ヤン・ウェンリーは、金剛と明石、そして彼女の頭上にふんぞり返る妖精を伴って、再び鎮守府の最深部――旧世紀の遺物たる地下作戦司令室へと足を踏み入れた。
先ほど対潜戦術の特別講義をしてくれたばかりの歴戦の老人たちは、ヤンから『敵の潜水艦の残骸が一夜にして水着の少女に変異した』という報告を受けるなり、揃って深い絶望を覚えたかのように頭を抱え込んだ。
「……ヤン提督。我々は深海棲艦との長き戦いの中で、およそ考え得るあらゆる不条理を味わってきたつもりだったがね」
司令長官が、眉間を深く揉みほぐしながら呻くように言った。
「質量保存の法則すら無視したこの錬金術は、我々の貧困な想像力を優に超えているよ」
そう言って、ヤンと共に頭を掻いたその時である。円卓の脇で暗号通信機を操作していた通信将校が、弾かれたように立ち上がった。
「長官! 佐世保鎮守府より、緊急の暗号電文です!」
「佐世保から? 読み上げたまえ」
将校の声には、明らかな動揺と混乱が混じっていた。
「はっ。……『当海域にて横須賀艦隊が撃沈・回収した敵正規空母、および新型航空戦艦らしき残骸を保管していたところ、今朝になり、艦娘らしき二名の少女が発現。彼女たちは自らを瑞鶴(ずいかく)、および翔鶴(しょうかく)と自称。現在、厳重な監視下において身元を調査中』……とのことです!」
司令室に、底知れぬ沈黙が落ちた。ヤンと長官は、数秒ほど無言で見つめ合った。ヤンが先ほどの報告の際、自らの正気を疑ったように、佐世保の司令部もまた極度の混乱の中でこの電文を打ったに違いない。
「……どうやら、私の脳の血管が切れたわけでも、集団で幻覚を見たわけでもなかったらしい、ですね」
ヤンが嘆息すると、長官も呆れたように首を横に振り、通信将校へ指示を出した。
「ああ。そうだな……。あー、うん。佐世保へ返電しろ。『こちらも同刻、回収した敵潜水艦の残骸から艦娘らしき個体が発現。現在調査中である』とな。……彼らも、自分たちだけがおかしくなったわけではないと知れば、少しは安心するだろう」
「そう、ですね。それにしても、これはなかなか大変なことになってきました」
ヤンはベレー帽を弄りながら、ひどく面倒な局面に立たされたとばかりに肩を竦めた。単発の不可思議な現象ではない。横須賀と佐世保で同時に起きたということは、これは深海棲艦と艦娘という存在の根本に関わる、ある種の
ヤンが頭を掻いていると、作戦室の重い扉がゆっくりと開き。
「失礼します!!」
深海棲艦から生まれたとおもしき少女の隔離を命じていた憲兵隊の伝令が、息を切らして駆け込んできた。
「ヤン提督! 独房の少女が……目を覚ましました!」
その報告に、ヤンは居住まいを正した。 そして、円卓の向こう側で、歴戦の老人たちが無言のまま深く頷く。得体の知れない存在に対する現場の判断は、全権を委任した不敗の魔術師に託すという意思表示であった。
ヤンも無言で頷き返し、背後に控える頼もしい部下たち――緊張した面持ちの金剛、知的好奇心に目を輝かせる明石、そして胸を張る小さな妖精へと振り返った。
「行こうか。金剛、明石、それに妖精さん」
ヤン・ウェンリーは制帽を被り直し、静かな、しかし歴史の深淵を覗き込むような用兵家の瞳で告げた。
「神様の悪趣味な手品のタネあかしと……我々の新たな『客人』との対話の時間だ」
■
地下の独房へと足を運んだヤン・ウェンリーを待ち受けていたのは、軍事施設の冷ややかなコンクリート壁にはおよそ似つかわしくない、極めてシュールな光景であった。
鉄格子の向こう側、簡易的なベッドの上にちょこんと腰を下ろしていたのは、どう見てもうら若き人間の女の子であった。それも、ただの少女ではない。彼女は上半身にセーラー服の襟部分だけを身につけ、その下には、旧世紀の公教育機関で水泳用に用いられていたという極めて実用性の高い、しかし戦場には全く不釣り合いな紺色の水着――いわゆる「スクール水着」を着用していたのである。
歴史家であるヤンは、かつて古い文献でその衣服の存在を見た記憶があった。しかし、なぜ深海の怪物から生まれ落ちた兵器たる存在が、そのような旧世紀の体育用衣類を身に纏っているのか。
(……どういうセンスなんだ。この世界の造物主(神)というやつは、艦船を女性にするだけでなく、女子供から妙齢の女性までに変換したうえで、このような衣装を着せるなど……。一体どれほど悪趣味で偏執的な審美眼をしているのだろうか)
ヤンは脳内で、見えざる神の精神構造を盛大にこき下ろしながら、しかし表面上は極めて穏やかな、どこか気の抜けた青年の顔を作って鉄格子の窓越しに声をかけた。
「やあ、初めまして。言葉は話せるかい?」
すると、その少女は警戒するでもなく、むしろ人懐っこい犬のようにパッと顔を輝かせてこちらへ駆け寄ってきた。
「伊168よ」
「……伊168?」
「何よ、言いにくいの? じゃあ、イムヤでいいわ……よろしくねっ!」
無邪気に、そして極めて快活に挨拶をしてのけた彼女の姿は、どう見ても深海の暗闇から生まれた怪物には見えなかった。むしろ、夏の海辺ではしゃぐ健康的な少女そのものである。
「私はヤン・ウェンリー。しがない歴史家だ。ええと、イムヤは……我々と同じ艦娘、ということでいいのかな?」
ヤンが慎重に問いかけると、イムヤと名乗った少女は、心外だとばかりに腰に両手を当てて胸を張った。
「見てわからない? れっきとした艦娘よ! 誇り高き伊号潜水艦なんだから!」
彼女の屈託のない宣言を聞き、ヤンは後ろに控えていた金剛と明石を振り返り、ボサボサの頭を掻いた。
「……これは参ったな。本人は至って真っ当な自我を持っているようだ」
ヤンは再びイムヤに向き直り、極めて真摯な口調で現状を説明し始めた。
「気を悪くしないで聞いてほしいのだが、君は昨日、我が軍の駆逐艦が撃破した『深海棲艦の潜水艦』の残骸から発見されたんだ。敵の骸から君が生まれたという事実がある以上、我々としては、君が本当に味方であるかどうかを調べさせてもらわなければならない。君を傷つけるつもりはないが、協力してもらえるかい?」
ヤンの包み隠さぬ、しかし誠実な説明を聞いてイムヤは一瞬だけ目を丸くしたが、やがて小さな溜息を吐いて頷いた。
「そういうことなら、仕方ないわね。私だって、自分が敵の残骸から出てきたなんて言われたらびっくりするもの。……いいわよ、調べて頂戴」
「助かるよ」
ヤンは短く礼を言い、憲兵に独房の扉を開けさせた。万が一の事態に備え、戦艦である金剛が一歩前に出てヤンを庇うように立ち、その隙に工作艦・明石が、様々な計測機器の詰まった工具箱を提げてイムヤの前に進み出た。
「それじゃあ、ちょっと失礼しますね。痛いことはしませんから、力を抜いていてください」
明石は手慣れた様子でイムヤの周囲を回り、彼女の背部や腰に接続されている機械的な艤装を調べ始めた。先ほどの執務室での推論通りであれば、彼女の持つ『依り代(装備)』の規格――すなわちメートル法などの日本規格が確認できれば、彼女は深海棲艦ではなく、間違いなく艦娘であるという証明になる。
しかし、数分間の沈黙の後、明石の表情から徐々に余裕が消え、明らかな焦燥の色が浮かび始めた。
「……あれ? おかしいですね……」
「どうした、明石」
「その……ヤン提督。彼女、『装備の依り代』を一つも持っていません」
明石が顔面を蒼白にしながら告げた事実に、ヤンは眉をひそめた。
「依り代がない? それはつまり……?」
「装備スロットが完全に『空』の状態なんです。主砲も、魚雷も、何も持たずに顕現しているんです。……これでは規格の確認ができません。ということは……」
明石は冷や汗を拭いながら、極めて重苦しい結論を口にした。
「味方かどうかはともかくとして、彼女が『艦娘』であるかどうかも、現状では不明です」
その身も蓋もない明石の診断結果に、最も激しく反応したのは、検査を受けていたイムヤ本人であった。
「ちょっと! ひどくない!?」
イムヤは顔を真っ赤にして明石に食ってかかった。
「私、さっきから艦娘だって言ってるじゃない! 装備がないのは、生まれたばっかりだから仕方ないでしょ! 敵扱いするなんてあんまりだわ!」
抗議の声を上げるイムヤに対し、ヤンがどう仲裁に入るべきか思考を巡らせたその時。それまで静かにヤンの護衛に徹していた金剛が、極めて冷静な、しかし歴戦の戦艦としての威厳に満ちた声で間に割って入った。
「落ち着くのデス、イムヤ」
金剛はイムヤの前に進み出ると、いつもの陽気な顔からは想像もつかないほど、大人びた、そしてどこか哀愁を帯びた瞳で彼女を見下ろした。
「ワタシたちだって、アナタのような小さな女の子を疑いたくはないデス。できれば今すぐにでも、手を取り合って歓迎のハグをしたい。……けれど、ワタシたちはこの海で、見えない敵の罠によって数え切れないほどの仲間を失ってきたのデス。提督の命と、鎮守府の皆の命を守るためには、念には念を入れなければなりまセン。……わかるでショ?」
それは、深海棲艦の侵攻初期から生き残り、数多の死線と理不尽をくぐり抜けてきた軍艦の艦娘だからこそ持つ、重い説得力であった。金剛のその悲痛なまでの覚悟と優しさに触れ、イムヤの怒りの矛先は急速に萎んでいった。
「……はい」
イムヤは少ししゅんとして肩を落とし、納得したように頷いた。自分を疑う彼女たちもまた、決して悪意からそうしているわけではないと、本能で悟ったのだろう。
理論的アプローチが破綻し、現場に重苦しい空気が漂い始めたその時である。明石の頭の上に座っていた小さな『妖精さん』が、トンッと軽やかな動きで床に飛び降りた。
妖精さんはテケテケと短い足でイムヤの元へ歩み寄ると、彼女の周囲をぐるぐると回り始めた。そして、イムヤの腰のあたりに接続されている潜水艦特有の艤装をコンコンと小さな手で叩き、さらにはイムヤの足から背中へとよじ登り、まるで熟練の工廠長が新車のエンジン音を確かめるような手つきで、彼女の頭の先からつま先までをくまなく調べ尽くした。
「あの……このちっちゃい子、何してるの……?」
「動いちゃ駄目よ。彼らはこの鎮守府の技術の最高権威なんだから」
困惑するイムヤを明石がなだめながら見守ること数分。やがて、イムヤの頭のてっぺんへとよじ登った妖精さんは、満足げにウンウンと頷くと、ヤンの方を向き、短い両腕を頭の上で大きく交差させ、見事な「丸(〇)」のサインを作ってみせた。
「……ヤン提督。妖精さんが『合格』を出しました」
明石が呆気にとられたような声で通訳する。
「味方で確定、ということかい?」
ヤンが確認するように問うと、イムヤの頭の上にいる妖精さんは、首がもげるほどの勢いで全力で縦に頷いた。
工業規格も、論理的推論も及ばない領域において、この世界を構成するオカルトのシステムそのものである妖精たちが「彼女は味方だ」と保証したのである。これ以上の確たる証明証は、歴史上のいかなる文献にも存在しないだろう。
「……やれやれ。科学の敗北と、神学の勝利というやつだな」
ヤンは深い溜息とともに肩を竦め、しかしその表情には、明らかな安堵の笑みが浮かんでいた。
「ま、妖精さんがそう言うのなら大丈夫だろう。私のちっぽけな猜疑心など、彼らの審美眼の前には何の役にも立たないからね」
ヤンはイムヤの前に歩み寄り、改めて、一人の人間として真っ直ぐに手を差し伸べた。
「疑って済まなかった、イムヤ。君は間違いなく、我々の大切な仲間だ。横須賀鎮守府へようこそ」
「……うんっ! よろしくね、提督!」
イムヤはパッと顔を輝かせ、ヤンの手を両手でしっかりと握り返した。その手は、深海の怪物から生まれたとは思えないほど、温かく、生命力に満ちていた。
「ひとまず、こんな薄暗い独房からはおさらばしよう。司令室に来たまえ。歓迎の印に、私自慢の美味しい紅茶を出そう」
「わぁ、紅茶! 私、甘いのがいいな!」
緊張の糸が完全に解け、ヤンとイムヤが和やかに歩き出す背中を見送る金剛と明石。
論理とオカルトが入り混じるこの狂った世界において、また一つ、不敗の魔術師の陣営に新たな、そして極めて特異な手札が加わった瞬間であった。そしてこの海中からの使者が、後の戦局においていかなる盤面をひっくり返すことになるのか、この時のヤンはまだ知る由もなかった。