ヤン・ウェンリー提督の艦これ日誌   作:灯火011

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それからそれから

「……で、まぁ、その秘密の艦船やら、縁とやらを知るには、そちら側――つまり軍の機密領域に足を踏み入れねばならないというわけですかね」

「はい」

「……御免こうむりたいところだ」

 

 ヤンは即座に両手を上げ、降参のポーズをとった。歴史の傍観者たる彼にとって、最前線の機密情報など、自身の平穏な年金生活を脅かす最悪の猛毒でしかない。だが、ヤン・ウェンリーという男は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という、彼自身にとって極めて厄介な欠点を持っていた。

 

「が。一つだけ聞こう。君の客観的な目で見て、この戦線はあとどの程度持つ?」

 

 ヤンの声から微かな弛緩が消え、大淀は背筋を正した。彼女は一切の感傷を交えず、きっぱりと言い切った。

 

「一か月」

 

「短いな。理由は?」

「シーレーンの限界です」

 

 大淀は手元の歴史書の上に、仮想の海図を描くように視線を落とした。

 

「現在は諸外国から重油が届いています。しかし、敵――深海棲艦の侵攻により、いよいよ輸送船団自体が直接攻撃を受け始めておりまして。このまま有効な反攻作戦が打てなければ、一か月もしないうちに海運は完全に封鎖されることでしょう。我が国は、干上がるしかありません」

 

「そうか。ちなみに、今の君たちの、横須賀の戦力構成は?」

 

「……まともに動ける駆逐が四枚、軽巡が二枚……あとは()()加えれば三枚ですが、これは基地の防衛がありますから、数には入れられません。戦艦と空母も一隻づつ在籍はしていますが、現状は駆逐と軽巡の入渠修理を最優先としているため、大型艦は補給も修復もできていない、事実上の置物です」

 

 その報告に、ヤンは皮肉な笑みを浮かべそうになるのを必死に堪えた。大型艦を動かす資源がなく、小回りの利く小型艦だけを酷使して戦線を維持する。それは戦術の選択ではなく、貧者の足掻きであった。

 

「となると―――、普段はそのうち、駆逐二枚、軽巡一枚で部隊を回し、()()()()()が鎮守府の護衛の要……。つまりは、二交代制でシーレーンの護衛に当たっているのかね?」

「いえ、それはあくまで近海警備だけの話です。シーレーンの防衛は各鎮守府からの合同部隊で、なんとか軽巡四枚、重巡洋艦一枚、軽空母一枚をかき集め、台湾近辺まで護衛。その先は中国海軍、更にその先はヨーロッパ方面の部隊がリレー形式で担当しております」

「……薄いな。紙切れよりも薄い」

 

 ヤンは顔をしかめた。その広大な海域を護衛するには、絶望的なまでに手駒が足りていない。

 

「はい。交代要員も今はほぼおりません。他の軽巡が損傷していた場合は私も前線に出ますが、焼け石に水ですね」

 

 力なく苦笑する大淀の姿に、ヤンはゆっくりと頭を掻き毟った。彼の脳内で、盤上の駒がカチャカチャと音を立てて再配置されていく。

 

 足りない戦力、維持できない補給線、圧倒的な敵の物量。

 

 ヤンがこれまで幾度となく直面してきた、「戦略的敗北を、戦術的奇策で糊塗する」ための最悪なパズルである。

 

(まともに正面からぶつかれば、一瞬で磨り潰される。だが、敵の目的が『通商破壊』ではなく『完全な制海権の掌握』であるなら、あえてシーレーンの一部を隙だらけに見せかけ、敵の主力を限定された海域に誘い込むことは可能か……?)

 

 ヤンの黒い瞳の奥に、不敗の魔術師としての冷徹な光が宿る。それは、彼自身が最も忌み嫌いながらも、誰よりも得意とする「理不尽な勝利の計算」が始まった合図であった。

 

 

「ではまずは、やはり大淀さんの言われる通り、南方海域の制海権を完全に取り切るのが定石であり、吉でしょうね」

 

 ヤン・ウェンリーは、まるでチェスの序盤の定跡を語るような気負いのない口調でそう言い、微かに笑みを浮かべた。机の上に積まれた中国史の分厚い書物を仮想の海図に見立て、その表面を指先で軽く叩く。彼の脳内では、すでに幾通りもの兵站線(ロジスティクス)の構築と、それに伴う敵艦隊の遊撃ルートがシミュレートされていた。

 

 しかし、その提案を受けた大淀の表情は晴れなかった。彼女は眼鏡の位置を中指でわずかに直すと、慎重に言葉を選びながら首を振った。

 

「理屈の上ではその通りです。ですが……それは決して、簡単な事ではありません」

「まぁ、簡単ではないでしょうね」

 

 ヤンは同意し、ぼさぼさの黒髪を掻いた。

 

「戦争において『簡単なこと』があるとすれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()くらいです。ですが、不可能でもないはずだ。補給線を細く長く伸ばすのではなく、一定の海域ごとに絶対的な防衛拠点――いわば『点』を打ち、それを線で結ぶ。そのための戦力抽出と再編は、現在の書類上の数字を見る限り、ギリギリで可能だと思われます。……ちなみに、目下最大の障害となる敵の戦力配置はどうなっていますか?」

 

ヤンの問いに、大淀はわずかに言葉を淀ませた。まるで、これから口にする事実が、目の前の知的な青年の理性をひどく裏切るものであると自覚しているかのように。

 

「……近海をうろついているのは、主に駆逐艦クラスの敵群が多いです。ですが、その……」

「どうしたんだい?」

「……実は、横須賀の近海にある、我が国最大規模の……その……、『製油所』もすでに敵に占拠されておりまして。そこには、その……敵の『戦艦』が鎮座しているのです」

 

 その瞬間、ヤン・ウェンリーの思考は完全に停止した。彼はまばたきを数回繰り返し、目の前の大淀の顔と、自分の手元にある歴史書を交互に見比べた。そして、己の聴覚か、あるいは彼女の言語野のどちらかに致命的なエラーが発生しているのではないかと疑った。

 

「……いや、待ってくれ。製油所って、君……」

 

 ヤンは思わず身を乗り出し、声を潜めながらも切迫した調子で問い詰めた。

 

「そこにある日本最大の製油所といえば、文字通り我々の『すぐそこ』じゃないか。東京湾の入り口か、せいぜい房総半島の先といった距離感だろう? そんな目と鼻の先まで敵の主力級に攻め込まれて、よくこの鎮守府は今日まで無事で……」

 

 言いかけて、ヤンは大きなため息と同時に言葉を飲み込んだ。過去の愚行をあげつらっても、未来は一ミリも好転しない。同盟軍の統合作戦本部の無能を嘆く暇があるなら、今手元にあるカードで最善の策を練るべきだ。それは彼が幾度となく経験してきた「敗戦処理」の鉄則であった。

 

「……いや、それを今言っても仕方がないか。愚痴をこぼすのは酒場の特権にしておきましょう。つまり、事態は私が想定していたよりもさらに二回りほど悪辣(あくらつ)だということですね」

 

 ヤンは椅子に深く背中を預け、天井を仰ぎ見た。

 

 首都の喉元に敵の戦艦が居座り、しかも自軍の生命線であるはずの製油所を占拠されている。これでは南方海域への進出どころの話ではない。玄関口に凶暴な野犬が居座っているのに、裏庭の家庭菜園の手入れに行こうとするようなものだ。

 

「それで、相手はその製油所を要塞化し、戦艦を中核とした防衛陣地を敷いているというわけですか。ですが……逆に言えば、そこを抜きさえすれば、我々は喉から手が出るほど欲しい『製油所』を取り返せる、更に言えば、南方への足がかりが固まると?」

「はい」

 

 大淀は、力強く、きっぱりと言い切った。その声には、死地に赴く覚悟と、わずかながらも現状を打破しようとする切実な希望が混ざり合っていた。

 

「なるほど。目下、まずは足元固めからやらねばならないというわけだ。南方への大遠征を企図する前に、まずは自分たちの財布を取り返せ、と」

 

 ヤンはぼやきながら、再び思考の海へと深く潜っていった。戦術的目標は明確になった。近海の製油所奪還作戦。敵は戦艦を含む強力な防衛部隊。対するこちらは、疲弊しきった駆逐艦と軽巡洋艦数隻。まともに正面から撃ち合えば、良くて全滅、悪ければ全滅した上に製油所ごと吹き飛ばされて終わるだろう。

 

 正攻法が通用しないならば、奇策しかない。敵の索敵網の穴を突き、圧倒的な火力を無力化し、最小限の被害で目標を奪取する。そのためには、自分たちの手元にある「駒」の性能を、極限まで正確に把握する必要があった。

 

 ヤンは姿勢を戻し、大淀の理知的な瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

 その眼差しは、もはや「休日に図書館で暇を持て余している臨時文官」のものではなかった。数万の艦隊を指揮し、幾度も絶望的な状況を覆してきた「不敗の魔術師」の顔が、そこにはあった。

 

「状況の酷さはよくわかりました。……あとはそうだな、その『新型艦』――君たちが使っている特殊な駒の特徴を、詳しく教えてくれたまえ」

 

 ヤンは、まるで興味深い歴史的遺物の構造を尋ねるような、穏やかだが有無を言わさぬ響きで言った。

 

「いかに優れた戦略や作戦図を描こうと、それは所詮『絵に描いた餅』にすぎない。実際に海に出て、敵の砲火をかいくぐり、弾を当てるのは現場の兵器です。その新型艦の速力、旋回性能、装甲の厚さ、火力の限界、そして何より『どのような運用思想で設計されているのか』。その性能と限界がわからなければ、戦術の立てようもありません」

 

 大淀は、目の前の青年の変化に息を呑んだ。物理的に背筋が伸びたわけでも、声が大きくなったわけでもない。ただ、彼から発せられる空気が、一瞬にして「知的な傍観者」から「戦場の支配者」へと変貌したのだ。

 

「私からの質問は以上です、大淀さん。思考実験の前提条件として、出せる範囲のデータで構いません。私に、君たちの『手札』を教えてもらえませんか?」

 

 静かな図書館の一角。積まれた歴史書の陰で、ヤン・ウェンリーはいよいよ、この得体の知れない世界における初めての「作戦立案」へと足を踏み入れようとしていた。

 

 

「名は、艦娘(かんむす)。人と同じサイズの、戦闘艦です。建造された艦娘は、おしなべて、女性です」

「……ん? ええと?」

「新型艦のご説明、ということでしたので」

「あー……、その『新型艦』というのは……つまり、女性たちが、軍艦そのものの武装と装甲を身に纏い、水上を滑走して砲雷撃戦を行う、ということですか」

 

 ヤンは自分の口から出た言葉のあまりの非現実性に、思わず自嘲の笑みを漏らした。

 

「いやいや。そもそも人間と同じサイズの戦闘艦……? しかも、戦闘艦でありながら、人のサイズで、女性で、数万トンの質量を持つ軍艦並みの性能を発揮する? いくら何でも、人を揶揄うにも程が……」

 

 そこまで言いかけて、ヤンは口をつぐんだ。大淀の理知的な瞳には、冗談を言っているような茶目っ気も、狂気に当てられたような濁りも一切なかったからだ。彼女は極めて真剣に、物理法則を嘲笑うような軍事機密を語っている。

 

 ヤンは小さく咳払いをし、崩れかけていた姿勢を正した。

 

「……失礼。思考実験の前提条件でしたね。ひとまず、話は最後まで聞きましょう」

 

 ヤンの態度軟化に、大淀はわずかに安堵の息を吐き、そして、さらに決定的な事実を口にした。

 

「何を隠そう、私もその『艦娘』の一人なのです」

 

 ヤン・ウェンリーは、今度こそ完全に言葉を失った。

 

 彼の視線は、目の前に座る女性を上から下まで、失礼にならない程度に、しかし明らかな動揺をもって観察した。清潔感のある白いブラウス、知的な眼鏡、柔らかな物腰、そして微かに漂う柑橘系の香り。どこからどう見ても、教養のあるうら若き、美しい女性にしか見えない。

 

 これが、鋼鉄の装甲を持ち、火薬を爆発させて敵を打ち砕く「軍艦」だというのか。

 

「……君のような美しく聡明な女性が、艦船だと? 君自身が?」

「はい。軽巡洋艦、大淀。それが私の『本来の姿』です」

「…………」

 

 ヤンと大淀の間に、数秒の、いや、ヤンにとっては数時間にも感じられる重苦しい沈黙が降りた。歴史の波を乗り越えてきた不敗の魔術師の柔軟な思考力をもってしても、このオカルトじみた現実を飲み込むには少々の時間を要した。

 

「……まぁ、うん。わかりました。盤面のルールとして受け入れましょう」

 

 ヤンはついに降参したように額を押さえ、強引に話を戦術論へと引き戻した。

 

「で、その『艦娘』の性能は? サイズが人間大であることは理解しました。では、火力、装甲、速力、航続距離は?」

 

「サイズ以外は、かつての艦船そのままです」

 

 大淀の簡潔な答えに、ヤンは、

 

「そのまま、か」

 

 と呟き、深い思考の海へと沈み込んだ。常識的に考えればあり得ないが、もしそれが真実であるならば、戦術的価値は計り知れない。巨大な的であるはずの軍艦が人間サイズにまで極小化されているのだ。被弾面積は劇的に縮小し、隠密性は飛躍的に向上する。

 

(なるほど。それならば勝機はある。敵が従来通りの巨大な艦艇であるならば、その極小サイズを活かしてレーダー網や目視を掻い潜り、夜暗に乗じて懐に潜り込む。いわゆる夜戦での飽和雷撃を仕掛ければ、巨大な戦艦とて容易く沈められる……)

 

 ヤンの脳内で、一瞬にして鮮やかな「夜間奇襲作戦」の青図が引かれた。少ない手駒で巨大な敵を屠る、非対称戦の模範解答である。しかし、大淀の次の一言が、その完璧な青図を無慈悲に粉砕した。

 

「ちなみに、ヤンさん」

 

 大淀は、どこか申し訳なさそうに、しかし戦術家としては正確に情報を付け加えた。

 

「敵である深海棲艦も、同じようなものです。基本的には人型サイズの艦船だとお思いください」

 

 ヤン・ウェンリーは、完全にフリーズした。手に持っていた万年筆が、ポトリと音を立てて机の上の歴史書に転がり落ちる。

 

「……サイズが、同じ?」

「はい。巨大な怪物のような個体も存在しますが、主力を担う巡洋艦や駆逐艦、そして先ほど申し上げた製油所を占拠している『戦艦』も、基本的には我々と同じ人型サイズです」

 

 ヤンの脳内に構築されていた戦術プランが、音を立てて崩れ去っていく。

 

 こちらが極小の的であるという最大の「非対称の優位性(アドバンテージ)」は、敵も同じサイズであるという事実によって完全に相殺された。同じサイズ。同じかそれ以上の火力。そして圧倒的な物量差と、兵站の枯渇。

 

 これでは奇襲も夜戦も、単なる「同じ条件での殺し合い」に成り下がる。純粋に数の暴力を持つ側が勝つ、最も原始的で、最もヤンが忌み嫌う力押しの消耗戦だ。

 

「……やれやれ。神様とやらがいらっしゃるのなら、ずいぶんと悪趣味な盤面を用意してくれたものだ」

「私もそう、思います」

 

 大淀の相槌を受けながらヤンは深く、ひどく長いため息をつきながら、万年筆を拾い上げた。

 

 戦力は極小化され、敵も同等の条件。なにより頼みの綱の兵站は一ヶ月で尽きる。

 

「さて、どうしたものか……」

 

 不敗の魔術師は、いまだかつてないほど理不尽な思考実験の泥沼の中で、ボサボサの頭を再びガリガリと掻き毟り始めたのだった。

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