横須賀鎮守府の最深部に位置する司令室を後にしたヤン・ウェンリーと大淀は、コンクリート打ちっ放しの無機質な地下連絡通路を、規則正しい靴音を響かせながら歩いていた。
通路には、むき出しの配管と等間隔に並ぶ蛍光灯の冷たい光だけが続いている。ヤンはベレー帽を片手に持ち、もう一方の手でボサボサの黒髪を無造作に掻き回しながら、先ほど地下の老人たちから叩き込まれた「日本の形而上学」についての思索を、自らの論理的思考回路の中でどうにか消化しようと試みていた。
「……大淀さん」
ヤンは歩みを止めることなく、隣を歩く有能な秘書艦へ向けて、ふと思い立ったように口を開いた。
「先ほどの話の論理的帰結として一つ確認しておきたいのだが。……君も、呉や佐世保の鎮守府に『いる』のかい?」
その問いに対し、大淀は一拍の遅れもなく、しかしひどく申し訳なさそうな声音で答えた。
「はい。……佐世保にも、呉にも、そして大湊にも、それぞれの司令部を預かる『大淀』がおります。私からの伝達不足でした。ヤン提督を混乱させてしまい、誠に申し訳ありません」
大淀が歩みを止めて深く頭を下げるのを、ヤンは、
「ああ、いや、構わないとも」
と軽く手を振って制し、再び歩き出すよう促した。
「君が謝るようなことじゃないさ。考えてもみたまえ。着任初日に『大淀は司令部の施設と共に顕現しました』と自己紹介を受けて、そこから『なるほど、ならば全国の鎮守府の司令部にも、全く同じ容姿と記憶を持った大淀が同時多発的に発生しているのだな』などと論理的な飛躍を遂げられる人間がいたら、そいつは天才を通り越してただの狂人だ。私の貧困な想像力では、そのようなオカルトにまで思考を及ばせることは不可能だったというだけの話さ」
ヤンは自嘲気味に肩を竦めた。
「それにしても、分霊(ぶんれい)、か。旧世紀のクローン技術でもなく、ドッペルゲンガーでもない。一つの概念が複数の座標に同時に存在し、それぞれが独立した自我を持って業務に当たっている。いやはや……なんというオカルトか。自由惑星同盟の合理主義的な歴史学者たちがこの事実を知ったら、脳髄を沸騰させて卒倒するだろうね」
神学と物理学が平然と融合しているこの世界において、これまでの常識に固執することは、司令官としての柔軟性を失うことを意味する。ヤンは「この世界においては、これが当たり前の物理法則なのだ」と、己の理性を無理やり納得させることにした。
「しかし、そうなるともう一つ疑問が湧いてくる。……工作艦や秘書艦といった特殊な役割を持たない、通常の戦闘艦艇である『艦娘』たちはどうなんだい?」
ヤンが横目で大淀を見ると、彼女は手元のバインダーを胸に抱き直し、淡々と事実を告げた。
「はい。現状で確認されている限りですが……佐世保鎮守府の海域には電(いなずま)がもう一隻、そして北方の大湊鎮守府には、阿武隈がもう一隻、それぞれ顕現し、実戦に投入されているとの報告が上がっております」
「……なるほどな」
ヤンは立ち止まり、右手の親指と人差し指で、ズキズキと痛み始めた眉間を強く揉みほぐした。
同じ顔、同じ声、同じ艦歴の記憶を持った少女が、別の海で、別の提督の指揮下で血を流している。軍隊という巨大な暴力装置において、兵器(ユニット)の規格が統一され、量産されていることは、兵站や運用の上で極めて合理的な状態と言える。だが、彼女たちは鉄の塊ではない。喜怒哀楽を持ち、見えない潜水艦の恐怖に怯え、仲間を想って涙を流す、生身の少女たちなのだ。
それが量産品のように、オカルト的な分霊とはいえ複数存在しているという事実は、ヤンの持つ人間主義的な倫理観をひどく軋ませた。
「……大淀さん。一つ、個人的な感傷から来る質問をさせてほしい」
「何でしょうか、ヤン提督」
「うちの……この横須賀鎮守府にいる電は」
ヤンは、先ほどの対潜訓練の最中に、暗い瞳で「潜水艦は嫌いなのです」と呟いた、あの大人しい少女の顔を思い浮かべた。
「以前、君から各艦の着任時期のレポートは受け取っているが、改めて確認したい。彼女は、この世界に最初に顕現した『最初の電』でいいのかな?」
ヤンの問いの裏にある、指揮官としての静かな葛藤を察取したのだろう。大淀の理知的な瞳に、ふっと柔らかく、慈愛に満ちた色が浮かんだ。
「はい、ヤン提督。それは間違いありません」
大淀ははっきりと、力強く断言した。
「電さんに限らず……金剛さん、神通さん、暁さん、響さん、雷さん。そして加賀さんや天龍さんたちも。現在、この横須賀鎮守府の第一線で戦っている艦隊の皆は、深海棲艦の侵攻が始まった初期に、最も早くこの世界に呼び出された者たちです。横須賀艦隊の全員が、すべての分霊のルーツたる『オリジン(起源)』であると言っても過言ではありませんね」
「そうか……オリジン、か」
ヤンは眉間から手を離し、安堵したように息を吐き出した。
――もし彼女たちが、別の鎮守府で生まれた個体の「コピー」や「分霊」であったとしても、ヤンは彼女たちを等しく一人の部下として大切に扱っただろう。しかし、それでも「最初からこの横須賀の地で絶望的な防衛戦を戦い抜き、記憶を紡いできた彼女たち自身」であるという事実は、ヤンにとって何物にも代えがたい精神的な救いであった。
(彼女たちは、替えの効く消耗品ではない。この宇宙でただ一つの、かけがえのない個の連続性を持った少女たちなのだ。ならば私の仕事はやはり変わらない。彼女たちを一人残らず、生きてこの鎮守府へ帰還させることだけだ)
ヤンの中で、オカルトのシステムに対する心理的な折り合いが、ようやく完全な形でついた瞬間であった。
「……ふふっ」
ヤンが憑き物が落ちたような顔をしているのを見て、大淀が口元を手で覆い、小さく笑い声を漏らした。
「なんだい、大淀さん。私の感傷的な質問が、そんなにおかしかったかな?」
「いえ、滅相もありません」
大淀は居住まいを正しつつも、その瞳には隠しきれない優しげな光が宿っていた。
「ヤン提督は、本当に艦隊の皆のことを、一個の人間として大切に想ってくださっているのだなと。……彼女たちは幸せです。合理性だけで駒を動かす冷徹な指揮官であれば、分霊のシステムを知った時点で『ならば一隻や二隻沈んでも、他の鎮守府から同じ艦を補充すれば済む』と考えるでしょうから」
「そんな部隊運用をすれば、遅かれ早かれ軍隊は内側から崩壊するよ。兵士は数字ではない。血を流し、恐怖を感じる人間だ。彼らの命を帳簿上の数字としてしか見られなくなった時、その指揮官は用兵家ではなく、ただの屠殺業者に成り下がるのさ」
ヤンは厳しく言い捨てた後、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべて大淀を見た。
「ちなみに、横須賀の艦娘たちがオリジンだというのなら。……君もかい? 大淀さん」
その問いに、大淀は少しだけ虚を突かれたように目を丸くし、次いで、ほんのりと頬を桜色に染めながら、誇らしげに微笑んだ。
「時系列で言えば……まぁ、その。全国にいる大淀の中で、私が一番の『姉』……とも、言えるかもしれませんね」
「それは頼もしい。全国の大淀ネットワークの長女殿が私の秘書艦でいてくれるなら、これほど心強いことはないよ。これからも、怠け者の提督の面倒をよろしく頼む」
「はい。微力ながら、全力でお支えいたします。ヤン提督」
二人は静かに笑い合い、再び地下通路を歩き始めた。
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司令部の上層部から叩き込まれた、見えない暗殺者に対する泥臭い対潜ドクトリン。
そして、この世界における艦娘たちの、オカルトと神学が入り混じった存在の定義。
ヤン・ウェンリーの手元には、バシー海峡の深淵を覗き込むためのすべての情報と、それを実行するための手札が揃った。出撃の時は、明日の日没後。不敗の魔術師の頭脳は、見えない海の底に広がる三次元の死角を完全に掌握すべく、静かに、そして猛烈な勢いで最終的な戦術の構築へと向かっていた。