をよじらせる。ヤンは苦笑しながら、そのストレートな好意を適当に受け流した。
「ああ。それも個人的には大変魅力的だがね。今はもう少し、戦略的な話をさせてくれないか」
「ワオ!」
……受け流したつもりが、金剛には「魅力的」という単語だけが都合よくフィルターされて届いたらしい。彼女は歓声を上げると、デスクを回り込んでヤンの背後に立ち、その首に背後からギュッと抱きついてきた。
「ちょっ、金剛……!」
「うふふー。テイトクの匂い、落ち着きマース」
豊かな髪がヤンの頬をくすぐり、柔らかな感触と仄かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。ヤンが助けを求めるように視線を送ると、大淀は手元の書類から顔を上げることなく、「私は何も見ておりません」という完璧な秘書の態度でスルーを決め込んでいた。
「あのね……、聞きたいことがあるんだが」
ヤンは諦めて小さく息を吐き、自らの首に巻き付く金剛の腕を軽く叩きながら、耳元にある彼女の顔へ向けて静かに問いかけた。
「……どうされたんデス?」
ヤンの声のトーンが、日常のそれから、知的な探求者のそれへと切り替わったのを感じ取り、金剛もふざけるのをやめて真剣な声で聞き返した。
「君たちの『装備』について、少し歴史的な疑問があってね」
「装備、デスか?」
「ああ。君たち艦娘は、かつて人類が建造した軍艦をそのルーツとしている。そして史実を紐解けば、軍艦というものは建造されてから沈むまでの間、何度もドックに入り、『近代化改修』や『改装』を受けているはずだ。主砲の仰角を引き上げたり、対空兵装を増設したり、機関を換装したりとな」
ヤンの脳内に、かつての地球の海戦史の知識がフラッシュバックする。造船技術と航空技術の目まぐるしい進歩の中で、第一次世界大戦期に建造された艦船は、第二次世界大戦を戦い抜くために幾度もその姿を変えてきた。それは兵器としての必然の歴史である。
「……となればだ。君たちがオカルトの力で顕現しているとはいえ、その『改装後の姿』や『性能の向上』といった要素も、何らかの形で反映されるシステムが存在するのではないか……などと思ってね。オカルトにはオカルトの物理法則があるはずだから」
ヤンが肩を竦めてそう言うと、金剛はヤンの首からパッと身体を離し、少しだけ真面目な顔つきで首を傾げた。
「……確かに、そうデスねー」
金剛は自らの艤装の構造を思い浮かべるように、宙を見つめた。
「史実のワタシは、最終的に二度の大きな改装を受けて、艦尾の形が変わったり、対空機銃をハリネズミのように増設されたりしてマシタ。何より、私がレイテ沖で沈んだ時は、すでに水上偵察機を飛ばせるカタパルトを装備していたハズデスから。……そう言う意味だと、今のワタシの装備状態は、あの時の『最終改装状態』ではないデスし」
「水上偵察機、か」
ヤンは顎を撫でた。戦艦が自前で偵察機を飛ばせるようになれば、艦隊の索敵能力は飛躍的に向上する。特に、空母を制空専用の「傘」として割り切った現在のヤンの戦術ドクトリンにおいて、巡洋艦や戦艦が索敵の目を持つことの戦略的価値は計り知れない。
「大淀さん。君のデータバンクに、艦娘の『改装』に関する記録はないかい?」
ヤンが話を振ると、大淀はバインダーを閉じ、思案するように首を傾げた。
「そう言われますと……。各鎮守府からの報告書には、『練度が上がった艦娘が、資材を消費して新たな装備や姿へと変化した』という不確定な伝聞記録がいくつか残されてはいます。しかし、その具体的なメカニズムや、人為的に改装を引き起こす方法については、司令部でも完全にブラックボックス化されているのが現状です」
「……ふむ」
ヤンはデスクから立ち上がり、制帽を手に取った。机の上で推論を重ねるのは歴史家や哲学者の仕事だが、実用的な技術を求めるのであれば、現場の技術者に直接話を聞くのが最も合理的である。
「こういうオカルトめいたシステムの謎解きは、あそこでカンカンとハンマーを振るっている『妖精さん』たちに直接話を聞くのが一番早いか。通訳の苦労はありそうだがね」
ヤンがポンと制帽を頭に乗せると、金剛が嬉しそうにパッと顔を輝かせた。
「おっ! テイトクと工廠デートですカ!? ワタシも行きマース!」
「デートではないが……君自身の身体の仕組みを知るためにも、同行してもらえると助かるよ。大淀さんも、記録係として頼めるかい?」
「はい、承知いたしました。ヤン提督」
かくして、不敗の魔術師たる青年提督と、有能な秘書艦、そして陽気な英国生まれの戦艦という奇妙な三人組は、新たな謎を解き明かすべく、鎮守府の地下深くにある建造ドック――通称『工廠』へと向かって足を踏み出した。
彼らがそこで知ることとなるあるシステムは、やがて来るであろうバシー海峡の深淵、そしてフィリピン沖に広がる圧倒的な暗黒へと立ち向かうための、人類にとって最も強靭な「盾と剣」へと進化していくこととなるのだが――。
この時のヤン・ウェンリーは、まだ自らの手駒がいかほどの潜在能力を秘めているのか、その底知れぬ深淵の入り口に立ったばかりであった。