翌朝。太陽が横須賀の軍港に新たな光を投げかける頃、ヤン・ウェンリーはついに一睡もすることなく、白み始めた空を執務室の窓から眺めていた。
徹夜の作業に付き合おうとした大淀には、
「君まで倒れたらこの鎮守府の事務は完全に麻痺する」
と半ば命令に近い形で自室へと下がらせ、休息を取らせている。ヤン自身はといえば、出撃した艦隊の安否が気にかかり、結局ソファの上で海図を睨んだまま夜明かしをしてしまったのだった。
「……考えても結果が変わるわけではないのに、悪い癖だ」
ヤンは首の骨をポキリと鳴らし、凝り固まった身体をほぐすために立ち上がった。新鮮な空気を肺に入れるべく、散歩がてら桟橋方面へと足を向ける。
朝の軍港は、通常であれば当直の兵士たちが静かに交代の敬礼を交わす程度の、穏やかな時間が流れているはずであった。しかし、ヤンが岸壁に近づくにつれ、何やら人だかりができ、ざわざわとした騒がしい空気が漂っていることに気がついた。
「どうしたんだい?」
ヤンが群衆の端にいた下士官らしき軍人に声をかけると、彼は振り返るなり目を見開き、慌てて背筋を伸ばした。
「ヤン提督! い、今まさに司令部へご連絡しようとしていたのですが……!」
「そういう堅苦しい敬礼や報告の形式はいい。今は私の勤務時間外だからね」
ヤンは手のひらを向けて敬礼を制し、無造作にボサボサの頭を掻いた。
「で? 何があったんだい? 君たちの顔色を見るに、敵の奇襲というわけではなさそうだが」
「はっ……。実は、その……」
軍人はひどく気まずそうに、あるいは自分自身の正気を疑っているような顔で言葉を濁した。
「昨日、第六駆逐隊の皆さんがこの鎮守府の正面海域で撃破した、敵潜水艦の残骸を回収しておりまして」
「ふむ。深海棲艦の装甲材質や構造を調べるのは、技術部にとって重要な任務だろうからね」
「はい。引き揚げた残骸は、昨晩のうちにこの桟橋に係留しておいたのです。そして今朝、クレーンで本格的に陸へ揚陸させようと、作業班がカバーを外したのですが……」
軍人はそこで言葉を切り、ヤンの顔を縋るように見つめた。
「……どうしたんだい、本当に。毒ガスでも発生していたのかね?」
「あ、いえ。……言葉で説明するのが、極めて難しく……。どうぞ、こちらへ」
軍人に案内され、ヤンは人だかりの中心へと足を踏み入れた。兵士たちが道を譲り、その視線の先にあるものをヤンの目に晒す。
そこに置かれていたのは、黒く禍々しい深海棲艦の有機的な装甲板でもなければ、不気味な機械の残骸でもなかった。
軍用の無骨な毛布の上に横たわっていたのは――水着姿で、赤い髪をポニーテールに纏めた、うら若き人間の女の子であった。
「…………」
ヤンは無言のまま、少女の姿を観察した。穏やかな寝息を立てており、怪我をしている様子はない。そして、彼女の華奢な背中や腰のあたりには、明らかに近代兵器のミニチュアとオカルトが融合したような『艤装』らしきものが接続されている。
「……あれは、一体どういうことかね?」
ヤンが極めて平坦な声で尋ねると、案内した軍人は天を仰ぐようにして答えた。
「それが……深海棲艦の残骸が、朝になったら、あの女の子に成り替わっておりまして」
「…………」
ヤン・ウェンリーは、その場でゆっくりと天を仰ぎ、両手で顔を深く覆った。
かつての自由惑星同盟において、数百万の艦隊を率いる敵将の戦術的意図を完璧に読み解いてみせた不敗の魔術師の頭脳が、一瞬で、そして完全に白旗を揚げた瞬間であった。
「……すまない。私は多分、徹夜をしたせいで、極めて質の悪い幻覚でも見ているのだと思う。一旦執務室に戻って、睡眠薬を飲んで寝直すとしよう」
「いえ、提督」
顔を覆うヤンに対し、軍人は一切のユーモアを含まない、真顔のまま冷静にツッコミを入れた。
「もしあれが提督の幻覚だとするならば、今ここにいる我々作業班の全員が、同じ幻覚を、集団で、見ていることになります。いくら
「……君は、実に優秀な下士官だ。論理的な反論で私に現実を突きつける才能がある」
ヤンは覆っていた手をどけ、大きなため息をついて再び毛布の上の少女を見下ろした。艤装を身につけている以上、彼女は「艦娘」の類なのだろう。それにしても、敵の残骸が一夜にして味方と思われる美少女へと変異する現象など、質量保存の法則はおろか、生物学、物理学、宗教学のいかなる学問をもってしても説明不可能である。
「……状況が、全くつかめんね」
「はい。お恥ずかしながら、我々にも本当にわけがわかりません」
「で、どうすればいいと思う?」
「提督が判らないとおっしゃるのならば、一介の兵士である私にわかるはずがありません」
責任の押し付け合いというよりは、人類の知性の限界に対する相互の同意であった。
「うん、判らん。……あー、だが、事実だけを客観的に述べれば、彼女は『深海棲艦の残骸と入れ替わった』、あるいは『残骸そのものが変化した』ということになるわけだね?」
「おそらくは、そのように解釈するしかありません」
「であれば……」
ヤンは顎を撫で、そして頭を掻き、指揮官としての冷徹な理性をどうにか起動させた。
姿は明らかに、『艤装のような物がある女性』なのだから、彼女が艦娘である可能性は高い。しかし、万が一ということもある。敵が味方の姿を模して内部へ潜入するための「トロイの木馬(囮)」である可能性を、司令官としては完全に排除できないからだ。
「……まずは『隔離』、だろうね。ひとまず」
「はっ。承知しました。では、憲兵隊を呼んで、一旦独房へ運びます」
「手荒な真似はしないように頼むよ。拘束は最小限に留め、毛布をもう一枚掛けてやってくれ。……彼女が目覚めたら、直ちに私の執務室へ一報を入れるように」
「承知いたしました」
手際よく少女を担架で運んでいく兵士たちを見送りながら、ヤンは、
「用兵の神様は、ついに手品まで披露し始めたか」
とぼやき、重い足取りで執務室へと引き返していった。
■
「テートクー。グッドモーニングデース!」
ヤンが自室の扉を開けると、そこには、エプロン姿で優雅にティーポットを傾けている戦艦・金剛の姿があった。部屋中には、芳醇なダージリンの香りが漂っている。
「朝からどこに行ってたんデース? わざわざテイトクのために、一番美味しいお茶を淹れて待っていたんデスよー?」
金剛がヤンのマグカップに琥珀色の液体を注ぎながら、小首を傾げて微笑んだ。深夜から一睡もしていないヤンにとって、彼女の淹れる紅茶は文字通り命の水(エリクサー)に等しい。
「すまないね、金剛。いつもありがとう。……ちょっと、現実が私から離れていったものだから、追いかけに行っていたのさ」
「現実が離れていった……、デスか? どういうことデス?」
金剛が目を丸くして尋ねる。ヤンはデスクの椅子に腰を下ろし、熱い紅茶を一口啜ってから、極めて淡々と、さも「今日の天気は曇りだね」とでも言うような口調で告げた。
「あー、その。昨日、第六駆逐隊がこの近海で沈めた深海棲艦(お邪魔虫)の残骸があっただろう。技術班が回収して、昨晩から桟橋に係留していたらしいのだが……。今朝になったら水着姿の女の子……おそらくは、新しい『艦娘』になったらしいんだ」
「………………」
「………………」
五秒ほどの沈黙。
「ワッツ!?」
金剛はティーポットを取り落としそうになりながら、素っ頓狂な叫び声を上げた。英国生まれの流暢な発音と、素の驚きが入り混じった見事なリアクションであった。
「て、敵の残骸から、新しい艦娘が生まれタ!? オーマイガー……そんな馬鹿な話、聞いたことありまセンよ!?」
「驚くだろう? 私も、徹夜のしすぎでついに脳の血管が何本か切れたかと思ったよ」
ヤンは肩を竦め、二口目の紅茶を味わった。
「かつての地球の歴史において、倒した敵の武器や兵器を鹵獲(ろかく)して自軍の戦力に組み込むことはよくある話だ。だが、倒した敵の死体が、一夜にして自国のうら若き乙女に変換されるなどという錬金術は、歴史書をどれだけひっくり返しても出てこない。……全く、この世界の物理法則はどうなっているんだろうね。悪夢と神話のごった煮だ」
「テ、テイトク。それ、本当に艦娘の仲間なんデスか? 敵の罠って言うことは……」
「当然、その可能性も考慮している」
ヤンはマグカップを置き、真面目な顔つきで頷いた。
「もしかしたら、こちらの情報を引き出すために送り込まれた深海棲艦の囮かもしれないからね。今は念のため、地下の独房で隔離中だ。……目覚めたらすぐに連絡が来る手はずになっている」
ヤンはそこで言葉を区切り、金剛の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「金剛。彼女が目覚めて話を聞く時、君には一緒に来てほしい。同じ艦娘である君の目から見て、彼女が正真正銘の『仲間』なのか、それとも化け物の擬態なのか、見極めてもらいたいんだ。護衛も兼ねてね」
「しょ、承知しまシタ……!」
金剛は緊張した面持ちで、ごくりと生唾を飲み込んだ。
深海棲艦との終わりなき戦争において、新たな戦力が加わることは喜ばしい。しかし、それが敵の骸から這い出てきたものだとしたら――。
不敗の魔術師の頭脳すら混乱させるオカルトの産物を前に、ヤンと金剛は、紅茶の香りには不釣り合いな重苦しい沈黙の中で、地下からの「目覚め」の報告を待つこととなった。
■
地下の独房で眠り続ける「謎の少女」からの反応を待つ間、ヤン・ウェンリーは執務室にもう二名の専門家を呼び寄せていた。
「やあ、すまないね。作業の途中に急に呼び出したりして」
入室してきた工作艦・明石に対し、ヤンはデスクから片手を上げて労いの言葉をかけた。彼女の頭の上には、いつものように作業着姿の小さな妖精さんが、ちょこんと器用に鎮座している。
「いいえー。ちょうど工廠の炉の火を落として、暇をしていたところですから。それで、提督。何か御用ですか?」
明石は小首を傾げ、頭の上の妖精も同じ角度でコテリと首を傾げた。
「御用と言うか、その、相談と言うか……少しばかり私の手には負えない事象が発生してね」
「なんだか歯切れが悪いですね? 何か問題でも起きたんですか? 昨日お渡しした対潜装備に不具合でも……」
「あ、いや。装備は十全だとも。明石と妖精さんたちの仕事ぶりは完璧だ」
ヤンは慌てて否定し、ボサボサの頭を掻いた。
「実は、今回は少々特殊な……物理法則や軍事学の枠組みから完全に逸脱した問題でね」
そう前置きをしてから、ヤンは事の顛末を明石に説明した。第六駆逐隊が仕留めた深海棲艦の残骸が、一夜にしてうら若き乙女(おそらくは艦娘)へと変貌を遂げたこと。そして現在、彼女が敵のトロイの木馬である可能性を考慮し、地下で隔離していることを。
「……まぁ、つまり。敵の残骸が艦娘になったのかもしれないということで、君の技術的な知見から、過去に似たような事例を知らないかなと思ってね」
ヤンの説明を聞き終えた明石は、驚きに目を丸くした後、うーんと腕を組んで天井を見上げた。
「流石に、そんな錬金術みたいな現象は見聞きしたことがないですね。この鎮守府に着任してから、過去の作戦記録や資料室のデータもかなり見させて頂いていますけれど、そういう事例は一件も見たことがありませんよ?」
「だよなぁ。私の乏しい歴史の記憶にもない」
ヤンは肩を竦めた。彼がこれまでに読破してきた旧世紀の海戦史はもちろんのこと、この世界の深海棲艦に関する数少ない研究資料にも、「残骸の乙女化」などという記述は一切存在しないのだ。
すると、傍らでティーカップを磨きながら話を聞いていた金剛が、ふと思いついたように明石へ言葉を投げかけた。
「明石は、その……相手の女の子を見たら、艦娘か深海棲艦か、パッと見で判ったりはしないんデスか? ワタシたちの艤装を整備したり、開発したり……、改装したりしてくれるプロフェッショナルでショ?」
そのストレートな疑問に、明石は「うーん」と少し困ったように頬を掻いた。
「外見だけを見て判断しろと言われると、なんとも言えませんね。敵の潜水艦も、シルエットだけなら我々と似たような姿をしている個体もいますから。……ただ、『依り代(装備)』を見させてもらえれば、一発で分かります」
「依り代を見れば? どういうことだい?」
ヤンが身を乗り出すと、明石は技術者としての真剣な顔つきに切り替わった。
「えーっとですね、提督。あくまで『現状の日本の艦隊においては』という断りを先に入れさせていただきますけれど……日本の艦娘は、基本的に日本の武器の名称と規格を『依り代』として持っているんです。例えば、昨日提督にお渡しした対潜装備ですね。あれは『九三式水中探信儀』という名前の依り代です」
「ああ、確かにそうだった」
「他にも、主砲などの口径表記は、基本的に『センチメートル(cm)』や『ミリメートル(mm)』といったメートル法表記になっています。対して、深海棲艦の残骸を解析してみると、彼女たちの依り代は『インチ(inch)』表記が使われていたり、英語の型番が入っていたりするんです。……まぁ、ごく稀に海外艦の装備などで例外が混じることもありますけれど、基本原則としてはその規格の違いで判別可能です」
明石のその極めて論理的で、兵站と工業規格(インダストリアル・スタンダード)に基づいた解説を聞いて、ヤンの瞳に知的な閃きが宿った。
オカルト的な存在であっても、彼女たちがかつての『軍艦』という概念をベースにしている以上、そこには建造された国家の工業規格という明確なアイデンティティが刻み込まれている。ヤン・ウェンリーという歴史家兼用兵家にとって、これほど分かりやすく、かつ信頼に足る鑑識方法はなかった。
「……ということはだ。今、ここの横須賀に現れた艦娘らしき女性。彼女が身につけている『依り代』の規格を調べれば……」
「はい」と明石は自信ありげに頷いた。「完全に白か黒か、というよりは、『我々と同じ規格の艦娘であるかどうか』は、極めて高い精度で判別できると思います」
「それは僥倖だ」
ヤンは深く息を吐き出し、安堵の笑みを浮かべた。不気味なオカルト現象に対する、極めて科学的かつ歴史的なアプローチ。それを見事に提示してくれた工作艦の存在は、今のヤンにとって百万の援軍にも等しかった。
「では、明石。彼女が目覚めたら、是非一緒に地下へ来て欲しい。君の技術的な鑑定が必要だ。……で、妖精さん」
ヤンが明石の頭上に視線を移すと、妖精は不思議そうに「なんだ?」という風に小首を傾げた。
「その、君たちにとっては迷惑な話で申し訳ないのだが……明石と共に、彼女の装備を見て、我々の味方かどうかを判断してほしいんだ。軍事の歴史には詳しいつもりだが、技術面や工業規格の細かな違いについては、私はからっきしの素人だからね。プロフェッショナルの力を借りたい」
ヤンが真摯に頭を下げると、明石の頭の上にいた妖精さんは、満面のドヤ顔を浮かべ、小さな両手で自らの胸をバンバンと力強く叩いてみせた。「任せておけ」という、職人としての頼もしい無言の意志表示であった。
「ありがとう、大いに助かるよ」
ヤンは紅茶の残りを飲み干し、ようやく一息ついた。
未知の事象に直面した時、一人で抱え込まずに専門家の知恵を借りる。それこそが、不敗の魔術師が常に正解を導き出してきた最大の理由である。
あとは、地下の独房で眠る「彼女」が目を覚ますのを待つばかりであった。