翌日。ヤン・ウェンリーは、バシー海峡強行偵察の作戦発動を、独断で丸一日(二十四時間)延期する決定を下した。
前線において出撃のタイミングを遅らせることは、敵に態勢を立て直す時間を与えるリスクを伴う。しかし、見えない暗殺者たる「潜水艦」の脅威を認識した以上、対潜装備の習熟訓練を行わずに部隊を海へ放り出すことは、作戦ではなく単なる自殺命令に他ならない。ヤンは冷徹な用兵家として、そのリスクの天秤を正確に測り切っていた。
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横須賀近海の演習海域。どんよりとした曇り空の下、ヤンは沿岸の監視所から、双眼鏡越しに第六駆逐隊と神通の対潜訓練を熱心に見学していた。
「……なるほど。これは確かに、一筋縄ではいかないな」
ヤンは双眼鏡を下ろし、ボサボサの黒髪を掻き回しながら独りごちた。海面では、明石と妖精たちが徹夜で急造した『九三式聴音機』と『爆雷投射機』を装備した駆逐艦たちが、仮想敵に見立てた標的へ向かって次々と爆雷を投下している。
海中に沈んだ爆雷が起爆し、数秒遅れて凄まじい水柱と腹の底に響くような衝撃波が海面を揺らす。それは水上艦同士の派手な砲撃戦とは全く異なる、重苦しく、そしてひどく「神経をすり減らす」戦闘訓練であった。
軍事史の書物を紐解けば、潜水艦の戦術や対潜戦闘の理論について記されたページはいくらでもある。ヤンも歴史家として、それを知識としては完全に網羅していた。しかし、実際に広大な海を前にして、目に見えない海中の一点を音(ソナー)だけを頼りに探し出し、そこへピンポイントで爆発物を投下するという作業が、いかに非現実的なまでの精度と忍耐を要求されるか。それは、現場の空気を吸い、海流の不規則さを肌で感じなければ決して理解できない性質のものであった。
「やはり、書物の中の活字を追っているだけでは駄目なこともあるな。私の頭の引き出しは、どうやら地球の海では半分も役に立たないらしい」
ヤンが自身の経験不足を素直に認めて苦笑していると、訓練の第一フェーズを終え、一時的に桟橋へと戻ってきた第六駆逐隊の末っ子、電(いなずま)が小走りでヤンの元へとやってきた。
「お疲れ様。見事な爆雷投射だったよ、電」
「あ、ありがとうございます、司令官さん。ですが……実戦では、こんなに上手くはいかないのです」
電は額の汗を拭いながら、どこか沈痛な面持ちで首を横に振った。普段は大人しく、戦いを好まない心優しい少女だが、今の彼女の瞳には、歴戦の駆逐艦としての極めてシビアな現実認識が宿っていた。
「見学していてお分かりになったと思うのですけれど、そもそも潜水艦を『発見する』こと自体が、至難の業なのです」
「……音を頼りにするソナーがあっても、かい?」
「はい。海の中には温度の違う層(水温躍層)があって、音がそこで曲がったり、跳ね返ったりしてしまうのです。それに、海の波の音や、私たち自身のスクリューの音も邪魔をします。ソナーは万能の魔法ではないのです」
電は自らの装備である水中探信儀を撫でながら、教官のように、しかしどこか自戒を込めるように語った。
「どれだけ気を張っていても……見張り員が目を皿のようにして海面を睨み、ソナー員が耳から血が出るほど音を聞き分けていても、気付いた時には、必殺の魚雷が目の前の海面を割って迫ってきている……なんてことも、珍しくないのです。それが、潜水艦なのです」
その言葉には、理屈を超えた強烈な実感が籠もっていた。
オカルトによって顕現した彼女たちは、かつて人類が運用した軍艦の記憶を魂の底に引き継いでいる。特型駆逐艦・電。史実において、彼女を海の底へと引きずり込んだのは、他でもないアメリカ海軍の潜水艦であった。見えない敵に対する本能的な恐怖と警戒心は、彼女たちのDNAに深く刻み込まれているのだ。
その背景にある歴史を、軍事史家であるヤンが知らないはずはなかった。
「……潜水艦は、嫌いかい?」
ヤンがふと、確認するように優しく問いかけると。
「……とても、嫌いなのです」
電は下を向き、前髪の影に顔を隠したまま、ぽつりと呟いた。
その瞬間、彼女の周囲の空気が、急激に氷点下まで下がったように錯覚した。普段の温和な電からは想像もつかないほど、底知れぬ暗い怒りと、冷たい殺意を孕んだ凄絶な横顔。深海棲艦の潜水艦に対する、魂の底からの忌避感と憎悪。それは、ヤンが思わず背筋を正すほどに「怖い」表情であった。
(……藪蛇、だったな)
ヤンは心の中で冷や汗を拭いながら、小さく肩を竦めた。不用意に触れてはならない、戦士たちの癒えぬ古傷を撫でてしまったらしい。
「すまない、変なことを聞いた。君たちがどれだけ過酷な戦場に立っているのか、改めて痛感したよ。……少し休んでから、午後の訓練に戻ってくれ」
「はい……! 失礼するのです!」
ヤンの言葉にハッと我に返った電は、いつもの大人しい少女の顔に戻り、ペコリと深くお辞儀をして仲間たちの元へと駆けていった。一人監視所に残されたヤンは、海風に吹かれながら、重々しい溜息を吐き出す。
(さて。対潜兵装という対抗手段を得たとはいえ、こうなると戦略の前提を根本からひっくり返さねばならなくなったな)
ヤンの頭脳が、猛烈な勢いで新たな盤面を再構築し始める。当初の作戦計画では、敵の中枢たる東シナ海を避け、あえて日本列島の太平洋沿岸を大回りして沖ノ鳥島方面へと抜ける「欺瞞ルート」を採用するはずだった。高速で敵の目を欺き、フィリピンへと接近するためである。
しかし、もし太平洋の海底に、深海棲艦の潜水艦による見えない哨戒網(ピケット・ライン)が敷き詰められていたとしたらどうなるか。
潜水艦をソナーで発見しながら進むということは、すなわち「速力を落とさねばならない」ということを意味する。高速でスクリューを回せば自艦の騒音でソナーは使い物にならなくなり、盲目のまま敵の魚雷原へ突っ込むことになるからだ。だが、速力を落として対潜警戒をしながら進めば、当然ながら「高速偵察艦隊」としての機動力は死ぬ。時間をかければかけるほど敵に発見されるリスクは跳ね上がり、最悪の場合、潜水艦の報告を受けた敵の機動部隊や水上打撃群に包囲され、海の真ん中で袋叩きにされてしまう。
かといって、潜水艦のいない(あるいは少ない)であろう東シナ海を正面から突破しようとすれば、それは敵の残存主力がひしめく本陣のど真ん中を強行突破することと同義であり、隠密偵察の意味を成さない。
「太平洋を回る迂回ルートは、もはや欺瞞ではなく、敵の罠に自ら首を突っ込む死出の旅だ。索敵の目を掻き潜り、かつ高速を維持したまま、どうやって敵の裏へ抜けるか……」
ヤンは両手の指を組み、親指でこめかみを強く揉みほぐした。
手持ちのカードは限られている。情報も足りない。海という特殊な環境がもたらす制約が、不敗の魔術師の思考を幾重にも縛り付けていた。
「さて、どうしたものかね……」
誰もいない監視所で、ヤンは力なく天を仰いだ。彼の優れた知能は、この難局を打破するためのいくつかの「泥臭い解答」をすでに弾き出しつつあったが、それはどれも危険な綱渡りであり、司令官としては胃の痛くなるような代物ばかりであった。
「……こんな時、せめてアッテンボローか、フィッシャー提督がいてくれればなぁ」
ヤンは現実逃避のようにつぶやき、かつての同盟軍における頼もしい、そして時にひどく騒がしい部下たちの顔を思い浮かべた。
もしこの場に、艦隊運用の天才であるエドウィン・フィッシャーがいれば。彼は無数の潜水艦が敷き詰められた海域であっても、海流と地形を完璧に計算し、敵のソナーの死角だけを縫うような神業的な艦隊機動を平然とやってのけただろう。
もしこの場に、遊撃戦の達人であるダスティ・アッテンボローがいれば。彼は空き缶と発煙筒を積んだ囮の無人ボートを何十隻も走らせ、「伊達と酔狂でやってるんだ!」と叫びながら、敵の潜水艦網を大混乱に陥れるような奇策を嬉々として提案してきたに違いない。
「……無いものねだり、というやつだな」
ヤンは自嘲気味に笑い、自らの甘えを海風の中に捨て去った。
ここにいるのは自分一人だ。そして、目の前には命を懸けて戦う少女たちがいる。彼女たちを無事に帰還させるための唯一の魔法(せんじゅつ)を紡ぎ出せるのは、このボサボサ頭の怠け者しかいないのだから。
ヤンは冷めきった紅茶の入った水筒を手に取り、決断を下すべく、再び司令部へと重い足取りで戻っていった。
■
書物の山に埋もれた執務室で、ヤン・ウェンリーは何度目かわからない深いため息をついた。
机上に広げられているのは、かつての地球における第二次世界大戦の対潜戦術マニュアルや、古い海戦史の資料である。護衛船団方式、ソナーと爆雷の運用幾何学、哨戒機の連携。歴史家である彼の知識欲を満たすには十分な内容だったが、現在直面している「深海棲艦と艦娘」というオカルトじみたパラダイムにそのまま適用できるかといえば、甚だ疑問であった。
そもそも深海棲艦の潜水艦が、ディーゼル機関の排気やバッテリー充電のための浮上を必要とするのかすら定かではない。資料をいくら捲っても、未知の化け物に対する解答など載ってはいないのだ。
「考えても埒が明かないな。完全な手詰まりというやつだ」
ヤンが諦めたように肩を竦め、冷めきった紅茶に手を伸ばそうとしたとき、執務室のドアが控えめにノックされた。現れたのは、頭にゴーグルを乗せた工作艦・明石と、作業着姿の小さな妖精たちであった。
「ヤン提督、お仕事中失礼します。実はあの後、妖精さんたちと何度か工廠で開発をさせていただきまして……」
「おや、それはご苦労さま。それで、結果はどうだったんだい?」
ヤンが問いかけると、明石は少しだけ申し訳なさそうに視線を泳がせ、妖精たちも気まずそうにモジモジと身をよじった。
「それが……またしても水中探信儀(ソナー)と爆雷投射機が2セット……という結果になりまして。索敵機を期待されていたのに、本当にごめんなさい」
明石の肩がしゅんと落ちる。しかし、それに対するヤンの反応は、彼女の予想とは正反対のものであった。
「いや、謝る必要はないよ、明石。むしろ大いに助かる。君たちには感謝の言葉しかない」
「えっ?」
「実はここ数時間、私は潜水艦という存在について極めて深刻に認識を改めていてね。今の我が艦隊において、対潜装備の充実は何よりも優先されるべき課題に昇格したんだ。だから、この追加装備は本当に有難い」
ヤンは正直な心情を吐露した。索敵機も喉から手が出るほど欲しいが、まずは海の底から迫る見えない暗殺者に対抗する手段を、第六駆逐隊の全員に行き渡らせる必要がある。その意味で、工廠の『乱数』は結果的に最善の仕事をしたと言えた。
「しかしだ」
と、ヤンは再びボサボサの黒髪を乱暴に掻き回した。
「道具が揃っても、私自身に『対潜戦闘』の経験が完全に欠落している。宇宙空間での索敵と隠密行動ならいくらでも方程式を描けるが、分厚い海水を隔てた水中の敵を相手に、どのように艦隊を動かし、どのように陣形を組むのが最適解なのか。……どうしたものかね」
司令官としての率直すぎる弱音に、明石はキョトンとした後、持ち前の快活な笑声を上げた。
「なんだ、そんなことですか! それなら艦娘(わたしたち)に聞けばいいんですよ!」
「艦娘に?」
「はい。提督もご存じかもしれませんが、我々の魂の底には、かつての『船』としての記憶と経験が深く刻み込まれています。ですから、対潜戦闘に詳しい駆逐艦や軽巡洋艦の連中に直接話を聞くのが、一番手っ取り早くて確実です!」
明石の提案は、極めて論理的かつ実用的なものだった。しかし、ヤンは困ったような笑みを浮かべて首を横に振った。
「いや、実はさっき、演習を見学したついでに電(いなずま)に話を聞いてみたんだ。そうしたら、『どれだけ気を張っていても、いきなり魚雷が目の前に来ることもある』と、実に生々しく恐ろしいレクチャーを受けてしまってね。おかげで、潜水艦とはいかに厄介で絶望的な相手かという事実を突きつけられ、余計に頭を悩ませているのさ」
ヤンの言葉に、明石も、
「うーん……」
と腕を組み、足元の妖精たちも小さな頭を抱えて悩む素振りを見せた。現場の兵士の恐怖と実感は、必ずしも司令官の求める『戦術的解決策』とイコールにはならない。兵士が恐れるものを、どうやってシステマチックに排除するかを考えるのが指揮官の仕事なのだから。
しばらくの沈黙の後、明石がポンと手を打った。
「じゃあ……経験豊富な『人間』に聞くのはどうでしょう?」
「経験豊富? 艦娘以上に海戦に詳しい人物が、この鎮守府に居るのかい?」
「いますとも。つまり、この鎮守府の『さらに地下』にいる人たちです」
明石は指を真下へ向けた。
「あの地下の特別区画に集まっている、司令部の上層部、御老人たちですよ。彼らは曲がりなりにも、過去の大戦や、深海棲艦が侵攻してきた初期の地獄のような海戦を生き残った人々ですからね。当時の対潜教義(ドクトリン)や、深海棲艦の潜水艦の挙動パターンについて、提督の知らない実戦記録を持っているはずです。頼ってみていいと思いますよ」
その言葉に、ヤンは雷に打たれたように目を瞬かせた。
「…………確かに」
ヤンはパンッと軽く柏手を打った。
かつての自由惑星同盟において、軍の上層部といえば、権力闘争と自己保身に明け暮れる腐敗した老人たちの巣窟であった。そのトラウマにも似た先入観が、ヤンの視野を無意識のうちに狭めていたのだ。
しかし、この横須賀鎮守府の地下深くに身を潜めている老人たちは違う。彼らは保身のために逃げ込んだのではない。絶望的な状況下で最後まで抗戦を指揮し、そして外様であるヤン・ウェンリーという素性の知れない青年に、人類の未来を託すという極めて柔軟で決死の判断を下した、真の『歴戦の軍人』たちなのだ。
「いかんな。慣れない土地で、どうも私の考えが凝り固まってしまっていたようだ。自分一人で抱え込み、書物の中だけで答えを出そうとするのは、悪い学者の癖だ」
ヤンは自嘲気味に笑い、制帽を手に取った。彼が不敗の魔術師と呼ばれた所以は、彼一人ですべてを解決したからではない。ダスティ・アッテンボローやエドウィン・フィッシャー、アレックス・キャゼルヌといった、それぞれの分野の専門家たちを完璧に信頼し、使いこなしたからこそである。
「そうだ、詳しい人々に助けを求めればいい。餅は餅屋であり、適材適所だ。彼らの知恵と経験を借りない手はない」
ヤン・ウェンリーは、憑き物が落ちたような晴れやかな顔で明石と妖精たちに礼を言うと、一路、鎮守府のさらに深部――あの老人たちが集う地下司令室へと足を向けた。見えない敵を打ち破るための、歴史の記憶を掘り起こすために。