「今日は、お調べものですか?」
ふいに沈黙を破ったのは、隣に座る女性の方だった。彼女の視線は、ヤンの前に無造作に築かれた中国史や古代戦史の分厚い本の山に向けられている。
「ああ、まぁ、そんなものです。あー、その……、地元ですとまともな資料が無くて」
ヤンは異世界から来たなどと言えるはずもなく、適当な言い訳を口にしながら少しだけ身をよじった。
「ああ、ここは日本でも屈指の所蔵量を誇りますからね。あ、私は、大淀、と申します」
「これはこれはご丁寧に。ヤン・ウェンリーと申します」
「ヤンさん、とお呼びしても?」
「かまいませんよ」
朗らかなやり取りに、ヤンは毒気のない微笑みを返した。しかし、次に彼女の口から紡がれた言葉は、古代の歴史の海に心地よく漂っていたヤンを、硝煙の香る現実へと一気に引き戻すものであった。
「ではヤンさん。まずお礼を。最近、兵站が劇的に改善していて、非常に助かっています」
「……兵站?」
間の抜けた声を上げたヤンに対し、大淀と名乗った女性は、眼鏡の奥の理知的な瞳を和ませて頷いた。
「あ、はい。私も横須賀勤めです」
「ああ……」
ヤンは内心で舌打ちをした。後方で目立たず給料泥棒を決め込むつもりが、どうやら、すでに一部の軍人の目に留まっていたらしい。
「しかし、君のような女性が軍に勤めているというのは、どうにも慣れなくてね。考察するに、君は参謀か、それともお茶汲みか何かかい?」
「そう、ですね。お茶汲みも、参謀のような仕事も兵站も行いますが、前線にも出ますよ」
前線。その単語に、ヤンは思わず目を丸くした。この清潔感のある穏やかな女性が、あの正体不明の怪物たちが蠢く海へ出て、直接砲火を交えているというのか。
「……それはそれは。余計に信じられませんね」
ヤンは小さく息を吐き、歴史書から完全に意識を切り離した。有能な怠け者の脳内で、これまで目を通してきた異常な重油と弾薬の消費データ、老軍人の言葉、そして目の前の彼女の存在が、一つの奇妙な事実として結びついていく。
「で、気になっているのですが、戦線はどうなんです? 書類を見る限り、かなり劣勢な気がしますが」
ヤンの直球な問いに、大淀の表情から微かに笑みが消え、実務家としてのシビアな顔つきが覗いた。
「……御慧眼、流石です。正直に申し上げれば劣勢、と言わざるを得ないですね。正面海域の維持と、最低限の物資シーレーンを各国でなんとか維持してはいますが……それもいつまで持つか」
言い淀む彼女の声音には、隠しきれない疲労と、途方もない消耗戦に対する焦燥が滲んでいた。ヤンは「ふーむ」と低く唸り、ボサボサの黒髪をガリガリと掻き毟った。
面倒事には巻き込まれたくない。だが、目の前の知的な女性が命をすり減らしている絶望的な現状と、自身の脳内で勝手に組み上がりつつある「劣勢を覆すための戦術パズル」が、彼の厄介な知性をひどく刺激し始めていた。
■
「とはいえ、これ以上は軍の機密事項になりますので」
大淀は自嘲するように小さく苦笑を漏らし、言葉を区切った。一般的な軍人であれば、ここで世間話に戻るか、あるいは適当な相槌を打ってその場を離れるのが作法というものだろう。
しかし、ヤン・ウェンリーは休日の静寂を破られた対価として、もう少しだけ意地悪になる権利があると考えた。彼はボサボサの頭をかきながら、眼鏡の奥の知的な瞳を真っ直ぐに見返し、言葉を投げた。
「でも、君は今日、偶然この席に座ったわけではない。わざわざ休日の図書館まで、私に会いに来た。言い訳は不要だよ? 何か、明確な目的があるのだろう?」
ヤンの指摘に、大淀はわずかに目を丸くしたが、すぐに観念したように息を吐いた。彼女の姿勢が、休日の読書家から、最前線を預かる幕僚のものへと変化する。
「……はい。ご推察の通りです」
大淀は周囲に人がいないことを確認し、声を一段階落とした。
「司令部は現在、まずは南方海域への足掛かりを作り、戦線を安定させることを模索しております。ですが、目下の最大の問題は兵站なのです」
「ふむ。とはいえ、南方への進出計画に合わせた物資は、私の計算でも十分な量を前線へ回しているはずだが?」
ヤンの頭の中には、すでにあの埃っぽい倉庫の机で処理した膨大な数字が、正確なグラフとなって浮かび上がっていた。彼の計算に狂いはない。少なくとも、敵が三倍の兵力で、非常識的な包囲戦を仕掛けてこない限り、部隊を維持できるだけの重油と弾薬は手配したはずだ。
「ええ、おっしゃる通りです。書類上は」
「書類上は?」
「……正直に申し上げますと――」
大淀が身を乗り出し、切迫した声を出しかけた瞬間、ヤンは掌を向けて彼女の言葉を遮った。
「いや、待ってくれ。そこから先は機密なのだろう?」
ヤンはわざとらしく肩をすくめ、再び歴史書へと視線を落とす素振りを見せた。
「私はただの臨時文官だ。戦術に口を出す気もなければ、間違っても前線に出る気など毛頭ない。何より、軍には立派な階級章をぶら下げた優秀な上層部が山ほど居るだろう。彼らと十分に議論は交わしたのかね?」
「優秀な上層部」という言葉に込められた痛烈な皮肉を、大淀が聞き逃すはずはなかった。最前線で血を流す者と、安全な後方で非現実的な作戦を立案する者との間にある絶望的な溝。
それは銀河帝国であれ、自由惑星同盟であれ、そしてこの西暦の地球であれ、いかなる時代の軍隊にも共通する普遍的な病理であった。
「……そう、ですね。ええ。その通りです。ヤンさんはまだ、軍籍を持たない一般の文官の方。私としたことが、焦りのあまり少々出過ぎた真似をいたしました」
大淀は少しだけ残念そうに呟き、手元の専門書に視線を落とした。彼女の肩がわずかに沈んだのを見て、ヤンは自身の冷淡さが少しだけ胸に引っかかるのを感じた。生来の人の良さが、彼を完全な傍観者にさせてくれない。
しかし、侮るなかれ。こと、大淀もただの従順な兵士などではない。彼女はふと顔を上げると、今度はどこか挑戦的な、それでいて知的な好奇心をくすぐるような笑みを浮かべた。
「……では、軍の機密とは一切関係のない、『一般的な戦術議論』としてお聞きしたいのです。もしヤンさんが、圧倒的な物量を持つ正体不明の敵に対し、補給線が慢性的に脅かされている防衛側に立たされたとしたら……この現状を、どう打破しますか?」
その言葉を聞いた瞬間、ヤンの黒い瞳の奥で、無精者の皮を被った「魔術師」の知性が微かな光を放った。
責任を伴う軍務や、血の流れる現実の作戦立案であれば、彼は全力で逃げ出しただろう。しかし、「一般的な戦術議論」であり「思考実験」であるならば話は別だ。それは歴史家を志す彼にとって、複雑に絡み合った知恵の輪を解くような、極上の知的遊戯に他ならない。
「……なるほど。そういうことであれば」
ヤンは口元に微かな笑みを浮かべ、大げさに肩をすくめてみせた。
「機密には触れない、表に出せる範囲の一般的な情報だけを頂きたい。休日の暇つぶしに思考実験をするぐらいならば、喜んでご協力いたしましょう」
■
「艦船の建造が、まったく間に合っておりません」
大淀の口から静かに放たれたその言葉は、いかなる軍事機密の漏洩よりも、ヤン・ウェンリーの理性を根本から揺さぶる「爆弾」であった。
「……何?」
ヤンは思わず、読んでいた歴史書のページから完全に顔を上げ、胡乱な目を大淀に向けた。
「それほどまでに、日本の艦艇は数を減らしてしまったのかい?」
「はい。かの相手……深海棲艦。『彼女ら』に対抗するには、かつての日本帝国海軍が誇った軍艦では、有効打を与えることが出来なかったのです」
「……うん?」
ヤンは無意識のうちに、ボサボサの黒髪に指を突っ込んでガリガリと掻き毟っていた。彼の脳内で、士官学校時代に叩き込まれた古典的な物理学と軍事史の知識が、猛烈な勢いで警鐘を鳴らしていた。
「いや、待ってくれ。既存の艦隊となると、それはつまり、三十センチ近い口径の主砲を持つ巡洋艦や戦艦などを指す、わけだよな?」
「はい。その通りです」
「それが、通用しない?」
ヤンは心底から理解できないという顔をした。
彼が生きた遥か未来の宇宙空間におけるエネルギー兵器の撃ち合いならいざ知らず、この時代の兵器は純粋な物理法則に則った、極めて古典的な質量兵器である。数百キログラムから数トンにも及ぶ鋼鉄の塊が、火薬の爆発的なエネルギーを推進力として音速を超えて飛来するのだ。
それが目標に直撃した際に生じる運動エネルギーは、熱力学とニュートン力学の絶対的な支配下において、いかなる強固な装甲であろうと、少なからず致命的な破壊をもたらすはずである。
それが「通用しない」などということが、エネルギーシールドがあるはずの遥か未来ならばいざ知らず、物理法則の存在するこの宇宙においてあり得るのだろうか。
「まぁ、にわかには信じられませんが……。私が知らないだけで、相手は未知のエネルギーシールドでも展開しているとでもいうのでしょうか」
ヤンは深いため息をつき、思考の迷宮から無理やり抜け出すように首を振った。
「ひとまず、その物理学的な矛盾は『そういうルールが設定された盤面である』と仮説づけて、脇に置いておきましょう。つまり、その深海棲艦とやらに対応するために、既存の軍艦ではない『新たな艦船』を作らねばならない。そして、それがまだ圧倒的に数が揃っていない、ということですね?」
「左様です」
大淀は、ヤンの異常なほどの飲み込みの早さと、現実を即座に「盤面のルール」として俯瞰できる柔軟性に内心で舌を巻きつつ、重々しく頷いた。
「故に、後方からどれだけ大量の物資を送られても、それを前線で消費しきれるだけの『駒』が存在しないのです。あるいは、少ない戦力で無理な連戦を強いられるため損耗が激しく、修復のための入渠に時間が掛かりすぎている。兵站の数字は十分に足りていても、前線の部隊そのものが摩耗し、すり潰されているのです」
「……うーん」
ヤンは再び頭を捻り、今度は腕を組んで天井を仰いだ。
戦術や兵器の在り方がいかに異端であろうと、この現状が示している組織の病理は、歴史家たるヤンにとってあまりにも見慣れた、そして最も忌み嫌う類のものであった。
書類上の数字だけを見て「倉庫にはまだこれだけの物資があるのだから、前線は戦えるはずだ」と盲信する後方の高級軍人と、ギリギリの戦力で絶望的な戦線を維持し、少しずつ血を流しながら摩耗していく前線の兵士たち。
それは、自由惑星同盟軍が幾度となく陥った悪夢であり、負けの込んだ末期の軍隊が必ず辿る、破滅への典型的なプロセスそのものであった。
「まぁ、敗色が濃厚になった軍隊の官僚組織がそのように硬直化してしまうのは、特定の誰の責任というより、人間の歴史が証明する普遍的な病理でしょう。私に言わせれば、数字の辻褄合わせで安心を得ようとするのは、現実から目を背けるための最も低劣な麻薬です」
ヤンは辛辣な言葉を吐き捨てた後、視線を大淀に戻した。
「しかし、理屈はシンプルです。駒が足りなくて戦線が維持できないのであれば、建造能力を何倍にも引き上げるという手段は取れないのですか? 国家の総力を挙げて工業力をフル稼働させ、その『新たな艦船』を大量生産すれば済む話でしょう。それこそが、総力戦における唯一の正攻法のはずですが」
「……それが、特殊な建造方法でして」
大淀の顔に、今日一番の苦く、そしてどこか途方に暮れたような笑みが浮かんだ。
「最大で、四つのドックしか作れないのです。どれだけ国家予算を注ぎ込もうと、一つの鎮守府につき、建造ドックは四つまで。しかも……現在は物資ではなく、『縁』の不足によって、未だに建造ドックは一つしか稼働しておりません」
その言葉を聞いた瞬間、ヤンは自分の耳を疑い、数秒ほど完全に沈黙した。
「……縁? えにし、とおっしゃいましたか?」
「はい。人と人、あるいはモノとモノを結びつける、あの『縁』です」
「それは、つまり、その……運命とか、精神的な繋がりとか、そういう非科学的な何かを指しているわけではないですよね? 何か特殊なレアメタルの暗号名か何かで……」
ヤンがすがるような目で見つめたが、大淀は静かに、しかし残酷なほどに真っ直ぐに首を横に振った。
「……残念ながら」
ヤンは深く、ひどく長いため息を、今日何度目かわからないほど吐き出した。
物理法則を無視した敵の装甲。
書類上の数字と乖離した前線の惨状。
極端に制限された工業力。
そして、軍事力の増強を阻む理由が、資源でも技術でもなく「縁」という得体の知れない概念であるという事実。
これらを統合して導き出される結論は、もはや古典的な戦術論や兵站学の範疇を完全に逸脱していた。
「なるほど。どうやら私は、軍隊の兵站局に雇われたつもりで、とんでもないオカルト教団の経理を任されていたらしい。軍事戦略を語る上で『縁が足りないから兵器が作れない』などという言い訳が通る世界線があるとは。人よりは歴史の教科書を読み込んだと、そう自負していた私ですが……、いやはや、まだまだ知見が足らないらしい」
ヤンは毒づきながらも、その瞳の奥では、この狂気じみた盤面で「いかにして味方を死なせずに、敵の攻勢を凌ぐか」という、不敗の魔術師としての思考の歯車が、すでに高速で回転し始めていた。