「大淀さん、少しばかり散歩に付き合ってくれないか」
執務室のデスクに積み上げられた海戦史や大戦時の対潜戦術マニュアルをパタンと閉じたヤン・ウェンリーは、傍らで事務作業をこなしていた秘書艦にそう声をかけた。
「散歩、ですか? 構いませんが……鎮守府の敷地内でしょうか」
「ああ。少しばかり空気が淀んでいる気がしてね。地下のさらに奥深くまで、足を伸ばしてみようと思う」
ヤンが指差したのは、物理的な下方――すなわち、この横須賀鎮守府の最深部に位置し、旧世紀の遺物のごとき重厚な隔壁に守られた『中央作戦司令室』であった。そこは、ヤンをこの世界に引きずり込み、そして全権を委任して引きこもっている老人たち――深海棲艦という絶望に最後まで抗い続けてきた、かつての人類軍の最高幹部たちが詰めている場所である。
二人が薄暗い、しかし堅牢なコンクリートの通路を歩いていく道すがら、大淀は少しばかり不思議そうな顔をした。
「ヤン提督から上層部の方々へ直接赴かれるとは、珍しいですね。何か戦略上の重大な変更でも生じたのでしょうか」
「重大な変更といえばそうなるかもしれないがね。……単に、私が自分の無知を悟って、教えを乞いに行くというだけの話さ」
ヤンはベレー帽のつばを軽く撫でながら、自嘲気味に笑った。
かつて彼が所属していた自由惑星同盟において、軍の上層部というものは、自己保身と権力闘争に明け暮れ、失敗の責任を常に現場の指揮官に押し付ける腐敗した官僚の巣窟であった。ヤンにとって「上層部」とは、できれば関わり合いになりたくない、あるいは最小限の接触で済ませたい厄介な存在の代名詞であった。しかし、この世界における彼らは違う。少なくとも、自分たちの無力さを認め、見ず知らずの青年に人類の命運を託すだけの度量と、絶望の中でも決して軍服を脱がなかっただけの矜持を持ち合わせている。
やがて、厳重な警備の敷かれた重厚な扉の前に辿り着く。大淀が身分証を提示し、入室の許可を求めると、分厚い鋼鉄の扉が重々しいモーター音と共に開かれた。
司令室に足を踏み入れたヤンを出迎えたのは、かつて彼が初めてここに呼ばれた時に見た、陰惨な死の影が立ち込める空気ではなかった。薄暗い照明は変わらないものの、室内を行き交う通信兵や幕僚たちの足取りには確かな活気があり、何より、中央の円卓を囲む老人たちの顔色には、劇的な変化が生じていた。
「おや? おお! ヤン提督ではないか」
ヤンの姿を認めるなり、司令長官と呼ばれていた白髪の老人が、柔和な、そしていくぶんか目元のクマが薄くなった顔で立ち上がり、朗らかな声を上げた。
「珍しい来客だ。わざわざ足を運んでくれるとはな。……いや、君の顔を見たら、まずは礼を言わねばなるまいと思っていたところなのだよ」
長官は歩み寄り、ヤンの手を両手で固く握りしめた。
「君の卓越した采配と、現場の艦娘たちの奮闘によって、横須賀のみならず、佐世保、呉……ひいては日本海側の舞鶴鎮守府までもが、首の皮一枚で息を吹き返しつつある。補給線が繋がり、各地から歓喜と安堵の報告が絶え間なく届いておるのだ。感謝してもしきれんよ、ヤン提督」
それは、長きにわたって敗北と後退のみを強いられてきた指揮官が、数年ぶりに味わう「戦略的勝利」の美酒の味であった。他の幕僚たちも、ヤンに向けて深い敬意と賛同の眼差しを向けている。
「どうも。……ですが、私は安全な後方で海図に線を引いていただけです。実際に血を流し、大層な働きをしたのは現場の艦娘たちですよ。私など、大したことはしていません」
ヤンは握手を返しながら、いつものようにボサボサの頭を掻いて苦笑した。それは謙遜ではなく、彼自身の偽らざる本心であったが、老人たちには「功を誇らない奥ゆかしい若き英雄」として映っているようだった。
「相変わらず欲のない男だ。……それで、今日は一体何か用かね?」
司令部の一人――かつて作戦参謀を務めていたであろう初老の男が、不思議そうに首を傾げた。
「我々としては、君に作戦の指揮権を全権委任したつもりだ。予算も資材も、すべて君の裁量で好き勝手にやってくれというスタンスでいる。ヤン提督の方から、わざわざ我らのような過去の遺物に用事があるとは思えないのだがな」
「その通りだ」
と、長官も笑いながら頷いた。
「戦略、戦術における君の頭脳は、もはや我々の理解を遥かに超えている。東シナ海の奪還作戦など、かつて我々が何度挑んでも成し遂げられなかった偉業だ。我々は完全に君に頼りっぱなしだからなぁ。……今、我々のような老いぼれに出来る仕事といえば、君に権限を委任し、もし君が失敗した時に『責任を受け止める』という、防波堤になることぐらいだよ」
自嘲気味に、しかし確かな覚悟を持って語られたその言葉に、ヤン・ウェンリーの表情から、それまでののんびりとした空気がスッと消え去った。
「……十分どころか、これ以上ないほどに助かっております」
ヤンは、極めて真摯な、一点の曇りもない真っ直ぐな瞳で老人たちを見つめ返した。
「上に立つ者が『責任を持ってくれる』という事実だけで、前線の指揮官というのは、驚くほど頭が良く回るようになるものです。責任の所在が明確であればこそ、私は一切の政治的配慮を捨てて、純粋に軍事的な合理性のみを追求できる。皆様の存在は、私にとって最高の戦力ですよ」
かつての自由惑星同盟において、ヤンは常に政治家たちの顔色を窺い、彼らの責任逃れのための尻拭いをさせられ続けてきた。だからこそ、「責任は我々が取るから、軍事の専門家として好きにやれ」と言い切ってくれるこの老人たちの存在が、どれほど貴重で、どれほど指揮官の精神的負担を軽減してくれるかを、彼は骨の髄まで理解していたのである。
しかし、老人たちはヤンのその深刻なほどの真面目さを、一種のウィットに富んだ冗談だと受け取ったようだった。
「はっはっは! 冗談が上手いな、ヤン提督。我々の無能をそうやって慰めてくれるとは、君は戦術だけでなく、人心掌握にも長けているらしい」
「全くだ。我々が責任を取る前に、君が勝ってしまうのだから、我々はただ判子を押すだけの機械になり下がっておるよ」
和やかな笑い声が司令室を包む。大淀も、提督と上層部の良好な関係に安堵の笑みを浮かべていた。だが、ヤンは笑わなかった。彼はベレー帽を小脇に抱え、姿勢を正すと、軍人として――いや、一人の人間として、深く頭を下げたのである。
「冗談ではありません。……私は、心から感謝しているのです」
ヤンの低く、静かな声が、司令室の笑い声をピタリと止ませた。
「結果論として今は上手くいっているから良いようなものの、皆様は、どこの馬の骨とも知れない、素性も経歴も全く分からない男に、残された人類の全戦力と命運を預けるという、極めて常軌を逸した決断を下されました。もし私が無能であれば、あるいは敵のスパイであれば、人類はとうの昔に滅亡していたはずです」
ヤンは顔を上げ、老人たちの目を一人一人順番に見つめた。
「その無限の責任を取る覚悟を背負い、見ず知らずの私にこのような身分と権限を与えていただいたこと……一人の用兵家として、これほど名利に尽きることはありません。非常に感謝しております」
ヤンの予想外に重い、そして誠実極まりない言葉に、長官をはじめとする老人たちは一瞬言葉を失い、やがて気恥ずかしそうに、しかし深く心を打たれたように居住まいを正した。
「……ほう。君のような涼しい顔をした天才からそのような言葉を聞けるとは、長生きはするべきものだな」
「そんな大げさなことを言いにわざわざそちらから足を運んだのかね? まったく水臭いではないか」
「いえ」
ヤンはそこで言葉を区切り、どこかバツの悪そうな、いつものボサボサ頭を掻く青年の顔へと戻った。
「本日、私がここへ足を運ばせていただいたのは、他でもありません。ただの感謝状を読みに来たわけではなく……恥を忍んで、皆様に『お願いごと』があって参ったのです」
「お願いごと、だと?」
長官が怪訝な顔をした。全権を持つヤンが、わざわざ彼らに直接頼み込まなければならないことなど、想像もつかなかったからだ。新たな権限か、あるいは何か政治的な調整だろうか。
幕僚たちが固唾を飲んで見守る中、ヤン・ウェンリーは深く一礼し、自らの決定的な『弱点』を、いっそ清々しいほどの素直さで暴露した。
「実にお恥ずかしい話なのですが……私のこれまでの軍歴と経験上、『潜水艦』という兵器と戦った経験が、一度たりともございません」
「……は?」
「な、なんだと……?」
司令室に、間抜けな静寂が落ちた。無理もない。東シナ海という複雑な海域で、あれほど見事な大艦隊の機動と航空戦術を指揮した男が、「潜水艦と戦ったことがない」などと真顔で言い出したのだ。それは例えるなら、三ツ星レストランの天才シェフが「実は包丁の握り方を知らないのです」と告白するようなものであった。
「宇宙……いや、私のいた環境では、海中という三次元の死角を利用した兵器が存在しなかったものでして。書物で知識としては知っていても、実際の海で、見えない敵を相手にどのように艦隊を動かし、どのように陣形を組むべきかという『肌感覚の戦術』が、私には完全に欠落しているのです」
ヤンは隠し立てすることなく、自らの無知をさらけ出した。彼にとって、見栄やプライドで知ったかぶりをし、その結果として前線の少女たちを海の底へ沈めることほど、愚かで恥ずべき行為はなかったからだ。
「現在、我々は南方海域の奥深くに潜む敵中枢への威力偵察を計画しておりますが、道中の太平洋やバシー海峡には、敵の潜水艦網が敷かれている可能性が極めて高い。このまま私の素人考えで作戦を強行すれば、艦隊は致命的な損害を受けます」
ヤンは再び頭を下げ、その場にいるすべての老人たち――かつての大戦や、深海棲艦との血みどろの海戦を生き抜いてきた『古強者』たちに向かって、真摯な声で乞うた。
「ですから、数多の海戦をくぐり抜けてこられた古強者である皆様方に、どうか、潜水艦の恐ろしさと、それに対抗するための対潜戦術のイロハについて……私に『お知恵をご教授願いたい』のです。生徒として、一から学ばせていただきたい」
その場に居合わせた大淀は、自らの仕える提督の背中を見つめながら、静かな感銘を受けていた。自らの才能に溺れず、不足を知り、他者の経験に頭を下げることができる。それこそが、この怠け者の青年が名将であり続けるための、最大の理由なのだと。
ヤンの告白を聞いた長官は、数秒の呆然とした沈黙の後――やがて、肩を震わせ、腹の底から湧き上がるような豪快な笑い声を上げた。
「はっはっはっは!! なんだ、艦載機の様にてっきり他の鎮守府からの無茶もいいところの資材の追加要請でもされるか、我々のクビでも切りに来たのかと思えば! 天才軍師様は、水の中の化け物の退治の仕方が分からずにお困りというわけか!」
他の幕僚たちも、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、次々と笑い声を上げ始めた。それは決して嘲笑ではなく、彼らの笑いにはヤンに対する深い親愛と、自分たちがまだこの軍において「必要とされている」という、軍人としての無上の喜びが含まれていた。
「笑い事ではありませんよ、長官。私は至って真剣に……」
「分かっておる、分かっておるよ、ヤン提督」
長官は目尻の涙を拭いながら、ヤンの肩をバンバンと力強く叩いた。
「いいだろう。見えない敵に怯える若造に、我々老いぼれが、海という戦場の真の恐ろしさと、泥臭い爆雷戦の極意というものを叩き込んでやろうじゃないか。大淀君! 急ぎ、第一会議室に過去の対潜海戦の記録映像と、海図を用意したまえ! 本日は徹夜の講義になるぞ!」
「はっ! 直ちに準備いたします!」
大淀が嬉々として敬礼し、司令室を飛び出していく。
かくして、不敗の魔術師ヤン・ウェンリーは、かつて地球の海を血で染めた歴戦の老人たちから、海戦における最も陰惨で、最も神経をすり減らす「対潜戦術」の特別講義を受けることとなった。
それは、これから先の熾烈な反攻作戦において、彼が海の三次元戦闘を完全に掌握するための、極めて重要な歴史の転換点であった。