出撃を見送った後、ヤン・ウェンリーは自らの執務室へと戻ったが、深夜を過ぎても一向に休息をとろうとはしなかった。
彼はソファにだらしなく身を沈めながら、デスクの上に広げられた巨大な海図を、まるでそこに浮かび上がるかもしれない見えない暗殺者の影を透視しようとするかのように、落ち着きなく睨み続けていた。
「……駄目だな。手持ちの情報が少なすぎる」
ヤンはボサボサの黒髪を掻き回し、重い溜息を吐いた。海図の上に赤鉛筆で引かれた、フィリピンへと至る長大な強行偵察ルート。その道程のどこからどこまで敵の「目」たる潜水艦が敷き詰められているのか、ヤンの優れた頭脳をもってしても、現状では完全にブラックボックスであった。推測で補うには、海という三次元空間はあまりにも不確定要素が多すぎる。
ふと、ヤンは海図の脇に置かれていた、手のひらサイズの真鍮製の『羅針盤』へと視線を落とした。
それは、彼がこの横須賀鎮守府に着任した初日、建造ドックの妖精から半ば無理やり押し付けられた不可解な代物であった。妖精はその時、極めて物騒にも「首を搔き切る」ジェスチャーを交えながら、この羅針盤の指示に逆らえば死が待っているとヤンに警告した。オカルトに支配されたこの世界における、運命の道標のようなものなのだろう。
しかし奇妙なことに、この羅針盤が明確な反応(盤面が荒れ狂うような回転)を示したのは、ヤンが初めて金剛たちに出撃命令を下し、その進攻ルートを「北か南か」で迷っていた、あの最初の一度きりであった。それ以降――見事な戦術的勝利を収めた東シナ海奪還作戦においても、そして今回の、生存率の極めて低いフィリピン強行偵察においても、羅針盤の針はピタリと沈黙を保ったままなのである。
「……一体、どういう意味なのかね」
ヤンは羅針盤を指先で弾きながら、独りごちた。
「私の立案した戦術が『正解』のルートを通っているから黙っているのか。それとも、羅針盤の予測範疇すら超えるほどに、完全に常軌を逸したズレた采配をしているから、呆れて機能停止しているのか。……あるいは、単にゼンマイが切れただけか」
神の啓示か、呪いのアイテムか。いずれにせよ、合理性を重んじる歴史家にとって、ブラックボックスの神託ほど扱いに困るものはない。
「あとで、呉の井上提督にでも暗号電報で聞いてみるかね……。彼なら、このオカルトアイテムの『取扱説明書(マニュアル)』を持っているかもしれないしな」
ヤンがそんな益体もないボヤキを口にしていると、部屋の隅で今日の報告書をまとめていた秘書艦が、静かに歩み寄ってきた。
「ヤン提督。どうされましたか? あまり考え込まれると精神衛生上よろしくありませんよ。……少しお休みになられては。必要であれば、軍医局から睡眠薬でもご準備しましょうか?」
「いや、大丈夫だ」
ヤンは苦笑して片手を上げた。
「前線の兵士たちが不眠不休で海を駆けている時に、司令官だけが薬の力を借りて安眠を貪るわけにはいかない。それに、数日程度まともに寝ないことには慣れているよ。学生時代も、士官学校時代も、歴史の資料に没頭して夜明かしするのは私の数少ない特技だったからね」
「感心できる特技ではありませんね」
「違いない」
ヤンは冷めきった紅茶のカップを手に取りながら、
「ああ、そう言えば大淀さん」
と彼女を見上げた。
「はい。何でしょうか」
「ちょっと、君に質問があるんだがね」
「作戦についてですか?」
「いや」
とヤンは首を横に振った。
「単純な兵站(ロジスティクス)の疑問さ。……艦娘が長期の作戦行動に投入されている間の、『食事』や『物資』の消費はどうなっているのかな、とふと思ってね」
そのヤンの問いに、大淀は少しだけ目を丸くした。
「……もしや提督、今の今まで、我々の生理的・機能的なメカニズムをご理解されていなかったのですか?」
「ああ。なにせ今回、第六駆逐隊の連中も瑞鳳も、全く違和感なく『五日間の連続航海』に向けた出撃準備を進めていただろう? 補給艦も伴随しない小編成で、少女たちが五日間も飲まず食わずで海の上を走り続けるなど、生物学的にあり得ない。だが、皆が当然のようにそれを受け入れていたものでね。聞く機会が無かったんだ」
用兵家としてのヤンの着眼点に、大淀は小さくクスッと笑みをこぼした。
「なるほど。提督から見れば魔法の力で動いているように見える艦娘の、『バイタル(生命維持)』はどうなっているのか、というお話ですね」
「かいつまんで言えばそうなる。人間の姿をしている以上、食事もすれば、排泄もするはずだ。それに加えて、動力源たる燃料や弾薬とは一体どういう形で消費され、変換されているのかね?」
「そうですね……基本原則として、『陸上では人間』であると考えてください」
大淀はバインダーを胸に抱き、教師のような落ち着いた口調で解説を始めた。
「鎮守府などの陸上にいる間、我々はごく普通の人間と変わりません。食事を摂って栄養にしなければお腹が鳴りますし、当然ながら排泄も行います。……現に、私がまさにそうですね。先ほども、提督の淹れたお茶を飲みすぎたせいで厠(かわや)に向かったでしょう?」
大淀が極めて事務的に、あっけらかんと言ってのけたため、ヤンは思わずむせて軽く咳き込んだ。
「……大淀さん。妙齢の女性が、殿方に向かってそういう個人的な生理現象を露骨に言うものではないと思うんだがね」
「あら。説明上、最も身近で分かりやすい実例が必要だと思いまして」
大淀が涼しい顔で返すものだから、ヤンは呆れたように笑い、大淀もまた悪戯っぽく微笑み返した。
「それで? 『陸上では人間』というのは、まぁ飲み込むとしよう」
「飲み込むのですね」
「理解はできないよ。私の貧相な科学的想像力では、鋼鉄の軍艦の魂が人間の肉体に宿るプロセスの時点で完全に処理能力を超えている。だがね、理不尽に対していくら屁理屈をこね回したところで、現実の事象が変わらないことは歴史家としてよく知っている。事実として存在するなら、それを受け入れるしかない」
ヤンは肩を竦め、乱れた髪を再び指で梳いた。
「では、君がわざわざ『陸上で』と冠をつけたということは……水上(海の上)では、また違う物理法則が働くということかい?」
そのヤンの推論に対し、大淀は真剣な眼差しで深く頷いた。
「はい。我々は艤装という名の装備を身に纏い、水上を滑走し始めたその瞬間から……正しく『船(兵器)』として機能します」
「船として?」
「ええ。海の上で戦闘状態にある間、我々の肉体から人間としての生物学的な機能――すなわち、消化や排泄といった機能は完全に停止、あるいは休眠状態へと移行します。食事や睡眠を必要とせず、母港から積み込んだ『燃料』と『弾薬』を直接自らの内燃機関で燃焼させながら、文字通り不眠不休で戦闘を継続することができるのです」
つまり、陸に上がれば人間であり、海に出れば鉄の軍艦に等しい機械となる。それが、彼女たち「艦娘」というオカルトのシステムの真髄であった。
「……なんとまぁ」
ヤンは空になった紅茶のカップをデスクに置き、ひどく皮肉めいた笑いを漏らした。
「五日間の不眠不休の連続稼働とは。旧世紀の労働基準監督署の役人がその仕様を知ったら、軍の上層部をブラック企業扱いして即座に告発し、処罰の対象にするだろうな」
「我々は兵器ですので。休むことなく戦い続けることこそが、存在意義ですから」
大淀のその淀みない、どこか諦観を帯びた返答に、ヤンの顔から笑みがスッと消えた。
「笑えない冗談だね、大淀さん」
「……提督?」
「海の上では生物学的な機能が停止し、兵器となる。理屈は分かった。……だが、完全に鋼鉄の機械になり切れるわけではないだろう」
ヤンの脳裏に、数日前の光景がフラッシュバックする。入渠ドックの湯船の中で、大破した体から痛々しい打撲痕や火傷の跡を晒し、涙目になっていた金剛の姿。そして、対潜訓練の最中に、「潜水艦は嫌いなのです」と、震える声で恐怖と憎悪を滲ませていた電の横顔。そして、自らをこの提督に迎え入れた時の、大淀の生々しい傷跡。
「君たちは海の上でも、装甲を抜かれれば血を流し、痛みに耐え、死の恐怖に怯え、仲間を失えば哀しみ、勝利すれば喜ぶ。……心と、生身の痛覚(センサー)を残したままの兵器。ひどく矛盾しているじゃないか」
ヤンは目を伏せ、極めて辛辣な言葉を、誰に宛てるでもなく吐き出した。
「鉄の船のままなら、恐怖も痛みも感じずに沈んでいけたものを。わざわざうら若き少女の姿を与え、心を持たせ、痛覚を与えた上で、不眠不休の終わらない地獄(戦場)へ送り出す。……神様というやつは、全くもって悪趣味で、ずいぶんと『いやらしいシステム』を構築して我々に賜ったものだね。サディストの才能があるよ」
それは、合理性を重んじる指揮官の言葉ではなく。過酷な運命を背負わされた少女たちに対する、一人の人間としてのヤン・ウェンリーの、やり場のない義憤であった。
ヤンのその不敬な、しかし優しさに満ちた暴言を聞いた大淀は少しだけ目を伏せ、それから、今までで一番美しい、穏やかな微笑みを浮かべた。
「……確かに、そう思います。痛いのは嫌ですし、仲間が傷つくのを見るのは、船の時よりもずっと辛い。神様を恨みたくなる夜もありました」
大淀は、自らの胸にそっと手を当てた。
「ですが、私は……私たちは、ただの物言わぬ鉄の船だった時代よりは、ずっと『幸運』だと思っているんですよ、ヤン提督」
「幸運? この地獄のような世界で戦い続けることがかい?」
「ええ」
大淀は、真っ直ぐにヤンの黒い瞳を見つめ返した。
「だって、神様が私たちに心と体を与えてくれたおかげで……こうして、提督(あなた)と紅茶を飲みながら、提督の冗談を聞いて、言葉を交わし合うことができるのですから」
それは、理不尽な運命に対する肯定ではなく。ただ純粋な、指揮官ヤン・ウェンリーという一人の人間に対する、絶対の信頼と親愛の情の発露であった。
「…………」
予想だにしなかった大淀からの直球すぎる言葉を浴びて、ヤン・ウェンリーの論理的思考回路は、敵の潜水艦奇襲を受けた時よりも激しくショートを起こした。彼は権力者からの恫喝や、敵将からの挑発にはいくらでも気の利いた皮肉で返すことができる。だが、こうした純度百パーセントの「好意」や「感謝」を真正面からぶつけられることに対しては、ヤンという男は致命的なまでに免疫を持ち合わせていなかったのである。
「……やれやれ」
ヤンはそれ以上何も言い返すことができず、デスクに置いてあったベレー帽を手に取ると、逃げるように深く頭に被り直した。そして、わずかに赤らんだ顔を隠すように、帽子のつばの上からボサボサの髪をガリガリと乱暴に掻き回す。
「どうやら、私はまだまだ部下に対する理解が足りていないらしい。歴史の勉強は少し休んで、君たちの生態観察からやり直すとするよ」
「ふふっ。はい、お待ちしております。ヤン提督」
大淀の静かな笑い声が、深夜の執務室に温かく響く。
不敗の魔術師は、照れ隠しの溜息を一つ吐き出すと、南方の海で今この瞬間も波を蹴立てているであろう九人の少女たちの無事を祈りながら、再び海図の暗闇へと向き直った。