横須賀鎮守府、最深部に位置する第一会議室。
そこは、ヤン・ウェンリーにとって、かつて士官学校で受講したどの戦術講義よりも濃密で、そしてひどく胃の痛くなるような「現実」を叩き込まれる教室へと変貌していた。
円卓の上に広げられたのは、水深や海流、水温躍層といった、三次元的な海の構造を記した膨大な海図とデータ群である。かつての大戦や、深海棲艦との血みどろの海戦を生き抜いてきた白髪の提督や作戦参謀たちは、ヤンという稀代の天才を「生徒」として迎えたことに奇妙な熱狂を覚えながら、彼らが血で贖ってきた対潜戦術(ASW)のドクトリンを、余すところなく伝授していった。
「潜水艦とは、要するに暗殺者なのだよ、ヤン提督」
かつて水雷戦隊を率いていたという初老の参謀が、葉巻の煙を燻らせながら、海図の海底部分を指示棒で叩いた。
「見えない深淵に身を潜め、音もなく接近し、無防備な腹に必殺の短剣(魚雷)を突き立てる。しかしな、彼らとて魔法使いではない。我々のデータが示す限り、深海棲艦の潜水艦もまた、かつて我々が運用した潜水艦と基本的なメカニズムは同じなのだよ。すなわち、バッテリーの充電や空気の入れ替えのために、必ず一定期間で海面へと浮上せねばならない」
「なるほど。息継ぎが必要だということですね」
「その通りだ。だからこそ、最も理想的な対潜戦術とは、敵が浮上した無防備な瞬間を、上空からの哨戒機や水上艦の目視によって発見し、潜る前に叩き潰すことにある。……だがね」
司令長官が、重々しい声で言葉を継いだ。
「それはあくまで、机上の空論……理想論に過ぎん。相手も馬鹿ではないのだ。空に航空機が飛び交い、水上艦が目を光らせている真っ昼間の海上で、のこのこと浮上してくるようなお人好しな暗殺者はいない。彼らが息継ぎをするのは、決まって我々の索敵の目が届かない安全な海域か、あるいは完全な闇に包まれた『夜間』のみだ」
「……その通りですね」
ヤンは深く頷き、出された熱い日本茶を一口啜った。
「敵が合理的な思考を持っている以上、こちらの都合の良いようには動いてくれない。となれば、基本として……対潜戦術というものは、どうしても『後手』に回らざるを得ないということになりますか」
「後手、ですか」
と、背後で記録を取っていた大淀が、思わずといった様子で口を挟んだ。ヤンは彼女を振り返り、自嘲気味に笑った。
「そうだ。こちらから敵の姿を見つけて先制攻撃を仕掛けるのが『先手』だとすれば、海中に潜む敵を見つける手段が音(ソナー)しかない現状、我々は敵が動くのを待つか、あるいは偶然の遭遇に頼るしかない。最悪の場合、敵の放った魚雷の航跡を見て初めて敵の存在に気づくことになる」
「その通り。歯がゆいがね、ヤン提督」
長官が腕を組み、深く嘆息した。
「海の下の様子は、どうしても分からんのだよ。音響探信儀(ソナー)も万能ではない。海流、水温の変化、自艦のスクリュー音……あらゆるノイズが敵の姿を隠してしまう。ましてや、目視が全く利かなくなる『夜』となれば、余計にだ。暗闇の海中から放たれる見えない魚雷ほど、水上艦乗りにとって恐ろしいものはない」
ヤンは沈黙した。宇宙空間において、彼はいかにして敵の先手を打ち、戦端を開く主導権を握るかに心を砕いてきた。しかし、対潜戦闘においては、その主導権は常に「海の底」にある。司令官たる者は、常に暗殺者の刃が首筋に当てられているという極度の緊張感の中で、艦隊を前進させねばならないのだ。
だが、そこでヤンの一つの論理的思考が、ある矛盾に行き当たった。
「……長官。皆様のおっしゃる潜水艦の恐ろしさは、痛いほど理解できました。ですが、そうなると一つ解せない事実があります」
「ほう。何だね?」
ヤンは海図の太平洋側、日本列島に沿った航路を指差した。
「先日、金剛を旗艦とする第一艦隊が、東シナ海を避けて太平洋の黒潮ルートを抜け、敵の泊地へ奇襲をかけました。私が恐れているのは、その道中において、敵の水上艦はおろか、潜水艦の襲撃すら一度も受けなかったという事実です。……もし敵が太平洋の海底に潜水艦の哨戒網を敷いていたのだとすれば、なぜ彼らは、金剛たちに魚雷を撃ち込まなかったのでしょうか?」
その疑問に対し、長官と幕僚たちは顔を見合わせ、やがて「なるほど」と納得したように微笑んだ。
「おそらく、だがね」
作戦参謀が海図の上に駒を一つ置いた。
「ヤン提督。その時の第一艦隊には、金剛や神通と共に、『第六駆逐隊』の四隻が随伴していたのだろう?」
「はい。暁、響、雷、電の四隻です。それが何か……?」
「ヤン提督。先ほども言ったが、潜水艦とて馬鹿ではないし、自殺志願者でもないのだよ」
長官が、勝敗の機微を知り尽くした老将の顔で諭すように言った。
「潜水艦にとって最も恐るべき天敵は何か。それは、小回りが利き、爆雷を山のように積んで海面を駆け回る『駆逐艦』だ。一隻の戦艦を沈めるために魚雷を撃てば、当然ながら発射音と航跡で自らの位置を暴露することになる。その直後、怒り狂った四隻もの駆逐艦に頭上を包囲されれば、潜水艦に逃げ場はない。……対潜戦闘のエキスパートになり得る駆逐艦が四隻も固まっている艦隊に対して、自ら手を出してくるような軽率な潜水艦乗りは、深海棲艦の中にもおらんということだ」
「……なるほど!!」
ヤンは思わず膝を打った。捕食者は、ヤマアラシの群れには襲いかからない。……物理的な戦闘の前に、心理的・戦術的な『抑止力』が働いていたという訳に他ならないという事だ。
「やれやれ。私はどうやら、自分の組んだ艦隊の編成に、自分自身で救われていたらしい。運が良かった」
「戦闘において、運もまた実力のうちだよ」
長官が笑うと、参謀が言葉を継いだ。
「ヤン提督。対潜戦術についてより深く、それこそ実戦レベルの生々しい機微を知りたければ……今度、呉鎮守府の提督に通信を繋いで直接聞いてみたまえ」
「呉の提督、ですか」
「うむ。彼は、深海棲艦の侵攻初期における激戦地……『フィリピン防衛戦』の数少ない生き残りだ。あの複雑な多島海において、見えない敵と長年血みどろの死闘を繰り広げてきた男だよ。対潜戦闘の経験……こと、深海棲艦相手のそれにかけては、この日本において彼の右に出る者はいない、と言っていいほど造詣が深い」
長官は、呉の司令官への深い信頼を口にしてから、さらに一つの証拠を挙げた。
「その証拠にな、ヤン提督。彼が先日、東シナ海の奪還作戦において、君の部隊の後詰めとして送り出してきた第一水雷戦隊……あの時の吹雪と五月雨には、すでに『対潜装備(ソナーと爆雷)』が積まれていたのだよ。彼は、東シナ海の作戦において潜水艦の脅威が必ず顕在化することを、君以上に正確に予見していたというわけだ」
「……お見事と言う他ありませんね」
ヤンは、感心すると同時に、はたと一つの重大な事実に気づいた。
「しかし、少し待ってください。吹雪たちに対潜装備が積まれていた……? ということは、呉鎮守府には、すでに装備を開発するための『工廠』が顕現しているということですか?」
「おお。よく知っているな、ヤン提督」
長官が我が意を得たりと頷いた。
「その通りだ。呉と、そして佐世保の鎮守府には、すでに工廠が顕現しており、稼働している」
ヤンはボサボサの頭を掻きながら、いささか間の抜けた声で苦笑した。
「いや、知っているも何も……実は、本日、この横須賀鎮守府にも工廠ができましてね。工作艦の明石と共に」
「なっ……!?」
「おおおおおっ!!!」
そのヤンの何気ない一言を聞いた瞬間、それまで落ち着き払っていた司令室の老人たちが、まるで孫娘の誕生でも知らされたかのように、一斉に立ち上がって大歓声を上げた。
「ほ、本当かヤン提督!! つ、ついに、ついにこの横須賀にも工廠が顕現したのか!?」
「いやはや、めでたい! これは祝杯ものだぞ!!」
長官が机をバンバンと叩きながら、満面の笑みで喜悦を爆発させた。
「いやぁ、どうしても横須賀には顕現してくれんでなぁ! これまで我々も、妖精さんたちの機嫌を取るために、こっそり羊羹やサイダーを差し入れたり、祭壇を作ってお祈りしてみたりと、涙ぐましい努力を続けていたんだが……! やはり、ヤン提督が来てくれたおかげで、鎮守府の『縁』が劇的に結ばれたというわけか!」
(……軍の最高幹部たちが、妖精の機嫌取りのために羊羹を差し入れていたのか。後世の歴史家が知ったら、腹を抱えて笑うだろうな)
ヤンはそんな不敬なことを思いつつ、気になっていたもう一つの疑問を口にした。
「しかし、長官。呉や佐世保にも工廠があるということは、誰かが管理しておられるのですよね? あちらの工廠は、一体『どの艦娘』が管理しているのですか? 横須賀は明石ですが、他の工作艦が?」
「ん? 何を言っているのかね、ヤン提督。あちらの工廠を管理しているのも、当然『明石』だとも」
長官がキョトンとした顔で答えた。ヤンの論理的思考回路が、再び急ブレーキをかけて停止した。
「……可笑しいですね、長官」
ヤンは真顔で反論した。
「工作艦・明石は、今現在、間違いなくこの横須賀鎮守府の地下におります。先ほど、私と直接言葉を交わしたばかりです。彼女に双子や三つ子の姉妹艦がいるという記録はありません。一人の人間……いや艦娘が、横須賀と呉と佐世保の工廠を同時に管理するなど、物理的に不可能です。彼女は航空機でも使いながら通勤でもしていると?」
ヤンの極めて真っ当で科学的なツッコミに対し。長官はポカンとした後、「あっ」と何かに気づいたような顔をし、次いで、たまらないといった様子で腹を抱えて大笑いし始めた。
「はっはっはっは! ああ、そうかそうか! そういえば、提督はこういう事象に直面するのは初めてだったな!」
「……どういうことですか?」
「いやなに。ヤン提督は外国人であるから、我が国の宗教観や土着の信仰には馴染みが浅いかもしれないが……これはいわゆる、神道における『分霊(ぶんれい)』のようなものなのだよ」
「ぶんれい……?」
聞き慣れない単語に、ヤンは眉をひそめた。大淀が横から、小さな声で補足する。
「提督。分霊とは、神社の神様の霊を分けて、別の神社にもお祀りすることです。例えば、全国に何万とある『稲荷神社』には、すべて同じお稲荷様が祀られていますが、神様が分裂したわけでも、偽物というわけでもありません。すべてが本物の、同じ神様なのです」
「その通りだ、大淀君の言う通りだよ」
長官が笑い涙を拭いながら、ヤンの肩を叩いた。
「我々も初期の頃は、君と同じように物理的な矛盾に頭を抱え、ひどく驚いたものだがね。だが、彼女たち艦娘は『神仏』や『概念』に近い存在なのだ。……佐世保にいる明石、呉にいる明石、そして横須賀に顕現した明石。彼女たちは物理的にはそれぞれ別個に存在する『別の個体』でありながら、その魂と概念においては、皆が等しく『工作艦・明石』なのだよ」
「…………」
ヤン・ウェンリーは、口を半開きにしたまま、完全に呆気にとられていた。
クローン技術でもなく、ドッペルゲンガーでもなく、多次元宇宙の並行存在でもない。
一つの魂が、その本質を一切損なうことなく複数に分割され、同時に別々の場所に顕現し、それぞれが独立して存在している。それは、ヤンがかつて学んだいかなる科学、哲学、物理法則の枠組みにも収まらない、純然たる『神学』の領域であった。
「……つまり、私がいつか呉鎮守府へ赴いた際、そこには『横須賀にいるはずの明石』がもう一人いて、私に向かって『初めまして、ヤン提督』と挨拶をしてくる可能性がある、と?」
「その通りだ。ちなみに、駆逐艦や軽巡洋艦などにも、そうした『分霊』が存在して別々の鎮守府で戦っているケースは多々あるぞ」
「……………………」
ヤンは、自分のこめかみを両手で強く押さえた。潜水艦という三次元の死角を理解しようとした矢先に、今度は「同一存在の同時多発的顕現」という四次元的な形而上学の迷宮へと叩き落とされたのである。
「……なるほど。どうやら私は、軍事史の勉強をやり直す前に、まずは日本の神話と宗教学の書物を一から読み漁らなければならないらしい」
ヤンが深々としたため息とともに白旗を揚げるように呟くと、地下の司令室は、かつての大戦の英雄たちによる、和やかで底抜けに明るい笑い声に包まれた。
理不尽と魔法が支配するこの世界。しかし、その理不尽の数だけ、手札が増えるのもまた事実である。
不敗の魔術師は、自らの常識がまた一つ粉々に打ち砕かれた事実を、どこか心地よい疲労感とともに受け入れつつあった。バシー海峡へ向けた強行偵察の夜明けは、もう目前に迫っている。