ヤン・ウェンリー提督の艦これ日誌   作:灯火011

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呉との交信、そして

 すっかり日の落ちた横須賀鎮守府。

 

 窓の外には、静まり返った夜の海と、月明かりに照らされた軍港のシルエットが広がっている。ヤン・ウェンリーは執務室のデスクに腰掛け、司令部から特別に引かせた重々しい暗号通信用の受話器を耳に当てていた。

 

 回線の向こう側――瀬戸内海のどん詰まりに位置する呉鎮守府との通信は、幾重にも暗号化のノイズが掛かっているものの、相手の快活な声色を十分に伝えてきた。

 

『おや、これは横須賀の英雄から直々のご連絡とは。光栄の至りですね、ヤン提督』

 

 回線の主は、呉鎮守府の司令官である井上提督であった。

 

 彼はフィリピン防衛戦という、深海棲艦侵攻の最初期における最も過酷な地獄を生き抜いてきた歴戦の指揮官である。ヤンよりも少しばかり年下だという彼の声には、陰惨な海戦をくぐり抜けてきた軍人特有の重苦しさはなく、むしろどこかの陽気なジャーナリストか、あるいはヤンがかつてよく知っていた、少(・)し(・)ば(・)か(・)り(・)口(・)の(・)減(・)ら(・)な(・)い(・)後(・)輩(・)の(・)分(・)艦(・)隊(・)司(・)令(・)官(・)を思わせるような、反骨精神とエネルギーに満ちた響きがあった。

 

「英雄なんて柄じゃないさ。書類仕事に追われて胃を痛めている、ただのしがない公務員だよ」

 

 ヤンは苦笑しながら、手元のマグカップを手慰みに回した。

 

「それに、今回の東シナ海の奪還作戦は、君が呉から第一水雷戦隊を後詰めに送ってくれなければ、危うく破綻するところだった。改めて礼を言うよ、井上提督。見事な采配だった」

『はっはっは。お世辞は結構ですよ。こちらとしても、忌々しい深海棲艦の横っ腹を蹴り飛ばせる機会なんて、そうそうあるものじゃありませんからね。大いに楽しませてもらいました』

 

 対等な指揮官同士としての、軽口を交えた挨拶。井上のこの気取らないスタンスは、ヤンにとって非常にやりやすいものであった。

 

「早速で申し訳ないんだが、今日は君に教えを請いたくて連絡させてもらったんだ」

『教え、ですか? 戦略の魔術師に私が教えられることなど、呉の美味しい酒場くらいしかないと思いますがね』

「いや、極めて深刻な戦術上の問題さ。……太平洋方面における、敵の『潜水艦』についてだ。先日の作戦において、君は太平洋側に潜水艦が配備されていると予想していたかい?」

 

 ヤンの問いかけに対し、回線の向こうの井上は、何を今更当たり前のことを、と言わんばかりに即答した。

 

『いますよ。間違いなくね……。あの作戦で、うちの五月雨と吹雪にソナーと爆雷を持たせてそちらへ送ったでしょう? 実はあの海戦の最中、加賀の周辺をうろついていた深海棲艦の潜水艦を、二隻ほど見つけて確実に撃沈したという報告が上がっています』

 

「二隻も沈めていたのか……!」

 

 ヤンは目を見開き、思わず背筋を伸ばした。もし井上の的確な判断と、吹雪たちの対潜掃討がなければ。あの海戦の最中、上空の制空戦に気を取られていた加賀の横腹に、暗闇の海中から無慈悲な酸素魚雷が突き刺さっていた可能性は極めて高かったのだ。

 

「……正直に白状しよう。私は、潜水艦の存在にまで全く頭が回っていなかった。完全な私の失態だ」

 

 ヤンが誤魔化すことなく己の無知を認めると、回線の向こうで数秒の沈黙があり――直後、腹の底から湧き上がるような、大爆笑が受話器越しに響き渡った。

 

『わははははっ! いやはや、これは驚いた! まさかあのヤン提督が、海戦における最も厄介な刺客(潜水艦)の存在を、綺麗さっぱり忘れて……いや、考えてもいなかったとは!』

「……笑ってくれて構わないさ。面目ない。司令官としての私の無知が、危うく艦隊を全滅させるところだった」

 

 ヤンが頭を掻きながらぼやくと、井上は、

 

『いやいや、失礼』

 

 と笑い残しを拭うように息を吐いた。

 

『いや、ヤン提督を責めているわけではありませんよ。提督は、我々とは辿ってきた軍歴の毛色が違うと聞いています。最初から完璧な指揮官などいません。それに、運も実力のうちと言いますからね』

 

 井上はそこで少しだけ声のトーンを落とし、実戦経験に裏打ちされた真面目な口調へと切り替えた。

 

『提督が次に狙っている海域は存じませんが……もし海峡や島嶼部を抜けるつもりなら、そこには間違いなく敵の潜水艦が張り付いていると思ってください』

「やはりそうなるか。……だが、見えない敵に対して、水上艦隊はどう対処すればいい? ソナーで音を拾いながらでは速度が落ちる。かといって、高速で駆け抜ければ魚雷の餌食だ」

 

 ヤンが司令部の上層部から叩き込まれたジレンマを口にすると、井上は「なるほど」と相槌を打った。

 

『かつての大戦の常識で考えれば、提督の懸念はもっともです。三万トンの鉄の塊である現実の戦艦や空母ならば、潜水艦の魚雷の格好の的ですからね。……ですが、我々が指揮しているのは『艦娘』なんですよ、ヤン提督』

「……艦娘だから、何か違うのかい?」

『ええ。彼女たちはかつての軍艦の魂を持っていますが、その肉体は人間の少女とほぼ同じサイズです。海の上を、文字通り縦横無尽に、自由に動き回ることができるんですよ』

 

 井上の指摘に、ヤンはハッと息を呑んだ。空間における『標的の投影面積』の問題である。

 

『当然ながら、二十メートルの幅を持つ鋼鉄の船体に魚雷を当てるのと、水上を時速三十ノット以上でスケートのように滑り回る人間の少女に魚雷を当てるのとでは、難易度が文字通り桁違いなんです。いくら深海棲艦の潜水艦といえど、高速で回避運動を取る艦娘に雷撃を命中させるのは至難の業。故に、かつての大戦ほどの『絶対的な脅威度』は無いんですよ』

 

「……なるほど。標的が極端に小さいが故の、物理的な回避能力の高さか」

 

 ヤンは目の前の霧が晴れていくのを感じた。未知の潜水艦という存在に対し、宇宙戦艦同士の撃ち合いを基準にしていたため、標的が「人間サイズ」であることの戦術的優位性を、無意識のうちに過小評価していたのだ。

 

『とはいえ、無視していい相手ではありません。ですが、艦隊に駆逐艦を二枚程度入れておけば、敵の潜水艦も迂闊には手を出せませんよ。魚雷を外した瞬間、怒り狂った駆逐艦に頭上から爆雷の雨を降らせられることになりますからね。抑止力としては十分です』

「それは実に心強いアドバイスだ」

 

 ヤンは素直に感謝の意を述べた。現場の経験者でなければ出てこない、艦娘という存在の特性を完璧に理解した上での実践的な見解であった。

 

「実は明日、フィリピン方面に向けて、第六駆逐隊の四隻と神通、そして軽空母の瑞鳳で、高速の威力偵察をかけようと計画しているんだが」

『ほう! それは素晴らしい編成ですね』

 

 井上は感心したように声を上げた。

 

『対潜のエキスパートになり得る駆逐艦が四隻も固まっていれば、敵の潜水艦も容易には手は出せません。昼間であれば、瑞鳳の航空機による上空からの警戒も利く。強行偵察の編成としては、これ以上ないほど完璧です』

 

「だが、夜はどうだろうか」

 

 ヤンが慎重に問う。

 

「昼間はしのげても、夜間の闇に乗じて接近されれば、上空からの警戒は無効化される。ソナーだけが頼りの状態になるが」

『……そこですね。夜は、細心の注意を払わねばなりません』

 

 井上の声から、楽観的な響きが消えた。

 

『暗闇の中では、潜水艦の潜望鏡を発見することは不可能ですし、何より、放たれた魚雷の白い航跡(ウェーキ)すら見えにくくなります。標的が小さいとはいえ、見えない刃を躱すことはできませんからね』

「一体どうすればいい? 何か夜間の対潜戦闘における、特別な戦術的解決策はあるのかい?」

 

 ヤンが期待を込めて尋ねると、井上はあっさりと、そして身も蓋もない真実を口にした。

 

『まぁ、ぶっちゃけ……祈るしかないですね』

「…………」

『夜の海では、潜望鏡も見つけにくい。ソナーの音響だけを頼りに、ひたすらジグザグに回避運動を取りながら、敵の魚雷が外れることを神様か仏様に祈って全力で駆け抜ける。それが最善にして唯一の戦術です』

 

 ヤンは数秒ほど絶句した後、深々と、しかしどこか諦観の入り混じった長息を漏らした。

 

「……用兵の神様というのは、本当にままならないものだね」

『ははは、そういうことです。司令官がいくら机の上で完璧な図面を引いても、現場の兵士の勘と運、そして最後は祈りに頼らざるを得ない局面が、戦争には必ずあります』

 

 井上は苦笑混じりに同調しつつ、どこか楽しげな口調で言葉を続けた。

 

『ま、とは言えですよ、ヤン提督。犬は噛み付く、猫は引っ掻く。それぞれに、適した喧嘩のやり方というものがあります。戦艦には戦艦の、潜水艦には潜水艦の、そして駆逐艦には駆逐艦の、長所と短所がある』

 

「犬は噛み付く、猫は引っ掻く……か」

 

 ヤンはその独特の比喩を口の中で反芻した。

 

『ええ。ヤン提督が海中という戦場に不慣れでも、提督の部下たち……特に水雷戦隊の連中は、どうやって猫を水に沈めるか、という喧嘩のやり方を本能で知っています。……よし、決めました』

 

 井上がポンと手を打つ音が聞こえた。

 

『今回のフィリピン威力偵察。呉で休養させている阿武隈、吹雪、五月雨の三隻を、そちらの横須賀へ向かわせ、ヤン提督の指揮下につけましょう。我が呉鎮守府が誇る第一水雷戦隊の精鋭たちです。対潜戦闘において、彼女たちは間違いなく……閣(・)下(・)よりはずっと頼りになりますからね!』

 

「……手厳しいな。だが、これ以上ないほど有難い申し出だ」

 

 ヤンは、井上の気風の良い提案と、容赦のない(しかし事実である)からかいの言葉に、思わず声を出して笑ってしまった。

 

「恩に着るよ、井上提督。彼女たちの合流を待ってから、作戦を発動することにしよう。……呉の精鋭たちの働きに、期待している」

『ええ、ご期待ください。では、直ぐに向かわせます。武運を!』

 

 通信が切れ、受話器からツーという無機質な電子音が響く。ヤンは受話器をゆっくりと置き、背もたれに深く体重を預けた。暗号通信機の熱を帯びた機械の匂いが、執務室の空気に微かに混じっている。

 

「……犬は噛み付く、猫は引っ掻く、か。確かに、言い得て妙だな」

 

 ヤンは天井を見上げ、感心したようにひとりごちた。

 

 どんなに優れた用兵家であっても、犬に引っ掻くことを命じたり、猫に噛み付くことを強要したりすれば、戦術は根底から破綻する。指揮官の仕事とは、潜水艦の戦い方を自(・)分(・)が(・)マ(・)ス(・)タ(・)ー(・)す(・)る(・)こ(・)と(・)で(・)は(・)な(・)い(・)。潜水艦を狩る能力に長けた『駆逐艦』という手札を、最(・)も(・)効(・)果(・)的(・)に(・)機(・)能(・)す(・)る(・)時(・)間(・)と(・)座(・)標(・)へ(・)配(・)置(・)し(・)て(・)や(・)る(・)こ(・)と(・)なのだ。

 

 自分の弱点をカバーしてくれる、頼もしい同僚と部下たち。呉から駆けつけてくれる阿武隈たち第一水雷戦隊の精鋭が加われば、第六駆逐隊と合わせて、艦隊の対潜能力と生存率は飛躍的に跳ね上がる。見えない海中の恐怖に対する、最大の抑止力だ。

 

「さて……」

 

 ヤンは再びデスクへ向かい、海図の上に新たな駒を置き直した。

 

 明日への不安はまだ尽きないが、少なくとも、暗闇の中でただ怯えて祈るだけの状況からは脱した。不敗の魔術師の眼差しに、冷徹な用兵家としての光が戻る。

 

 バシー海峡の深淵を覗き込むための舞台は、こうして少しずつ、しかし確実に整えられていった。

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